tuki-1-2

 

 その時、安原は、思った。

 突き刺すような寒さを感じながら。

 

 これ以上刺激したら、とんでもないことになるかも、と。

 

 

 

 

 

 

 

 一夜〜気まぐれな恩返し2〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日はいつもとなにも変わらない日だった。

 だった、と過去形で言わなくてはならないことに、安原は切なさを覚えていた。

 不安定な気候の夏が過ぎてようやく涼しくなってきたなあという喜びを吹き飛ばすほどに、事務所内は、激しく厳しい風の吹く極寒地獄。

 つい先ほどまでは快適だったのに、と思っても、もう遅い。

 しかもその地獄に気が付かない鈍い少女は、さらに吹雪を起こす。

「ぼーさん、なんか、凄い良い匂いがするよぉ」

 お願いですから、それ以上はなつかないで下さい、という祈りむなしく、少女は遊びに来た滝川にすりすりなつく。

 

 彼の前で。

 

「ま、麻衣、今日は甘えんぼさんだなぁ、どうした?」

「んー?別に」

 と、甘えた声で答えて、さらに、すりすりなつく。

 具体的に言えば、滝川の隣にぴったりと寄り添うようにして座って、腕を掴んで、放さない。振り払って逃げることは容易いが、親馬鹿な滝川にそんなことができるわけもない。

 かくして、ちょっと休憩、ちょっと地獄が、安原の目の前で延々と続けられているのである。

 安原だとて、ただこの状態を静観していたわけではない。

 だが、麻衣は、滝川から離れようとしないのだ。

 紅茶のおかわりを頼まれれば渋々と立ち上がり、離れるが、戻って来ると、当たり前のように滝川の隣に座り込む。それを繰り返すこと、三回。その度に、彼のご機嫌は凄まじい勢いで下降していく。

 なので、同じ手は使えない。

 さてどうしようか、と流石の安原も困り果てていたが、もっと困っていたのは滝川である。だが、幸いにも、本日、滝川には約束があった。鬱陶しい約束だったが、いまは、有り難い。心苦しい嘘を言わずに逃げられるのだから。

「ま、麻衣、そろそろ約束の時間‥‥‥」

 逃亡しようとした滝川は、言葉を詰まらせた。

「‥‥‥行っちゃうの?」

 潤んだ鳶色の相貌に見上げられて、逃げることなどできるだろうか。

 できるわけがない。普通の状態ならば。

 だが、いまは、非常事態で、命が惜しい。

「ご、ごめんな〜」

 遁走する滝川を安原は同情の眼差しで見送った。

 そして、ようやく室内は元の快適な事務所に‥‥‥。

 

「‥‥‥つまんない」

 

 戻らなかった。

 爆弾を落とした麻衣は、止めに吐息を吐き出して、名残惜しそうに滝川が逃げ去った扉を見やる。

 

 勘弁して下さい‥‥‥。

 

 極寒地獄に取り残された安原は、がっくりと肩を落とした。

 

  

     ※

 

 

 極寒地獄ツアーの次の日、麻衣は、普通だった。

 普通に挨拶して、普通に仕事をして、普通にお茶を煎れる。

 やっと訪れた平安に、安原は心から感謝をする。

 が、平安は長く続かなかった。

 

「ど、どうしたんですか?」

 そわそわそわそわ、と落ちつきがなくなってきた麻衣に、安原は嫌な予感を感じつつも尋ねた。

 放っておいた方がいいかもしれない、とは、勿論、考えた。

 だが、しかし、放置して、情報を掴み損ねて逃げ遅れることだけは嫌だったのだ。本日も所長様は、ソファに座って分厚い専門書を読んでいる。

 ちらり、とも視線を向けたりしないが、絶対に気にしているに違いない。

 そして、迂闊な発言一つで、またしても、ここは、極寒地獄に変わり果てるだろう。買い物リストをそそくさとポケットに入れつつ、安原は答えを待つ。

 待つ。

 待つ。

「谷山さん?」

 呼びかければ、ぽやん、とした視線が返ってくる。

「ん〜良くわかんないけど」

「分からないけど?」

「ぼーさんが近くに居るような気がするの」

「‥‥‥へ、へぇ、そうなんですか」

 なんでそんなに嬉しそうなんですか、という突っ込みはできなかった。

 

「ぼーさんだぁ!」

 

