‥‥‥‥‥‥‥not-0
突然の衝撃を、 叩きつけられて、 身動き一つできない。
確かに見たはずなのに、 記憶が、 すでに、 曖昧になっている。
----------ドンッ‥‥‥。
鈍い音が一つ。 ただそれだけが、響いた。
NOT CLEAR〜曖昧な/割り切れぬ/0〜
電話を、彼が受け取ったのは、偶然でもなんでもなかった。受け付け係のバイト娘が無断で遅刻した為である。 『どうしよう‥‥‥』 彼、ナルは、眉間に皺を寄せた。 名乗りもせずに意味不明なことを言い出したのは、無断で遅刻しているバイト娘であった。しかも、声が、掠れている。 『ナル、私、どうしたらいいの?』 声だけで、激しく動揺していることが分かる。 だが、流石に、どうしてなのかは分からない。 ただ、いまの麻衣では話にならないことは分かる。 「‥‥‥側に、誰か、居るか?」 『うん。居るよ』 「‥‥‥代わってくれ」 『‥‥‥‥‥‥‥‥‥うん』
電話を代わった女は、高見、と名乗った。 菊井総合病院の高見、と。
※
ふっくらとした優しそうな女の人が、なにか話している。 電話の相手は、ナル。 なにを話しているのかは、良く、分からない。 さっきから、あの時から、頭のどこかが麻痺してしまったようで、うまく動かない。ただ、早く、帰りたかった。 (どこに?) どこに帰っても、どうしようもないことだと、理解しているのに。あの子が、死んだことは、誰にも覆せないのに。
「すぐに迎えに来てくれるって。良かったわね」
不意に、視界に、女の人が入り込む。 優しい労るような眼差しを向けてくれる。 「‥‥‥ごめんなさい。迷惑をお掛けして」 「謝る必要なんてないわ。仕方のないことだもの」 そう、仕方のないことだ。 信号は赤だった。 車がたくさん走っていた。 そこに飛び出せば、跳ねられて当然なのだ。
信号が赤になったら、止まれ。 そこから動いてはいけない。
痛い思いをしたくなければ、死にたくなければ、それは守らなければならないルールだ。 あの子はそれを破った。 だから、跳ねられた。 その瞬間を麻衣は見ていない。 ただ、脇を、なにかが通り過ぎた、と思った瞬間に鈍い音を聞いた。 そして、後には、ただ、車に跳ねられた、小さな体が、残された。
それからのことは、良く、覚えていない。 ただ、そこに居た大人は、麻衣だけだった。 だから、子供たちの泣き声に急かされるように、救急車を携帯で呼んだ。 そして、指示されるままに、子供の状態を見て、伝えて‥‥‥。 子供が、すでに、息絶えていることを知った。 車は、そのまま走り去ってしまって、戻って来なかった。 気づかなかったのだろうか、と考えて、麻衣は首を横に振る。 気づかないわけがない。 あんなに、音が、響いた。
----------ドンッッッ‥‥‥。
鈍く、低く、けれど、確かに、響いた。 命の消えた音が。
信号が赤になったら、止まれ。 そこから動いてはいけない。
そのルールを破ったのは、死んでしまったあの子。車を運転していた人は、子供を跳ねたくなどなかっただろう。 いまも、どこかで、罪に震えているのかもしれない。 だが、麻衣は、知っている。 ルールを破ったのは、死んでしまったあの子ではないと。ルールを破ったのは‥‥‥。
「------麻衣」
低い声で名を呼ばれて、麻衣は振り返る。 そこに、呼びつけたのに、来てくれるとは思えなかった青年の姿を見つけた。
「ナル‥‥‥ごめんね」
ナルは、不愉快そうに眉間に皺を寄せた。 当然だ。仕事を無断で遅刻しただけではなく、いきなり、訳の分からない電話を掛けて、呼びつけてしまったのだから。 だが、あの時、他の人に電話を掛ける気にはなれなかった。 飛んできて慰めてくれるおとーさんでも良かったし、飛んできて励ましてくれるおかーさんでも良かったはずなのに。 こういう時に遠慮したら怒る優しい人たちの顔が浮かばなかったわけではない。けれど、冷たくあしらわれることさえ覚悟して、縋ったのは、ナルだった。 不思議だ。
「‥‥‥なにが不思議なんだ?」 「‥‥‥」 考えていたことが、声に出ていたらしい。 だが、不愉快そうに問われても、答えに困る。 自分でさえ分かっていないのに。 良く分からないのに。 「わかんない‥‥‥」 正直に言うと、呆れ果てた目で見下ろされる。 だが、頭に手が乗せられて、ぽんぽんと軽く叩かれた。 「頑張ったな」 なにを頑張ったというのだろうか。 訳が分からない。 だが、なぜか、酷く、救われた気になる。 心が、軽く、なるような気がした。 「帰るぞ」 「‥‥‥うん」
ナルは、病院まで、タクシーで来ていた。 帰りも、勿論、タクシーである。 「‥‥‥‥‥‥」 贅沢者め、と言いたくなったが、黙る。 文句を言える立場ではない。 「さっさと乗れ」 「‥‥‥はい」 頷いて乗り込むと、やっと、息が出来た気がした。 もう誰も、側に、居ない。 麻衣の言葉を問題視する人は、誰も。 「‥‥‥‥‥‥声を、聞いたの」 隣のナルにだけ聞こえる小さな声で、麻衣は告げた。
「『青になったよ、渡ろう』」
それは偽りの言葉だ。 信号は赤だった。 「‥‥‥子供の声だったと思う」 ナルはなにも言わない。 その代わりに、俯いて泣き出した麻衣の頭に手を置いた。
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