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文章途中に()が入っていることがありますが、ルビが変換されているだけです。

同人誌本文ではルビになってます。 

 

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 梅雨が駆け去ると、日差しは、一気に、強くなった。

 分厚い電車の窓硝子越しでも、日差しの強さが良く分かった。

 今年の夏は暑そうだ、と、麻衣は、ちょっとだけうんざりした。

 夏は嫌いではない。だが、ここ数年の夏の暑さは、異常だと思う。

(今年は、緑のカーテン、頑張ってみようかな)

 暑さ対策に有効だと教えられた緑のカーテンを、麻衣は、いままで、作ったことがない。

 調査に赴くと、何日も帰れないからだ。世話ができないなら手を出すべきではないと思っていた。だが、今年は、下宿先の他の住人が、やる気満々だ。麻衣が居ない時は、面倒を見てくれるらしい。勿論、麻衣も、お返しに、忙しい時は、代わるつもりだ。

 それならおあいこだ。それなら、大丈夫な気がした。

 そんな心中を吐露したら、優しい下宿先の人たちは、相変わらずだねぇ、と、笑うだろう。 そんなに気にしなくても大丈夫だよ、と。

 だが、許してくれると分かっていても、それでも、なかなか、その一線を越すのは、難しいし、駄目な気がする。いつまでも、あの居心地の良い下宿先には居られない──高校を卒業したら、出て行かなくてはならないと思うから、尚更に。

 がたんごとん、電車が揺れる。

 出入り口横で、手すりを掴む手に、麻衣は、力を入れた。

 今日は、平日の昼間とあって、電車内は空いている。ラッシュ時のように、ほんのちょっと揺らいだだけで、ぎゅうぎゅう押されることはない。

 だが、時折、思い出したように、大きく揺れることもあるから、油断はできない。

 転がったら、大恥だ。

(‥‥‥そういえば、事務所の暑さ対策は‥‥‥必要ないか)

 自宅と同じほどに入り浸っている仕事場所へと、麻衣は、思いを馳せた。

 だが、すぐに、心配を却下した。

 麻衣は不経済だと思うのだが、日本の蒸し暑さに耐えられない美貌の所長様が、冷房温度を上げるとは思えない。万が一節電するとなったら、屋上にソーラーパネルを自前で設置してしまいそうだ。いや、それとも、そそくさと国外脱出を計るかもしれない。

(‥‥‥ほんと、夏は、嫌そうだよねぇ)

 あまり表情の変わらない美しい顔が、心底嫌そうにしていた時のことを思い出して、麻衣は、くすりと笑う。だが、すぐに、そんな顔を見るのも今年限りかもしれないと思えば、笑みも消えた。

 来年の春、麻衣は、高校を卒業する。

 それと同時に、麻衣は、進学する気でいた。

 麻衣のことを心配してくれた担任などの説得に背を押されて、すぐに就職するのはやめて、就職に有利な資格を手に入れることにしたのだ。

 その為、いま、絞っている大学は、五つばかり。

 勿論、どの大学も、学費が安く、奨学金やその他の条件が良いところばかりだ。

 そして、当然、そういった所は、人気があって、競争率が高い。

 特に、都内となると、競争率はぐんと跳ね上がる。

 つまり、確実な所を狙うと、地方になり‥‥‥。

 当然、いまのバイト先に、通うのは、不可能になる。

(‥‥‥あーあ)

 未来は、決して、真っ暗ではない。

 選択できる余地があるだけ、前より、ましになった。

 渋谷サイキックリサーチでのバイトのお陰で、有る程度、貯金が出来たのも、心強く、嬉しいことだ。

 だが、それでも、麻衣は、なんだか、気持ちが落ち込んで仕方なかった。

 いまが幸せだと思うから、前に進むことさえ、躊躇われる。

 麻衣は、深く、吐息を吐き出した。

 そして、ふと、気が付いた。

(‥‥‥ノート?)

 電車の真ん中に、ぽつん、と、白いノートが落ちていることに。

 

 

 がたん、ごとん、電車が揺れている。

 座席は満席だが、立っている人は、少ない。

 麻衣の他には、少し離れた所に固まっている女子高生たちぐらいだ。

(‥‥‥え、と)

 だが、決して、人目は少なくないというのに、誰もが、そのノートには気付いていないようだった。実によく目立つ真っ白な表紙のノートなのに。

(‥‥‥落とし物、お喋りに夢中なあの子たちの落とし物かな)

 ノートの間近にいる女子高生たちへと、麻衣は、視線を向けた。

 きゃいきゃいと時折甲高く叫ぶ彼女たちは、勿論、麻衣の視線になど、気付く様子はない。すぐ後ろに落ちている白いノートにも。 

(‥‥‥うーん、どうしようかな)

 しばし迷って、麻衣は、とりあえず、声を掛けることにした。

「‥‥‥あの、後ろに、ノートが落ちてますよ」

 麻衣の一言で、お喋りに夢中だった女の子たちは、一斉に麻衣を振り返った。そして、なぜか、麻衣を、強く、睨む。

(‥‥‥ええ?)

