‥‥‥‥‥‥‥kdfirst-3

 

 

     ※

 

 

 室内に入った途端、少女は、背筋を震わせた。

 その場で泣き伏したくなるような喜びが、胸に満ちて。

(‥‥‥‥‥‥ああ‥‥‥間違いない)

 生まれた時から探していた人が、確かに、そこに居た。

 視線さえ向けてくれないけれど、そんなことはまったく気にならなかった。

 ただ、側に居るだけで。

 ただ、その姿を見ているだけで。

 幸せなのだ。

 室内に入る前、主と良く似た青年にくどいほど言い渡された忠告も忘れ、少女は分厚い書物を読みふける青年に、近付く。

「‥‥‥‥‥‥」

 だが、なんと声を掛ければ良いのか。

 

「‥‥‥‥‥‥証拠は?」

 

 戸惑う少女に怜悧な声が投げられた。視線は変わらず活字を追っているが、無視するつもりはないらしい。もっとも、それは、少女が入る前に、双子の兄がくどいほどに、話を聞くように、と言い聞かせてくれたおかげである。そうでなければ、部屋に一歩入った段階で、切り裂くようなブリザードに晒されて、叩き出されていただろう。

「‥‥‥‥‥‥証拠?」

 少女は、長い栗色の髪を揺らして、首を傾げる。

「おまえが、麒麟、という生き物である証だ」

「‥‥‥‥‥‥ええと、どうすれば‥‥‥」

 困惑する少女に、漆黒の相貌が向けられた。

「僕には、おまえが、人間に見えるが?」

 突き放すような声音に、少女は微かに体を固くした。

「‥‥‥‥‥‥転変すればよろしいでしょうか?」

「転変?」

「‥‥‥‥‥‥姿を変えることです」

 漆黒の相貌が瞬いた。

「できるのか?」

「はい」

「では、見せてくれ」

「‥‥‥‥‥‥はい‥‥‥‥‥‥」

 少女は頷いて、目を閉じる。

 同時に、華奢な姿が、揺らいで、溶けて、金の光を放つ球体となる。

 金色の光りは、室内を、余すところなく照らし出す。

 そして、その光は、つい先ほどまでは、なんの興味も浮かべていなかった漆黒の相貌に、強い強い光りを宿した。

 それは、彼が、ある現象を前にした時にのみ浮かべる光りである。

 もしも、そこに、双子の兄が同席していたら、危険性を熟知していない無垢な少女を抱えて、逃げ出していたに違いない。

 始まった時と同様に、唐突に金色の光りが消えると、そこには、少女は居なかった。代わりに、金色の鬣を持つ優美な獣が、金色の縋るような眼差しを青年に向ける。戸惑うような視線を向けられた青年は、書物を放り投げるように置いて、獣に近寄った。

「‥‥‥‥‥‥素晴らしい‥‥‥‥‥‥」

「これで、信じて頂けましたか?」

「‥‥‥‥‥‥ああ、勿論だ」

「あの、じゃあ、元に戻ってもいいですか?」

 返事がない。

「‥‥‥‥‥‥触っても、いいか?‥‥‥‥‥‥」

 喜々として尋ねられた獣は、金色の眼差しを揺らす。もしかしたら、室内に入る前に言い渡された忠告を思い出していたのかもしれない。だが、結局は、うなづいた。所詮、麒麟は王には逆らえない生き物なのだ。

 

