tuki-2-4
柔らかな若木を、慈しむのは、本能に近いかもしれない。
二夜〜若葉の兆し4〜
そこは、静寂と呼ぶよりは、静謐と呼ぶが正しい空気が満ちていた。 見事な枝振りの、一目見て、精霊が宿っていると分かる大樹の前で、綾子は目を瞬いた。 そして、背後を、振り返る。 だが、背後に、道はない。 確かに歩いて来たはずの細い細い路地は、跡形もなく消えていた。 そして、目の前には、目鼻立ちの整った、長い黒髪の青年が立っている。 美形というものには慣れてしまった綾子でさえ、認めずには居られない美丈夫である。 「はじめまして」 声も、低く、落ち着きがあって、微かに甘い、美声である。 だが、残念なことに、彼は、人ではない。 けれど、出会えるのは、幸運なことである。 「はじめまして」 綾子は意図せずして、極上の笑みを返した。 このような場所で、このように力強い精霊と出会えたことに、心の底から喜んでいると、その笑顔が語っている。 「ご挨拶一つせず、このような場所にお招きして申し訳ない」 「いいえ、謝ることなどなにも。嬉しく思います。私に御用があるなら、なんなりと仰って下さい」 綾子は、常日頃の彼女しか知らぬ者ならば、腰を抜かすかもしれない典雅な微笑みを浮かべた。 纏う空気も、あまりに清々しい。 だが、巫女としての彼女を知る仲間たちなら、納得しただろう。 その神々しいまでの立ち姿は、精霊の力を借りて、迷い惑う哀れな者たちを導く時と、酷似している。 ただ、いまは、彼女の前に立つのが、迷い惑う哀れな者たちではなく、力に溢れ光りに溢れた存在である‥‥‥それだけが違っていた。 けれど、実際は、巫女を呼ぶ者とは、助けを求める者。 力と光に溢れようとも、巫女を欲する気持ちとは、さほど変わりがない、と綾子は知っていた。 だが、力と光を溢れさせた存在は、目を細めて綾子を見つめるばかりで、なかなか本題には入らない。 それほどに難しいことなのか。 それとも巫女としての資質を疑っているのか。 「‥‥‥難しいな」 吐息混じりの声に、綾子は、眉をぴくりと動かした。 「永い時を過ごしてきて、もはや、なにか望むことも、心残りを感じることもあるまい‥‥‥そう思って、こちらに別れを告げる気で居たのだが‥‥‥」 伏せられた切れ長の目に、長い睫毛の影が掛かる。 憂い深い表情に、意味不明な言葉に、綾子は目を瞬くことしかできない。 だが、敢えて、感想を述べるならば。 (‥‥‥随分と、人間くさい精霊ねぇ) と、いう辺りである。 惑う綾子の前で、精霊は、しばし、苦悶していた。 ああでもないこうでもない、と。 だが、綾子のほんの少し呆れの混じった視線に気が付くと、ぴしり、と姿勢を正す。そして、深い深い鮮やかな笑みを向けた。 「はっきり申し上げよう。貴女は、美しい」 いままで数え切れないほど誉められ続けた綾子である。 いまさらそんなこと言われても、心がさほど動くわけがないのだが‥‥‥。 (‥‥‥すっごい嬉しいかも) 緩む口元を抑えるのが大変なほど、嬉しかった。 なぜなら、彼らは、見目形を誉めているわけではないからだ。 まあ、多少は、混じっているかもしれないが、人とは根本的に美しさの基準が違うのだ。彼らが美しいと誉める時、それは、その存在のあり方が美しい、とそう言ってくれているのだ。 「‥‥‥有り難うございます」 笑みを返す綾子に、さらに深い笑みが返る。 「だが、貴女の美しさは刹那のものだ。それが、惜しい」 「‥‥‥」 「その美しさが時の流れで消え去るのは、あまりに、惜しい」 「‥‥‥」 「だから、一緒にあちらに渡って欲しいのだが‥‥‥」 瞬きを返すと、苦笑が返る。 「つまり、私は‥‥‥引退間近に貴女に一目惚れしてしまったのだよ」
※
ふよふよ漂う丸い光は、道先案内。 細い路地を歩きながら、綾子は、預かった若木に視線を向ける。 そして、心は、求婚を断ってしまった麗しい青年へと向けられて、吐息を引きずり出す。あまりに魅惑的な誘いで、断ったいまも、心が揺れるのを止められない。引き返して、前言を撤回するのは容易いだろうから、なおさらに。 もしも‥‥‥あり得ない可能性を考えるのは愚かかもしれないが、もしも、彼らと出会う前の自分だったら、迷いながらも、頷いたかもしれない。 両親や友達との間に、確かに、絆はあるけれど、望みの前には、脆い。 だが、いまは、彼らが居る。 奇蹟のような偶然で出会えた仲間たちが。 あちらに行けば、巫女としての自分は、認められるだろう。 だが、こちらに居れば、巫女としての自分も、巫女ではないいつもの自分も、どちらも受け入れてくれる場所がある。 巫女でなければ、精霊は、誘わなかっただろう。 そう分かっているから、いまは、頷けない。 それに、綾子にしかできない務めもあるのだ。 いま、預かった若木を、大切に大切に育てることも、その内の一つだ。 『‥‥‥街中にも、隠れている者たちは多いのだよ。人里離れた場所に逃げた者も多いが、私は、ここから離れる気にはなれなくてね。まあ、運良く、適応したということだが』 軽く笑って済ませるが、そんな軽い話ではない。 生きている木が減り続けるのを見続けた綾子にとって、こんな街中で、見事な枝振りの、光溢れるご神木は、本当に尊い。 『‥‥‥けれど、そろそろ私も、ここを離れる時が来た。丁度良く扉も開いたことだし、あとは、これに任せて、あちらに渡ろうと思うのだが‥‥‥これはまだ幼くて、不安でね。誰か、これがもう少し大きくなるまで見守ってくれる人は居ないかと‥‥‥ずっと探していたのだよ』 これ、と呼ばれたのは、青年と良く似た子供だった。 『‥‥‥なのに、貴女を見た瞬間に、いまさら‥‥‥惑うとは‥‥‥』 情けない、とこぼしながらも託された若木は、まさに、宝。 育て方次第では、神を自在に操ることもできるだろう。 もちろん、そんなことはしない。 大切に大切に育てて、必ず、この場所へと健やかな姿で帰すのだ。 そして、若木は、この街に根付き、誰も知らぬ場所で、この街を見守りつづけてくれるだろう‥‥‥。
------------びるるんっっ。
不意に、道先案内の光が、震えた。 柔らかな白い光が、赤く点滅する。 鋭い視線を、どこからか感じる。 大切な宝を守るように抱えて、綾子は周囲に意識を向ける。 途端、夜の暗がりから、なにかが飛び出した。
「あぎゃこぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっ!」
意味不明な絶叫を響かせながら。
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