 なにかしたのか、だが、麻衣は、彼女たちのことなど知らない。

 制服も違うので、勿論、同じ学校の生徒でもない。

「知らない」

「私たちのじゃないわ」

「関係ないわ」

 つんつんした返答だった。

 声を掛けたことを、麻衣は、非常に後悔した。

「‥‥‥そうですか」

 仕方なく麻衣はノートを拾った。

 持ち主が見つかるとも思えないが、駅員さんにとりあえず渡して置こうと。

「‥‥‥それ、僕のです」

「え?」

 麻衣が、振り返ると、すらりと背の高い男の子が立っていた。

 目鼻立ちのすっきりした爽やかそうな男の子だった。

「拾ってくれて、ありがとう。助かりました」

 先程の女の子たちの対応とは違う、礼儀正しい反応に、麻衣は、ほっとした。

「大切なノートなので、本当に、助かりました」

 麻衣がノートを手渡すと、爽やかな男の子は、ふわりと笑った。

 実に清々しい良い笑顔だった。

 バイト先の所長の美貌に慣らされていなければ、所長と瓜二つの兄の笑顔に困らされていなければ、うっかり胸が高鳴ってしまったかもしれないほどに、綺麗な笑顔だった。

「‥‥‥御礼に、よかったら、お茶でも」

「‥‥‥き、気にしないで下さい。ほんと、いま、拾っただけですから」

「‥‥‥そうですか」

 お茶に誘われて、麻衣は、驚いた。

 なんて律儀な人だ、と。

 そこに、麻衣の友人たちが居たら、すかさず、突っ込みを入れただろう。

 いや、それ、感想違う、と。

 だが、幸いなのか、不幸なことなのか、友人たちは居ない。

 そして、電車が、止まった。

 麻衣の目的地である渋谷駅だった。

「あ、私、ここで降りるので。落とし物が見つかって良かったですね」

 麻衣は、にっこりと笑って、ぺこりと頭を下げて、電車を降りた。

 そんな麻衣を、爽やかな男の子は、ちょっと困った顔で見送ったが、勿論、呼び止めることはしない。ただ、扉が閉まった後、白いノートを開いて、残念そうに、吐息を漏らした。

 そして、小さな小さな声で、呟いた。

「‥‥‥‥話してみたかったな。残念だ」

 表紙と同じく、落書き一つない真っ白なノートに、吐息が、深々と落ちた。

「‥‥‥‥本当に、残念だ」

 その声は、あまりにも、小さかった。

 だから、すぐ間近で、興味津々と成り行きを見ていた女子高生たちにも、聞こえなかった。ただ、白い白い白いノートだけが、落胆の吐息と嘆きを受け止めただけだった。

    

 

 

     ※

 

 

 

 鈍感な人間は、結構、居るものだ。

 自分の魅力に鈍感な人間が。

「‥‥‥律儀だよね〜」

 ミチルが知る限り、その最も典型的な人間が、谷山麻衣だった。

 昨日の、落とし物フラグという、ある意味スタンダートなアプローチに、麻衣は、全く気付いていない。頑張ったであろう爽やか笑顔の男子に、ミチルは深く同情する。

(‥‥‥ごめん。この子、鈍いの。物凄く、かなり)

 ミチルの他の面々も、あーあ、という顔をしている。

「それってさー、お近づきになりたいってことじゃないのー」

「勿体ないなー」

「面食いの麻衣が褒めるぐらいだから、美形なんだろうしー」

「えー。それはないなー。律儀なだけの人だと思うよ。かなり大切なノートみたいだったし。それより、面食いってなによ、面食いって」

 恵子と百合の突っ込みを、麻衣は、さらりと交わした。

 全然本気にしていない。

 いつものことだ。

「だって、麻衣、面食いじゃない。あの人格好良いって私が言っても、ふーんって、スルーするしー」

「いや、それ、面食いじゃなくて、美形が好みじゃないだけだから。興味無いだけだから」

「美貌の所長様で感覚麻痺したんじゃない?」

「いやいや、慣れただけ。それで、耐性が付いて、改めて思ったね。顔で選ぶと後悔するって」

「‥‥‥うわ、ひど」

「顔と中身って、一致しないんだよ。要注意だよ」

 しみじみ言う麻衣は、頷きながら、さらさらの栗色の髪を揺らす。

 そして、一年前より確実に大人っぽくなった顔で、にこりと笑った。

「やっぱり、人間、中身が大事」

 麻衣の言葉には、ミチルも同意する。

 だが、外側も大事だと思うし、それを自覚するのも物凄く大事だと思う。特に、この一年で、びっくりするほど綺麗になった麻衣は。

(‥‥‥そーんな可愛いきらきら笑顔でそんなことを言うから、お馬鹿たちが、勘違いしちゃうんだってば)

