tuki-0

 

 それは、静かな、はじまりのはじまり。

 夜照らす明かりに追いやられたものたちにとっては、宴の。夜視(み)る目と心を持つ者たちにとっては、災厄の。

 

 

 

 

 

 

 

 前夜〜揺らぎの水面〜

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れ時、少女は、橋を渡った。

 夏は足早に過ぎ去り、涼しい風が、栗色の髪を揺らす。

 そのまま過ぎ去ってしまえば、あるいは、なにごとも起こらなかったかもしれない。

 だが、少女は、立ち止まった。

 そして、首を傾げつつ、橋の下を覗く。

 そこには、橋の上からでも分かるほどに大きな魚が、ゆうるり、と泳いでいた。

「‥‥‥‥‥‥」

 少女はその場で少し考え込んでいた。

 もしもその場面を少女に近しい者たちが見ていたら、首根っこを掴んで連れ去っていたことだろう。だが、その場には、少女以外誰も居なかった。

 商店街に近い、いつもは人の往来が激しい場所なのに、物音一つしなかった。

 車が吐き出す騒々しい音さえ、遥かに遠い。

「‥‥‥ま、いいか。嫌な感じしないし〜」

 歌うように呟いて、少女は、水面まで続く緩やかな階段を駆け下りた。

 すると、あの大きな魚が、待ちかねていたかのように、すうっと、川岸に近づく。

 そして、口を、ぽっこりと開ける。

「お腹が空いたの?」

 魚は、口をぱくぱくさせた。

 まるで、催促するかのように。

 少女は、背負っていた鞄を下ろすと、中からパンを取り出した。

「中にチョコ入ってるけど、いいのかな〜」

 と、言いつつも、端をちぎって投げる。

 さらにちぎって投げる。

 投げる。

 小さなパンはすぐになくなってしまったので、今度は、仕事場で食べようと思っていたクッキーの袋を取り出して、開ける。

 そして、投げる。

 魚は、パン一つとクッキー一袋と、おにぎり三つを綺麗に平らげた。

「ごめんね〜もうなにもないの〜」

 少女の情けない声を聞くと、魚は、ぱしゃん、と水面を尾で打つ。

 

----------ありがたや。

 

 涼やかな風に紛れて、嗄れた老人の声が響く。

 少女は、きょとん、と周囲を見回すが、誰も居ない。

 

----------お礼に良いことを教えて差し上げましょう。まもなくあちらの月とこちらの月が重なり、赤く染まり、数百年に一度の宴が始まりますぞ。この世で叶えられぬ願いをお持ちならば、満ち月に祈りなさい。

 

 少女は、ぴくり、と肩を震わせた。

 

----------あなたは良い耳と目をお持ちだ。我々は、歓迎致しますぞ。しかし、この世に未練がおありならば、お気を付けなさい。どこにでも掟に背く愚か者は存在するもの。あなたに惹かれて、無理矢理に連れ去ろうとするかもしれませぬ。

 

 風が一際強く吹き、大きな水音を立てて、大魚が空中に躍り上がる。

 

----------では、また、お会いしましょう。

 

 水面に戻る一瞬、魚は、少女をちらりと見やった。そして、してやったり、としか表現のしようのない性質(たち)の悪い笑みを深い皺の刻まれた顔に浮かべた。 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

 不思議な魚が消え去った後、少女はぺたりと座り込んだ。そして、自分の頬を抓る。

 だが、残念ながら、夢ではなかったので、痛かった。

 

「‥‥‥人面魚を見たって言ったら‥‥‥喜ぶかな?」

 

 ぽつりと漏らされた言葉は、風に紛れて消えた。

 そして、少女は、ほんの少しふらふらしつつも、賑やかな人混みの中に、戻ってきた音の中に、紛れ込んだ。

 

 

     ※ 

 

 

‥‥‥後日、怪異との邂逅を知らされた者たちは、少女の言葉を疑いはしなかった。だが、あまりの警戒心の無さと思いきりの良さに呆れ果て、山のような小言を繰り返した。

 

『麻衣、いいか、確かに、おまえさんの勘は鋭い。だがな、警戒心というものは必要なんだ』

『相手の気が豹変したら、どうなさるおつもりでしたの?』

『ほんと、考え無しなんだから。もうちょっと、脳味噌使いなさい』

『‥‥‥ちょっと無謀でしたね〜』

『疑うことも、時には必要どす』

『‥‥‥‥‥‥‥‥‥次からは気を付けて下さい』

 

 心配されていることは、少女だとて分かっている。

 そのとおりだと思う。

 だが、延々と小言を聞かされた少女は、ちょっとだけ、うんざりしてしまった。

 皆がその出来事を知った時点で、彼が居なかったことも問題であった。

 そして不在の彼が、常日頃から毒舌を吐いていたことも。

 

----------みんながこんなに言うなら、ナルはもっときっっっっっついこと言うだろうなぁ。

 

 少女が確信してしまったのは、彼の常日頃の言動から考えて致し方のないことであった。心配している、とほんの少しも素直に言えない彼にも、問題はある。

 そして、少女は、軽い気持ちで、黙秘権を行使した。

 どうせ誰かがすぐに言うに違いない、と見越しての黙秘である。

 だが、少女は気づいていないが、気むずかしい彼が少女にご執心であることを周囲は知っている。少女が厄介ごとに関わったなどと聞いては、ご機嫌が素晴らしく悪くなることも分かっている。

 そんな彼に、告げ口をして、地雷を踏んで自爆したいと思う奴が居るだろうか。

 居るわけがない。

 

 

 

 

 

  

‥‥‥‥‥‥かくして、宴の始まりは、ささやかな誤解と、黙秘によって、彼だけには知らされず、そうっと幕を開けたのである。

                    

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