‥‥‥‥‥‥‥

 

 

 

 

     

 

 

 

 納得がいかない。

 笹長珠子は、ここ最近、ずっとそう思っていた。

 絶対に、納得など、できない。

 おかしい。なにかが間違っている、と。

 だが、高校二年の、ただの女子高生にできることなど、なにも無かった。それは違うと思う、と、はっきりと周囲に示すこともできないでいた。

 ただ、珠子は、強く強く、思うだけだった。

────兄は、自殺など、しない、と。

 珠子の兄は、珠子よりうんと頭がよい自慢の兄だった。

 珠子とは三つ違いで、都内の大学に通っていた。

 そして、一月前、突然、空きビルの窓から落ちて、死んだ。

 最初は事故か事件かと言われていたが、空きビルに、他者の痕跡がないことから、自殺ではないかと言われるようになった。だが、珠子の兄には、自殺するような理由などなく‥‥‥結局は、事故ということで、収まった。限りなく、自殺と疑われての、灰色に近い決着だった。

 それが、珠子は、物凄く、納得がいかない。

 兄が死んだことは、辛く、哀しい。

 お葬式が終わったいまも、信じられない。

 まだ、どこかで、生きているような気がする。

 ふらりと帰ってくるような気が。

 勿論、そんなことは無いと分かってはいる。兄の遺体を、珠子は、確認している。どうしようもないほど熱を喪った冷たい身体だった。頭部を強く打っただけで、他の部分の損傷は少なく、兄の死に顔は、そのまま目を覚ましそうなほど、綺麗だった。けれど、その有り得ない冷たさが、その身体が、もう二度と動かないのだと、珠子に、容赦なく現実を刻み込んだ。

 だが、それでも、現実感が無い。

 あるいは、時間が経てば、受け入れることができるのか。実感できるのか。珠子には、分からない。ただ、いまは、辛く、哀しく、もどかしく、なにかをしなければ、気が済まない。

────兄は、自殺など、しない。

 特に、自殺をしたのではないかという疑いは、どうにかしたい。

 嘆いている両親の為にも、その疑いだけは、どうにかして晴らしたい。

 だが、どうしたら良いのか珠子には、さっぱり分からない。

 けれど、一つだけ、当てのようなものがないわけではなかった。

 部活の先輩に、ちらりと聞いた話しだが、先輩の同級生に、幽霊関係に詳しい人が居るらしいのだ。肝試しはやめた方がいい、本当に危ない所もあるらしいからと、珠子たちの計画を窘(たしな)めた先輩は、詳しくは語らなかったが、随分と信用しているようだった。

 正直に言えば、その時、珠子は、全然、信じてなどいなかった。

 以前、使われていない木造の旧校舎があった時、幽霊関係の噂がいろいろとあったようだし、旧校舎が唐突に倒壊した時も、いろいろとあったようだ。その際、霊能力者と呼ばれる人たちが呼ばれたとも聞いたことがある。

 だが、それら一切は、噂している時だけが、楽しい戯れ言であって、現実で本当なのだとは、珠子には、とてもとても思えなかった。

 幽霊など居るわけがない。

 そう思った。

 だが、いまは‥‥‥。

 馬鹿馬鹿しいと思うのに、幽霊に存在していて欲しかった。

 大好きな優しい兄という存在が、死んだら、ただ、消えるなど、耐え難かった。

 そして、できれば、違うと教えて欲しかった。

 自殺などではない。あれは、事故だったのだと。

────都合の良い話しだ。

 だが、珠子は、そう分かっていても、切実に、願っていた。

 そして、だから、昼休み、一学年上の、三年生の教室で、声を、掛けた。

 

 

