‥‥‥‥‥‥‥not-1

 

 

 

 

 たとえば、それは、過ちだったのか。

 答えは、分からない。

 たぶん、永遠に迷いつづける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 NOT CLEAR〜曖昧な/割り切れぬ/1〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜、世界は静まり返っている。

 普段から人通りの少ない道を、麻衣は、一人で歩いていた。

 その横顔は、ただ前を向いている。

 たどり着いた先は、あの、交差点だった。

 明滅を繰り返す信号機の下には、幾つもの花束が置いてある。菓子袋なども供えてあった。

 それらを見やり、麻衣は、目を細めた。

 なにかを堪えるように、唇を噛み締める。

 そして、鳶色の眼差しを、境界へと向ける。

 こちら側でもあちら側でもない、狭間へと。

 

 

 

 

「‥‥‥どうしてあんなことをしたの?」

 

 

 

 

 柔らかな声が、密かに、響く。

 

 

 

 

「そこに、孝くんも居るの?」

 

 

 

 

 密かな声は、夜の闇に溶け、暗がりからなにかを誘い出した。

 なにかは、小柄な、いびつに膨れ上がった顔をした少年の姿をしている。

 その後ろには、同じ年頃の、青い服を着た少年が、泣きそうな顔で隠れている。

「‥‥‥やっぱり、ここに、居たんだね」

『なんの用?』

 膨れ上がった顔を歪ませて、少年は尋ねた。

「孝くんを、ここから、出してあげて」

『‥‥‥』

「みんな、待ってるの。孝くんが帰って来るのを」

『‥‥‥帰りたくないって言った』

「いまも?」

『‥‥‥‥‥‥』

「お母さんが、泣いてるの。待ってるの。だから、帰してあげて。孝くんと一緒に居ても、あなたは寂しいままだよ。こんな所に居たら、寂しいままなの」

 少年は答えない。

 暗い目をして、ただ、にらみ返すだけだ。

 

(‥‥‥真っ暗だ)

 

 麻衣の目には、少年の周囲は黒く黒く塗りつぶされて見えた。

 夜の闇よりなお深い暗がりが、少年をすっぽりと包んでいる。その暗がりは、仄かに白く光っている後ろの少年も飲み込もうとしていた。

 それだけは、させられない。

 絶対に、させない。

 そう決めて、麻衣は、ここに来た。

 本当の意味で、少年が家に帰ることはない。

 彼は、死んだ。

 それは、誰にも、覆すことができない。

 けれど、いつかは会える場所に還ることはできる。

「‥‥‥お願い。帰してあげて。あなたなら、帰れない辛さが分かるでしょう?」

 どこにも帰る場所がないのは、辛い。

 帰る場所がある人が羨ましいのは、当然だ。

 帰れるのに帰りたくないと呟く人に、憎悪を抱くこともあるかもしれない。

 だからといって、帰る場所を奪うことは、赦されない。

 辛さが分かるのならなおさらに、そんなことをしては駄目なのだ。

「孝くんを帰して、あなたも帰ろう」

 少年は唇を歪めた。

 

『どこに?』

 

 帰る場所などない、と荒んだ目が語った。

 帰りたい場所もない、とますます色を濃くする暗がりが教えた。

 そして暗がりが、囚われた少年を‥‥‥。

「駄目。孝くんを引きずり込まないで。‥‥‥放して」

『なぜ?帰りたくないと彼は言った。願いを叶えてやったのに』

「どうしてあなたが願いを叶えるの?あなたに叶えて欲しい、とお願いしたの?」

『‥‥‥願ったんだ、僕の横で』

「願うだけで叶えてくれるのなら、私の願いも叶えて。孝くんを帰してあげて。そしてあなたも、帰って。こんな寂しい所に居ないで、光の降り注ぐ場所に行こう。そこに行けば、あなたも、寂しい思いをせずに済むよ」

 少年は冷ややかな眼差しを、麻衣に向けた。

 その横顔に、少年と良く似た男の顔が重なった。

『‥‥‥なら、おまえが行けばいい。おまえも独りだ』

 麻衣は、目を見開く。

『おまえにも帰る場所がない』

「うん。昔は、そう思っていたよ。でもね、いまは、違う。帰る場所はないけれど、帰りたい場所ならあるし、ずっと一緒に居たい人たちも居る。あなたにも、いつか、見付かる。だから、ここから、離れよう」

 

 痛いほどの沈黙が満ちた。

 麻衣は、祈る。

 彼が、うなづいてくれますように、とただ祈る。

 孤独のままに死んだ者が、孤独に溺れてしまう前に、と。

 

『いやだね。どうしてそんな所に行く必要があるんだ?僕は、ここに居る。仲間をどんどん増やして、ここに居る。そうすれば、寂しくない』

 

 麻衣の願いは、嘲るような笑みと共に突き返された。

 そういう存在も居る、と分かっていた。

 変わることができない暗がりは確かに存在するのだ。あるいは、変容しきって、戻れない者も居る、と。

 そしてそれを放置することは、できない。

 

「‥‥‥お願い、孝くんを帰してあげて下さい」

 

 少年は、いや、少年の姿をしていた男は、にんまりと笑った。

『いやだ』

 麻衣は手を組む。

「‥‥‥ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」

 男は、後ろにのけぞった。

 麻衣は素早く三度、真言を唱えて、剣印を結び、男に突きつけた。途端、男の周囲を囲んでいた暗がりが崩れ、薄れていく。

「孝君!逃げて!」

 叫びと共に、少年が、逃げ出した。

 まるで、誰かに、手を引かれるように、駆けていく。

 それを見送った麻衣は、晴れやかな笑みを浮かべた。暗がりに倒れ伏す男の憎悪を一身に浴びながら。

 

 

 

 

「臨、兵、闘、者、皆、陳、烈、在、前!」

 

 

 

 

 叫びと共に、麻衣の指が、ねっとりと重みのある空気を裂く。指先から、放たれたなにかが、暗がりを裂いて、男を裂いた。

 容赦なく、的確に。

 そして、男は、消え去った。

 あちら側に渡ることも、安らぎを得ることもなく、ただ、消えた。

 

 

 

 

 

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