‥‥‥‥‥‥‥not-2
麻衣は、アスファルトの上に膝を付いた。 そして、顔を覆った。
「‥‥‥ごめんなさい」
誰に謝罪したのか、麻衣本人にも分からなかった。
NOT CLEAR〜曖昧な/割り切れぬ/2〜
その交差点は、いつも、人気がなかった。 そして、時折、なんとなく異和感を感じていた。
----------寂しい。
ただ信号待ちをしているだけなのに、唐突に、胸の中に、泣き出したくなるような痛い思いが満ちてくるのだ。理由はない。脈絡もない。 ただ、ただ、
----------寂しい。
もしももっとはっきり形があれば、別の思いであれば、気が付いたかもしれない。だが、その思いは、なんの無理もなく心と重なってしまったのだ。
帰路を急ぐ小学生たちを見たから、だろう。 今日は、誰も遊びに来なかったから、だろう。 今日は‥‥‥。
色々と理由を付けてしまえば、それは、日常に埋没するささいな思いでしかなかった。その思いに拘泥してしまえば、立ち止まり、歩けなくなると分かっていたから、なおさらに、深く考えないようにしていた。 それでも、なんとなく、その交差点は避けていた。そう、本当に、なんとなく。 だが、その日は、たまたま遅刻しそうだったから、近道のつもりで通った。 帰宅途中の小学生たちと一緒に信号待ちをするのは、珍しいことではない。 通学路に指定されているのだから、居て当然である。 だが、その日は、なにかが違った。 空気の色が。
「あーあ、うちに帰りたくないなぁ」 「分かる分かる。勉強しろってうるさいんだよな」 「ほんと、うざいよな」
ありふれた会話だった。 あまりにもありふれていた。 本当に帰りたくないわけではないだろうし、生活能力のない幼い彼らに選択権はないに等しい。 だが、分かっていても、
------------いいな、
と、羨む気持ちは止められなかった。 うちに帰れば当たり前のように誰かが居て、口うるさく構ってくれる贅沢さは、喪って見なければ分からない。喪っていない幸運な子供たちは、誰もが消えて、本当にただ一人で生きるということを、知らない。想像したこともないかもしれない。
分かって、いる。
羨むことは容易い。だが、誰にでも、辛いことはある。家族が居ても、寂しい人が居る。近ければ近いほどに憎悪を抱くこともあるのだ。 けれど、それでも、いいな、と思った。 その瞬間、真っ黒な闇が、ずどん、と落ちてきた。羨む心が淀んで固まった憎悪が。 そして、声が響いた。
----------ならば、帰らなければいい。
なにも知らない幸福を憎みながら、わき出す害意が、膨れ上がる。 そして、誘い出す。 ほんの、僅かな、距離を。 けれど、決して、後戻りできない道を。
麻衣がそれの意図に気が付いた時は、すべてが遅かった。
※
「‥‥‥気が済んだか」
不意に、低い声が、後ろから響いた。 麻衣は、びくり、と肩を震わせる。 振り返らなくても、声の主が誰なのか、分かった。どうしてここに居るのか、誰に聞いたのかも、分かっている。 ここに来ることを知っているのは、一人だけだ。
『‥‥‥彼は、もう、無理だよ』
ジーンは、ここに来ることを止めた。 麻衣が傷つくだけだから、と。 それは、分かっていた。感じていた。 救いなど欠片も求めていない魂は、光を見ない。 麻衣ができるのは、光を求める魂に道を指し示すだけ。 ただ、それだけなのだ。 けれど、彼は、もう、なにもかもを拒絶していた。 ジーンも幾度か接触を試みたが、駄目だった。 そういう魂もあるのだと、麻衣は知っていた。 変容し、固まり、ただ生者に害を為すだけの存在も居る、と分かっていた。けれど、もしかしたら、という希望は捨てきれない。
----------寂しい。
ここを通る度に感じていた思いが、彼の思いならば。彼は、確かに、寂しい辛さを知っているのだから。 だから‥‥‥‥‥‥。
「帰るぞ」
ぽん、と頭を叩かれる。 とても簡単に、一番欲しい言葉をくれるナルを、麻衣は振り返る。 すでに、ナルは、背を向けていた。 「‥‥‥ナル、お願いがあるの」 「なんだ?」 鬱陶しそうに振り返る眼差しに負けたくないので、麻衣は睨み返す。 「背中、貸して」 「‥‥‥」 「貸してくれたら、帰る」 こんなお願い、聞いてくれるわけがない。 そう分かっているのに、言わずには居られなかった。 ナルは吐息を吐き出して、再び、背を向ける。 (‥‥‥やっぱり) 当たり前なのに辛くて、麻衣は目を伏せた。 だが、
「‥‥‥好きにすればいい」
ぽつり、と抑揚のない声が、夜に紛れる。 その声を聞いた途端、麻衣は、駆け出した。
|