 扉が開く前に、麻衣が飛び出していってしまったので。

 扉の向こうから、うわ、とか、きゃあ、とか奇声が聞こえてくる。

 

「麻衣、驚かすなよ〜」

「そうよ、いきなり飛び出して来たら驚くでしょうが」

「ええええ、だって、我慢できなかったんだもん。ぼーさん、今日も、凄く良い匂いがするね〜」

 

 ああああああああああ、と安原は心中で絶叫した。

 昨日の悪夢が、再び、訪れようとしている。

(なんで毎日顔を出すんですかっっっっっ)

 昨日逃げだしたくせに、と滝川を恨めしく思っても、事態は変わらない。

 安原は、すっく、と立ち上がった。

「所長、備品が色々となくなりましたので、買い出しに出かけてよろしいでしょうか?」

 にっこり、と笑みを浮かべて許可を求める安原に、凍てつくような視線が向けられる。そのままダッシュで駆け出したいが、ぐっと我慢して、言葉を待つこと、しばし‥‥‥。

「どうぞ」

 いつもより遥かに硬質な声が、静かに、響いた。

「では、いってまいります」

 入れ違いに事務所に入ってきた三人に軽く挨拶をして、安原は足どりも軽く、止める声を振り切り、地獄の扉をくぐり抜けた。

 

 

     ※

 

 

(なんなの、この状況はっっっっっ!)

 たまたま途中で出会った滝川と一緒に事務所を訪れた綾子は、手土産の箱を持ったまま、硬直した。

 もめ事厄介ごとをこよなく愛する安原が逃げ出したことが納得できるほど、事務所内は寒かった。

「あのね、あのね、今日ね、学校でね、凄く変なことがあったんだよ」

 甘えた声で今日一日の報告をする麻衣は、なぜか、滝川の腕を掴んで放さない。

 昨日、滝川がそそくさと逃げ出したから、それを警戒しての行動だとは、綾子には分からない。

 ただ、脳天気親子の間に漂う、なんとも甘ったるい空気に、砂糖を吐きたい気分だった。

「ちょっと、麻衣、お土産、食べないの?」

「え、食べるよ」

「お茶」

「ん〜、分かった〜」

 菓子箱を手に麻衣は給湯室に向かった。非常に名残惜しげな視線を滝川に向けてから。いや、それどころか‥‥‥。

「麻衣、あんた、なにしてるの」

「‥‥‥だって」

 麻衣は、滝川の腕を掴んだまま、なのだ。くいくい、と軽く引っ張る仕草は、一緒に行こう、と誘っている。

(‥‥‥おかしい)

 綾子は、すうっと目を細める。

 

「麻衣、あんた、また変なことに関わったでしょ?」

「へ、変なことになんて関わってないよ」

 麻衣は、笑いながら、視線を逸らした。

「あんたはね、隠し事をしようとすると、人の目を見ないのよね」

「そ、そんなことないよ〜」

 否定しつつ、麻衣は、視線を合わせない。

「この間から、あんた、おかしいわよ。お土産無くしたとか言ってたしね。食い意地の張ったあんたが、菓子を落とすなんて考えられないのよね」

「ひ、ひどい〜」

「事実でしょ。もしかして、あの人面魚とやらとまた会ったとかじゃないでしょうね?相手は物の怪なんだから、迂闊に近づくなんて、馬鹿よ馬鹿」

 それに、とさらに小言を続けようとした綾子は、びしり、と固まった。

 先ほどまで、脳天気親子のらぶらぶぶりにブリザードを吹かせていたナルが、綾子を見たのである。

 

「‥‥‥人面魚?どういうことだ?」

 

 ナルの視線が凍って動かない綾子から逸れて滝川に向かう。滝川も凍って、返答がない。当然のごとく、視線は、麻衣に向けられた。だが、麻衣は、視線を逸らして、いそいそと給湯室に逃げ込んだ。掴んで放さなかった滝川の腕をあっさりと解放して。

 

「‥‥‥どういうことですか?」

 

 ブリザードのきっかけにもなるが、一応の防波堤にもなる麻衣が居なくなったそこは、極寒地獄から氷の墓場へとさらに様変わりをした。

 

((ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ))

 

 怒りに我を忘れると神様より怖い博士様のお怒りを前にして、娘も可愛いが自分も可愛い両親が、なにもかもを白状したことは語るまでもない。

 

 

     

                    

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