 はー、と、ミチルは吐息を吐き出す。

「‥‥‥ミ、ミチル、どうしたの?」

 元々、麻衣は、可愛かった。

 顔の造作などは整っていた方だ。

 だが、子供っぽい可愛さだった。

 なのに、この変貌振りは、羨ましいが、ちょっと、怖くて、心配だ。

 麻衣が、変わらず無防備だから、なおさらに。

 しかしながら、その自覚を麻衣に植え付けるのは至難の業で‥‥‥。

「‥‥‥次、知らない人にお茶に誘われても、付いてったら駄目だからね」

「‥‥‥いや、そんな、当たり前な」

「絶対だよ」

「う、うん」

 とりあえず、ミチルは、念押しだけはしておいた。

 

 

 

 

     ※

 

 

 

 

 不意に、ジーンは、ふわりと目を覚ました。

 そして、すぐ側に、可愛い子の気配を感じて、頬を緩(ゆる)ませた。

 一面の闇、何一つ確かではない空間に漂うジーンにとっては、彼女は、大切な標(しるべ)であり、救いだった。彼女と彼が居るから、ジーンはジーンで在(あ)ることができる。

 だから、彼女たちの気配を感じることは、幸せ以外のなにものでもない。けれど、ジーンが目覚める時は、厄介な調査の時が多い。

(‥‥‥でも、今回は、なんだか‥‥‥違うような?)

 幸せを噛み締めつつ、慎重に周囲を探ったジーンは、周囲に危険な気配が無いことに、少し、驚いた。そもそも、調査中でもないようだった。

(‥‥‥ここは、麻衣の、学校だね。ナルの気配は無いし‥‥‥なんで、僕、目が覚めたんだろう?)

 戸惑いつつ、ジーンは、麻衣に気持ちを集中させた。

 麻衣は、同じ高校の男子生徒と話しをしているようだった。

「‥‥‥えと、できれば、付き合って欲しいんだけど」

 うお、と、ジーンは仰け反った。

 よりにもよって、麻衣への告白現場に立ち会ってしまったらしい。

 すらりと背の高い長身をかがめて、恥ずかしそうに告白する男子生徒は、ジーンの目から見ても、なかなか良さそうな感じだった。だが、勿論、ジーンは、断固として、反対である。

 ナルには、麻衣が、必要だと思っている。

 だから、頷いて貰っては、非常に、困る。

(‥‥‥わーわーわー、どうしよー)

 ジーンが慌てていることには、まったく気付かず、麻衣は、ぽかんとしていた。

 そして、

(‥‥‥うわ、この人、凄く、奇特な人だ。たしか、ミチルたちが、人気あるって言ってたけど‥‥‥格好いいのに、趣味悪いんだな)

 待って、と、ジーンは思った。

 流石に、待って、と。

 その感想は、かなり酷(ひど)いし、根本的な所に異議あり、と。

(麻衣は、可愛いよ!)

 ジーンは思わず、叫んでいた。

 だが、麻衣は、やはり、気付かない。

 どうも、いまは、ジーンと麻衣の間を繋ぐアンテナがずれているようだった。

(‥‥‥あああああ、どうしよう〜)

 ジーンは、心底、困った。

(ナルの甲斐性なし〜。うわーん、どうしよう)

 ここに居ないナルを罵ったりもした。

 だが、幸運なことに、麻衣は、驚きはしつつも、動揺したり、狼狽えたりもせずに、あっさりと断った。

「ごめんなさい。いまは、誰かと付き合うこととか、考えられないの」

 ジーンは、よかったー、と、深々と安堵の吐息を吐き出した。

 けれど、

(‥‥‥うーん、最近、なんだろうなー。なんか、多いよね。こういうの。奇特な人って多いんだなぁ。それとも、私ならって思うのかな〜)

 待って、と、ジーンは、思った。

 そして、このまま放置していたら、やばい、と、危機感を強く抱いた。

(‥‥‥ナルを、蹴り飛ばしてでも、なんとかしないとっっっ!)

 

 

 

 

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ next‥‥‥buck