tuki-1-1

 

 夕暮れ時、公園は、静まり返っていた。

 昼時の、賑やかな子供たちの声が嘘のように。

 だが、静けさの中に、小さな鳴き声が混じっていた。

 それを聞いた途端、麻衣は、走り出していた。

 

 

 

 

 

 

 一夜〜気まぐれな恩返し1〜

 

 

 

 

 

 

 

「やめなさい!」

 常の麻衣からは考えられないほど強い声が、茜色に染まる公園に響いた。

 夕暮れ時、強い赤色と闇色が混じり合うただなかで、その声を受けたのは小柄な少年だった。目深に帽子を被り、振り返りもしない。

 少年の足下には、小汚い茶色の袋が転がっているように見えた。

 だが、よくよく見れば、それは、茶斑の猫だった。手足を細い紐で縛られて、ぐったりとして、動かない。だが、微かに、その口元から、鳴き声が響く。

 その微かな、吐息のような鳴き声に、麻衣は顔を歪めた。だが、いまにも泣きそうな顔をしながらも泣かない。

 代わりに、きっっっ、と少年を睨みつけた。

「なんで、そんな、酷いことをするの」

「気にくわないから」

「‥‥‥可哀想だと思わないの?」

「なぜ?こいつは、生意気なんだ。弱いくせに僕のことを馬鹿にしている。力の無い愚か者には相応の報いがあって当然だろう?」

 麻衣は、目を瞬いた。

 幼い外見にそぐわない、はきはきとした、けれど、とても冷たい物言いに、咄嗟に反論の言葉が出てこない。

「殺しはしないさ。とても苦労して捕まえたからね」

 ぞっ、と背筋が冷えた。

 同時に、これは駄目だ、と分かってしまう。

 猫を苛めては駄目だ、などという話が通じない相手だ。

 これは、取引なのだ。

(‥‥‥取引?)

 確信した自分に、自分が疑問を抱く。

 だが、そういったことは極稀ではあるが経験しているので、そのまま勘で進んでしまえばいいと、分かっている。

 ちょっとは考えて動け、と常日頃言われているが、言葉は、勝手に、するりと流れ出していた。

 

「交換しよう」

 

 麻衣は鞄を漁った。綾子に貰った、とてもとても美味しいと評判の焼き菓子が入った袋を取り出して、差し出す。

 

「とても大切な人に貰った、とても大切な物なの。とてもとても楽しみにしていたけれど、その猫と交換してあげる」

 

 立場はあくまで対等でなければならない。

 頼み事をしては、ならないのだ。

 それが肝心なのだと、理屈ではなく、心が知っている。

 あるいは、その場に流れている、淀んだ空気が。

 

「‥‥‥菓子など」

「凄く美味しいよ。試しに、ほんの少し、あげる」

 

 マドレーヌの袋を開けて、ほんのちょっとだけ、渡す。

 そして、自分も、ほんの少し、食べる。

 麻衣が食べるのを確かめてから、少年は、欠片を口に含んだ。

 

「美味しいでしょ。滅多に手に入らないものなの。これとは別の種類のも入っているよ。‥‥‥どうする?」

「‥‥‥‥‥‥」

 少年の視線が僅かに揺れる。

 麻衣は、少年に、袋を、押しつけた。

「その猫が欲しいの。代価は十分なはずだよ」

 突き放すような強い声に押されるように、少年は、僅かに後ろに下がる。

 そして袋を掴んだまま、くるり、と背を向けた。

 

「愚かな女だ」

 

 甲高く、硬い、そしてどこまでも冷たい声が、流れ始めた風に乗って、届く。

 

「おまえは、そいつと関わったことを、必ず、後悔するだろう」

 

 麻衣は、駆け去った少年を振り返ることはしなかった。そんなことをしている場合ではないのだ。

 

 紐で手足を縛られた猫を見下ろして、麻衣は、息を詰めた。猫は、ぐったり、としている。

 小さな胸が上下しているから、まだ、生きている。だから、大丈夫、などと安心できるほど麻衣は愚かではない。

 麻衣は、少年が猫の腹を蹴るのを見ていた。

 小さな小さな生き物だ。

 もしかしたら、もう、手遅れかもしれない。

 動かしたら、駄目かもしれない。

 触ったら、死んでしまうかもしれない。

 

 恐れが、爪先から駆け上がり、麻衣は、ほんの少しの間、硬直していた。

 だが、恐れに震え上がる心とはまったく別の所で、大丈夫、と確信を抱く。

 

----------紐を外せば、大丈夫。

 

 保証などなにもないが、麻衣は、そろそろと紐を解いた。堅く結ばれた結び目を解くと、赤い細い紐は、はらり、と風にそよぐ。

 そして、猫は、茶斑の小汚いでっぷりと太った猫は‥‥‥。

 

 くああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、と欠伸をした。

 

 くっ、くっ、と小さな前脚が自由になったことを確かめるように動く。自由になったことを確認すると、猫は、ぐったりと寝ていたことが嘘のように、身軽に起き上がった。

 

「やれやれ、酷い目に合った。まったく、あの新参者は、乱暴で困る」

 

 麻衣は、ついっ、と空を見上げた。

 ああ綺麗な夕焼けだなぁ、と現実逃避を試みる。

 だが、助けて貰った恩人を、猫は放っておいてくれなかった。

 

「有り難うございます。なんとお礼を申し上げればよいのか。いや、それどころか、なんとお詫び申し上げれば良いのか。あのように美味しそうな匂いのする物と引き替えに助けて頂いたのに、腹を空かせた私には、我が身一つしかございませぬ」

 麻衣は、ちょっと首を傾げてから、苦笑する。

 そして、鞄の中から、別の袋を取り出す。

「お腹空いたの?これ、食べる?」

「‥‥‥‥‥‥とんでもございませぬ」

 と、言いながら、視線は釘付け。

 いまにも涎を垂らしそうな気配である。

「美味しいよ。一緒に、食べよ。緊張したら、お腹空いちゃった」

 おいでおいで、と誘いながら、麻衣は手近なベンチに座る。

 猫は勿論、誘われるままに、隣りに座った。

 そして、ハンカチの上に置かれた薄焼き煎餅を、それはもうとてもとても美味しそうに平らげた。勿論、横で、麻衣も食べた。

 そこで一緒に和むなぁぁぁぁぁ、と保護者達が見たら叫びそうだが、幸いなことに邪魔者は乱入せずに、のんびりのびのび、と一人と一匹は夕暮れを眺めながら、世間話を楽しんだ。

 

「あの、忌々しい紐さえなければ、あんな若造に捕まることなどなかったのですが、油断しすぎました。まったく、新参者のくせに、いつのまに、あのようなことを覚えたのか。可愛げのない」

「‥‥‥あの子、そんなに悪い子じゃないと思うけどなぁ」

「あなた様は人が良すぎます。あやつは、根性の曲がりまくった天の邪鬼ですぞ」

「んー、でも、あの子、お菓子、あんまり好きじゃないと思うよ。でも、交換してくれたのは‥‥‥見逃してくれたってことじゃないかなぁ」

 なんとなくそう思うなぁ、と付け足した麻衣に、猫は吐息を吐き出した。

「‥‥‥周囲の方々のご心痛が伺えますなぁ」

「‥‥‥‥‥‥」

 むっ、と唇を尖らせた麻衣に、猫はわたわた、と言い訳した。

「別に、それが悪い、というわけではございませぬ。ただ、あまり、信用なさるのも問題だと思っただけです。特に今は、色々なものが、闇夜に潜んでおりますから、お気を付けなさいませ。‥‥‥おお、そうだ!」

 猫は器用に前脚を、ぽん、と叩いた。後ろ脚で立ち上がって‥‥‥。

「お礼に、どんな危険からもいち早く逃げ出すことのできる能力を差し上げましょう。宴の間だけしか差し上げることは出来ませぬが、色々と楽しいですぞ」

 喜々としている猫には悪いが、麻衣は、遠慮したかった。

 捕まって逃げられずに転がっていた猫から貰う、どんな危険からもいち早く逃げ出すことのできる能力‥‥‥いまいち信憑性が薄い。いや、それどころか、かなり縁起が悪いのでは。

「いいよ、お礼なんて」

「おお、なんて欲のない!ですが、遠慮は無用ですぞ!」

「いいってば〜」

 押され、押し返し、押され、押し返し、最後にはなぜか追いかけっこになった恩返しは、ていっっっ、と気合いを入れて飛んだ猫の柔らかな前脚が、麻衣の額に押されて、終了した。

「それでは、また、お会い致しましょう〜」

 麻衣がなにかを言う前に、茶斑の猫は、二つに分かれた尾を振って、どこかに消え失せた。

 そして取り残された麻衣はしばし呆然と立ち尽くし、柔らかな前脚が抑えた額にそって手を当てた。

 

----------必ず、後悔するだろう。

 

 なぜか脳裏には不吉な言葉が甦る。

 だが、もはや、どうにもできぬことである。

 

「ま、いっか。嫌な感じしないし〜」

 

 傍観者が居たならば、ちょっとは気にしろ、と叫びたくなるほど脳天気な声を響かせて、麻衣はくるり、と背を向ける。そして、何事もなかったかのように、いつもの道に戻っていった。

 

 

 

                    

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