「‥‥‥あの、谷山先輩、いらっしゃいますか?」

 たかが一年の差だが、先輩の教室に行くには、勇気が要る。

 だが、幸いなことに、部活の先輩も、そこに居た。

「‥‥‥あれ、珠子ちゃん。どうしたの?」

「あの、谷山先輩に話しが‥‥‥」

 百合先輩は、少し、難しい顔をした。

 珠子の状況を、知っているからだろう。

「‥‥‥あの、どうしても‥‥‥」

「麻衣、部活の後輩なんだけど‥‥‥。悪いけど、ちょっと、話しを聞いてやってくれる?」

「話し?」

「‥‥‥うん。あっち関係の」

「百合がそういうことを言うの珍しいね」

「‥‥‥そうだね」

 百合先輩に呼ばれて、谷山先輩らしき人が、珠子に近付いた。

 珠子は、谷山先輩を見て、内心、びっくりしていた。

 百合先輩は、長い黒髪のかなりの美人だが、谷山先輩は、タイプが違うけれど、百合先輩と張るほどの綺麗な人だった。明るくて優しそうで、栗色のさらさらとした髪と、明るい綺麗な茶色の眼差しが、酷(ひど)く、印象的だった。全体的に爽やかな感じだった。

 なんだか、とてもとても、幽霊とか、言いそうな人には、見えない。

 暗いじめじめしたタイプか、自己顕示欲の強いタイプを想像していた珠子は、なんだか、全然イメージと違い過ぎて、不安にさえなった。   

「珠子ちゃん」

「は、はい」

「珠子ちゃんを信用しているから」

「え?」

「興味本位でも悪戯でもないと信用しているから」

「‥‥‥」

 いつも優しい百合先輩の、珍しい、強い眼差しに、珠子は、頷いた。

 珠子は、真実、本当に、困り果てて、相談に来たのだ。

 興味本位も悪戯も、有り得ないのだから、力強く。

 

 

     ※

 

 

「‥‥‥兄について、知りたいんです」

 空き教室で、珠子は、兄について、語り始めた。

「お兄さんについて?」

 空き教室に居るのは、話しを聞いて欲しいという珠子の願いを聞き入れてくれた谷山先輩と、珠子だけだった。

「一月前、兄は、空きビルの窓から落ちて、死んだんです。最終的には、事故ってことになったんですけど、警察の人は、自殺だと凄く疑っていて‥‥‥でも、私には、そんなこと、とても信じられない。自殺する原因なんてなにもないんです。兄の友だちも、みんな、そう言ってました。誰も心当たりなんてないんです」

「‥‥‥そのビルに、他の人は、居たの?」

「‥‥‥それは‥‥‥警察の人は、誰かが居た痕跡は無いって、でも」

「お兄さんは一人だった。‥‥‥つまり、誰も、お兄さん以外は、誰も、本当のことを知らないってことだね?」

「は、はい」

 珠子の唐突な訴えに、谷山先輩は、まったく、動じなかった。

 驚くことも、戸惑うこともなく、静かな眼差しで、問い掛けていた。

 その落ち着いた物腰が、珠子の期待を、高まらせた。

 珠子の願いを叶えてくれるのでは、という、期待を。

「‥‥‥つまり、貴女は、亡くなったお兄さんについて、その死因を、亡くなったお兄さんから、聞き出して欲しいってことだよね?」

「は、はい」

「テレビとかで、霊能力者たちが、やるように」

「はい」

 珠子は、こくこく頷いた。

 そして、期待を込めて、先輩を見つめる。

「‥‥‥ごめんね。それだと、私は、管轄違いなの」

「え?」

「私というか、私が勤めている所はね、霊障、ええと、幽霊が出て困っているとか、変なことがたくさん起こるとか、そういうことが起きている所に行って、原因を、科学的に調べるのが仕事なの。口寄せ‥‥‥亡くなった人を呼んで話しを聞くこともするけれど、それだけを目的にするような依頼は受けないの」