 鬣を幾度も撫でられて、獣は目を細めた。

「‥‥‥‥‥‥獣形になる時は、どんな感じだ?」

「特には‥‥‥なんとなく‥‥‥‥‥‥」

「変わった所は?」

「‥‥‥‥‥‥角が熱いです‥‥‥‥‥‥」

 食い入るような視線に晒された金色の獣は、僅かに目を伏せた。

 そして、幾つかの質問に答えた後、おずおずと尋ねる。

「‥‥‥‥‥‥あの、そろそろ、元に戻ってもいいですか?」

 返答は吐息と共に返された。

「‥‥‥‥‥‥仕方ないな」

「あの、じゃあ、後ろを向いて頂けますか?」

「なぜ?」

「‥‥‥‥‥‥服を着ていないので‥‥‥‥‥‥」

 消え入りそうな声で告げられて、青年は、床を見下ろす。

「‥‥‥‥‥‥なるほど‥‥‥」

 納得はしたようだが、後ろは向かない。

 しかも、戸惑う獣の鬣を撫でて、低く囁いた。

「‥‥‥‥‥‥戻る所も見てみたい」

「‥‥‥‥‥‥あの‥‥‥‥‥‥」

「駄目か?」

 駄目、といえないのが、麒麟である。

 哀れなことに‥‥‥‥‥‥。

 

 

     ※

 

 

「‥‥‥‥‥‥遅いね‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥そうですね‥‥‥‥‥‥」

 少女が泣きながら飛び出して来るだろう、と予測していた二人は顔を見合わせた。そして、どちらともなく、

「「‥‥‥‥‥‥まさか‥‥‥‥‥‥」」

 と、呟く。二人の脳裏には、ちょっと人様には言えない想像が浮かんでいる。

「ど、どうしよう‥‥‥‥‥‥と、止めないと」

「‥‥‥‥‥‥ともかく、様子を‥‥‥‥‥‥」

 少女を一人で密室に向かわせたことに、いまさらではあるが、二人は激しく後悔した。そして、競うようにして、所長室の扉を開ける。

 

「‥‥‥あ、あの‥‥‥」

「動くな」

 

 最悪のタイミングで、とんでもない台詞が聞こえた。

「ナル!解剖はしちゃ駄目だよ!」

「ナル!なにをしているのですか!」

 所長室に飛び込んだ二人は、固まった。

 目前には、想像したのとはまったく違う光景が広がっていたのである。

 固まる二人の前で、少女は小さく悲鳴を上げると、ナルの後ろに隠れた。だが、確かに、二人は見てしまったのだ。少女の衣服が乱れ、その白い肩が剥きだしになっている所を。

「‥‥‥‥‥‥出て行け。邪魔だ」

 硬直を解き放つ冷ややかな一言が、二人をさらなる混乱に叩き落とす。

「‥‥‥‥‥‥ナル‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥なんてことを‥‥‥‥‥‥」

 ナルは嫌そうに眉を顰めた。

「‥‥‥‥下世話な想像をするな。服が着れないというから、手伝ってやろうとしていただけだ」

「‥‥‥‥‥‥それって、服を脱がしたってことだよね。‥‥‥僕、知らなかったよ。ナルに初対面の女の子を押し倒すような甲斐性があったなんて‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥ナル‥‥‥なんて手の早い」

 ナルは勘違いしている二人に、冷ややかな冷ややかな視線を向ける。

「‥‥‥‥‥‥説明してやれ」

「‥‥‥‥‥‥あの‥‥‥ちょっと‥‥‥待ってください‥‥‥」

 声を掛けられた少女は、ナルの後ろから出てこない。ごそごそしているのは、着慣れない衣服に苦戦しているからである。

「‥‥‥‥‥‥自分で着れない物を着るな」

 深い吐息を吐き出して、ナルは、少女に向き合うと、二人の視線から隠すようにして少女の衣服を整えてやる。

 その姿に、二人がさらに驚いたことは言うまでもない。

 そして、さらなる危機感を募らせた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥僕、怖いよ‥‥‥‥‥‥止められるかな‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥難しいですね‥‥‥‥‥‥」

 世にも珍しい生き物を見つけた博士様の目は、尋常ではない輝きを宿している。

 取り上げようとしたら、手ひどい報復を食らうことは間違いない。

 二人は揃って、地の底を這うような吐息を吐き出した。

 

 

                        

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