tuki-2-5

 

 

 

 

 

 

 二夜〜若葉の兆し5〜

 

 

 

 

 

 

 

 寒波が、押し寄せていた。

 空調が完璧に管理されているはずの、彼、いや、彼らが住んでいるマンションの一室で、綾子は寒さに震えた。

(‥‥‥逃げたい)

 だが、綾子は、寒さに震えつつも、逃げることはしなかった。

 いや、できない、と言うべきか。

 傍らには、べそべそ泣き続ける麻衣が居る。

 張り付いているとも言う。

 逃げる為には、これを剥がして、置き去りにするしかないのだが。

 流石に、それは、できなかった。

 脳裏には、同じように逃げることができずに寒波に襲われつづけている馬鹿親の顔が浮かんでいる。馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ、と思いつづけていたが、いざ、その立場に立たされると‥‥‥逃げるのは難しいのだと思い知る。

 本当は、預かった若木を、早く、自分のマンションに連れて帰りたいのだが。

「‥‥‥まったく、仕方のない子ねぇ」

 べそべそ泣く麻衣の額をぴん、と弾く。

「だって‥‥‥」

「月夜に浮かれて出歩くなんて、馬鹿のすることよ」

「だって‥‥‥」

「これに懲りたら、ふらふら出歩くのはやめることね」

「‥‥‥うん、気を付ける」

 珍しい素直な反応は、それだけ怖かった、ということだ。

 路地の暗がりから飛び出して飛びついて来た麻衣は、最初はまともに話すこともできなかった。

 そして、ただ、怖い、怖い、と震えるばかりで‥‥‥。

 

『‥‥‥怖い‥‥‥怖いよぉ‥‥‥』

 

 がたがた震えながら縋り付く麻衣に、怪我はなかった。

 話をよくよく聞けば、最初は、なかなか楽しかったらしい。だが、帰ろうとして迷い込んだ先で、なにかに出会った、という。

 問題は、そのなにかを、麻衣が、忘れていることだ。

 ただ、怖かったことだけは覚えていて、逃げている時に、暖かな光が見えて、綾子だと分かって、飛びついたことだけは覚えていた。

(‥‥‥厄介なことにならなければいいけれど)

 不安は尽きない。

 だが、心配ばかりしていても、どうにもならないのも確かだ。

 そう、ここに居座り続けても、寒いだけである。

 とりあえずキッチンを借りてお茶でも、と綾子は立ち上がり掛けたが、麻衣がよりいっそう強くしがみついたので‥‥‥立てなかった。

「麻衣?」

「か、帰ったら駄目ぇぇぇぇぇぇ」

 泣き声である。

 そして視線は、先ほどから一言も話さず、だが、吹雪の源となっている青年に、ちらり、と向けられた。

「あ、綾子が帰るなら、私も、帰る〜」

 ますます強くしがみつく麻衣に、綾子は吐息を吐き出した。

 これでは動けない。

 その前に、寒さで凍死しそうだ。

「‥‥‥あんまり怯えさせると、逃げるわよ?」

 問いかけには、冷笑が返ってきた。

 寒い。

 だが、ここで負けては、帰れない。

 それは困る。

「苛めないと約束しないと、連れて帰るわよ?」

「え、本当っっっ?」

 いまにも連れて帰ってくれ、と言い出しそうな麻衣の様子に、綾子は、苦笑を浮かべた。そして、ますます不機嫌そうなナルに視線を向けて、答えを促す。

 どちらにせよ答えなど決まり切っているのだが。

「‥‥‥分かった」

「あら、どう分かったの?」

「‥‥‥」

「冗談よ」

 あんまり追いつめると後が怖い、と綾子はさっさと切り上げた。

 そして、やっぱり付いていく、と麻衣が言い出す前に、脱出した。

 なんとなく、なんとなくな疑惑を感じながら。

 

 

     ※

 

 

 ぱたん、と扉が閉まるのを、麻衣は、とてもとてもどきどきしつつ見守った。

 怖い。

 本当に、怖かった。

 あまりの怖さに、玄関から一歩も動けない。

 迷惑を掛けた、と思うから、なおさらに。

 

「‥‥‥いつまで、そこに居るつもりだ」

 

 低い声が、すぐ後ろから聞こえた。

 なんでこんな近くに、と思うほど、近くから。

 うひぃぃぃ、と思わず逃げ出したくなる。

 だが、逃げ出す前に、がっしりと、肩を掴まれて、後ろから抱き締められて、逃げることはできなかった。

「ご、ごめんなさぃぃぃぃぃぃ」

 ともかく謝ってしまえ、と麻衣は叫んだ。

「で、でも、わざとじゃない〜。なんか、なんか、もう、浮かれて、良く、覚えてないしっっっっっっ」

 だから許して、と叫んだ麻衣は、宙に浮かんでいた。

 正確には、お姫さま抱っこされて、連行途中、であった。

「や、やだっっっ、やだっっ‥‥‥い、苛めないって約束したのにぃぃ」

「‥‥‥約束は守る。心配するな。可愛がってやるだけだ」

 ナルらしからぬ、ぶち切れた台詞に、麻衣は、しばし、停止した。

 そして、意味を理解した途端、猛然と暴れ出すが、逃げることはできなかった。

 

 

     

  

 

‥‥‥かくして、麻衣の最も恐れていたお仕置きと共に、宴は、ようやく、本当に始まったのである。

 

 

 

 

                    

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