「‥‥‥そんな」

「ごめんね」

 珠子は、泣きたくなった。

「‥‥‥あのね、私が言うのもおかしいんだけど。霊能力者に頼るのは、やめた方がいいよ。お金だけ取られて、騙されて、辛い思いをするだけだもの」

「でも! このままだと、兄は、自殺したってことにされてしまうんです!」

「‥‥‥でも、事故として処理されたんでしょう?」

「そうですけど‥‥‥でも、でも、納得ができません! 絶対に、おかしいんです! 警察の人たちがなにかを見落としているに決まってます!」

「‥‥‥」

「兄は、絶対に、自殺なんかしない! なにかがあったに違いないんです!」

「落ち着いて。‥‥‥あのね、私が、なにかを視(み)て、聞いて、言っても、警察は動かないと思うよ。幽霊が話したなんて言っても、笑われるだけだよ?」

「‥‥‥それは」

 そんなことはないなどと珠子は言えなかった。

 言えるわけがない。まさしくその通りだ。

「でも‥‥‥でも、なにか、切っ掛けがあれば、なにかが出てくるかもしれないし‥‥‥」

 それでも、引き下がることはどうしても出来なくて、珠子は、なおも、食い下がった。

「‥‥‥その曖昧ななにかの為に、珠子ちゃんは、どれだけ支払うつもりなの?」

「え?」

「出るかどうか分からない。本当かどうかも分からない。そんなことの為に、霊能力者に頼むつもりなんでしょう? 誰かに頼むと言うことは、代価を支払うということだよね。その道のプロに知り合いが居るから、どうしてもと言うなら頼んであげてもいい。でもね、決して、安くないよ。相手はプロだもの。それにね、どれだけ優秀な人でも、条件が悪ければ、なにも分からないよ。お兄さんがそこに残っていなければ、そもそも無駄足だし」

「‥‥‥それは」

「私は直接は知らないけれど、死んだ人を追い掛け過ぎて、なにもかもを喪ってしまった人だって居るらしいよ。珠子ちゃんが、進もうとしているのは、そういうこともある道だよ。‥‥‥やめた方がいいよ。珠子ちゃんが信じてあげればいいじゃない。どれだけ真実を探したって、お兄さんは戻って来ないよ。なら、珠子ちゃんが危ない道に進むことはない。そんなことは、お兄さんも望まないと思うよ」

「‥‥‥」

 珠子の脳裏に、兄の笑顔が浮かんだ。

 優しい兄は、たぶん、先輩の言うとおり、珠子の危険は決して望まないだろう。

 周りが時折呆れるほど、兄は、珠子に甘く、優しかった。

────だが。

────兄が、優しいから、優しいからこそ、珠子は、許せないのだ。

 あんなに優しい兄が、自殺したなどと、悪く言われるのは。

「‥‥‥あ‥‥‥あの」

 正直なところ、珠子は、お金のことなど、ほとんど考えていなかった。

 ただ、先輩の同級生に頼み事をする程度の心構えだった。

 だから、酷(ひど)く、勇気が言った。

 どうなることかと不安だった。

 けれど、珠子は、一歩を、踏み出した。

「‥‥‥お金って、どれくらいあればいいんですか?」

「‥‥‥‥‥‥」

 珠子の家は、まったく裕福ではない。

 珠子が動かせるお金など、たかが知れている。

 だから、もしも足らない時は、バイトでもなんでもする覚悟で、問い掛けた。

「‥‥‥百合ちゃんの後輩だね」

 珠子の問い掛けに、厳しい顔をしていた先輩は、ふわりと笑った。

 困ったような、嬉しそうな、不思議な笑顔だった。

「‥‥‥あの?」

「分かった。降参。‥‥‥とりあえず、お伺いを立てるから、返事はちょっと待って。事前調査ってことで、話しを持って行くから」

「え?‥‥‥あの‥‥‥」

「ともかくボスに聞いてみるから、少しだけ、待って。依頼を受ける前に、きちんと金額は提示するから。それを聞いてから、もう一度、返事をくれればいいから」

 なにがなんだか珠子には、良く分からなかった。

 だが、とりあえずは、断られずに済んだことだけは理解して、こくこくと頷いた。

 

 

 

 

     ※

 

 

 

 百合の後輩と別れて、麻衣が教室に戻ると、百合たちが、待ち構えていた。なんだか酷(ひど)く心配を掛けているようだった。

「‥‥‥えーと」

 なんと言うべきかと、麻衣は、迷った。

「麻衣、私のことは気にせず、断っていいんだからね」

「安請け合いは駄目だよ、麻衣」

「う、うん。そ、それは、分かっているから。ええと、ナルにお伺いを立てる方向で‥‥‥‥」

 麻衣が、ちょっと小声でそう言った途端、百合たちは、ほうっと息をついた。

「渋谷さん経由なら大丈夫だね」

「うん、良かった」

「それならいいんだ。でも、ほんと、駄目なら断ってね。言いにくいなら、私から言うから」

「うん、ありがとう」

 友人たちの心配と気遣いが、麻衣は、嬉しかった。

 そして、ほんのりと、ちょっと心配性過ぎるよ、と、思ったりもした。

 だが、渋谷サイキックリサーチに関わってから、そこで働くことをどこからか聞きつけた馬鹿たちに、興味本位に絡まれたこともあったから、その件では、随分と心配を掛けたから、仕方ないかな、と、諦めてもいる。

(ちゃんと自衛はしているのになぁ)

 馬鹿たちに絡まれた時、麻衣は、仲間たちに相談した。

 そして、ちゃんと、あしらい方を教えて貰っている。

『いいか、麻衣。絶対に、無償で引き受けることはするな。それと、自分で判断することもしたら駄目だからな。そういうことをしていると、いつか、必ず、付け込まれて、酷(ひど)い目に遭うからな』

『滝川さんの仰る通りですわ。馬鹿共を寄せ付けないようにしなくてはいけませんわ』

『絶対に、流されるのは駄目よ! あんたはまだ半人前なんだから!』

 麻衣を心配して、小姑軍団と化した仲間たちの言葉は、麻衣の脳裏に深々と刻み込まれている。あまりにも何回も繰り返されて、忘れることが難しいほどに。

 だから、麻衣は、きちんと、分かっている。

 だから、そんなに、心配しなくても大丈夫なのだ。

(そんなに馬鹿じゃないってば。‥‥‥でも、無償は無理だけど、百合の後輩だから、なんとか、安くしてあげないと。高校生に動かせるお金なんて、たかが知れているし。‥‥‥うーん、どうしたらいいかなぁ)

 仲間たちと友人たちの心配の本意を理解しないまま、麻衣は、しばし、後輩の為の格安調査模索に心を飛ばした。その心情を知ったら、だから、そこが、と、皆がわめくことなど、まったく欠片(かけら)も気付かずに。

「‥‥‥渋谷さんに、こっそり連絡入れておこうか」

「‥‥‥その方がいいと思う」

「‥‥‥なんか、もう、思いっきり、傾いているよね」

「‥‥‥もう、お人好しなんだから。すぐに厄介ごとを背負い込むよね」

「‥‥‥ま、そこが、麻衣の良いところだけどね」

 そして、そんな麻衣を、友人たちが、心配そうに見つめて、こそこそと画策していることにも、まったく、気付かずに。

 

 

 

 

 

 

     ※※※

 

 

 

 

 

 鉛色の世界に、不意に、光が差した気がして、彼は、外へと意識を向けた。

 がたん、ごとん、と、電車が動き出した。

 遠ざかっていく駅のホームに、彼は、小柄な人影を見出した。

────あの子は、あの時の。

 首都の主要な駅の一つ、渋谷駅には、行き交う人が多い。

 だが、すらりと細身の制服姿の少女の姿は、彼の目には、人混みから浮き上がるように、はっきりと見えた。

 また会えるなんて、嬉しい誤算だった。

 話してみたい、と、強く思った。

 だが、彼の願いとは裏腹に、電車は、がたんごとん、と、動いていく。

 彼女から、遠ざかっていく。

 彼は、酷(ひど)く、残念に思った。

 けれど、諦めてはいなかった。

『‥‥‥この世のすべては繋がっているようなものだ』

 彼は、知っている。かつて、師に教えて貰ったから、この世に、偶然など無いということを。

 すべてに意味があることを。

 そして、彼が感じる直感は、酷(ひど)く正しくて、もはや、直感を通り越していることを。

────彼女と話したい。

 そう思う。彼が、そう思うということは、それは、つまりは、彼女とは、縁があるということだった。ならば、焦らずとも、再び、機会はあるだろう。

(‥‥‥楽しみだ)

 世界が鉛色に変じてから、彼は、無邪気な楽しみなど感じたことはない。

 だが、いまは、ただ、無邪気に、なんの悪意もなく、偶然という名の運命を、楽しみに感じることができた。

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ next‥‥‥buck