‥‥‥‥‥‥‥

 

 

 

 

     

 

 

 

 夕暮れ時、日が陰っても、まだ、太陽の明かりは強かった。

 今年の夏は本当に暑くなりそうだ、と、うんざりしつつ、麻衣は、渋谷駅から事務所へと向かう。そして、歩きながら、つらつらと、事務所の主を、どうやって説得するかと考えた。

(‥‥‥とりあえず、ご機嫌を確認するのが先だよね)

 ここ最近、幸いなことに、ナルの神経を逆撫でするようなことは起きていない。だが、同時に、ナルのご機嫌を良くするようなことも起きていない。

(大量のご機嫌資料がいきなりどどーんと届いたりしてたらいいんだけどなー)

 他力本願なことを思いつつ、麻衣は、階段を上がった。

 そして、こんにちわー、と、明るく挨拶をしながら、扉を開けて‥‥‥。

「う?」

「来たか」

 珍しくも所長室から出て、ソファにお座りになっている美貌の所長さまを見つけて、鋭い眼差しに射抜かれて‥‥‥。

(‥‥‥え?私、なんかしたっっっ?)

 頑張るぞという決意をぐらぐらさせた。

 

 

 とりあえず先にお茶、という、ボスのご希望を叶える為、麻衣は、あわあわと給湯室に飛び込んだ。そして、なんでどうしてどうなっているの、と、狼狽えつつも、心を込めて、紅茶を煎れた。限定のとびきりのお茶が、ナルの気持ちを、落ち着かせますように、と。

「‥‥‥えええと、どうぞ。お茶菓子なんかは‥‥‥」

「いらない」

「‥‥‥えええと、じゃあ、えと、私は、し、仕事を」

「前に座れ」

「‥‥‥はい」

 そそそっとナルの前にカップを置いて、なんとか逃げようとした麻衣は、お茶菓子と仕事への避難を却下されて、しおしおとナルの真向かいのソファに座った。なにをしたか全然分かっていないが、気分は、すでに、反省モードである。

「厄介な話しを引き受けたそうだな」

「へ?」

「安原さん経由で、麻衣の友人から話しが来た」

「‥‥‥」

「お人好しなお前が無理をしないように、という、気遣いらしいな」

「‥‥‥気遣いって言うか、それ、酷(ひど)いって言うか‥‥‥」

「こういった件については、おまえに信用は無いな」

「‥‥‥」

 麻衣は、いつもどおりにバイトに行く麻衣を見送った友人たちの顔を思い出して、ばかーっっっ、と、心中で叫んだ。だが、酷(ひど)いとは思うのだけど、心配されていると思うと、心の奥底が、なんだかくすぐったくもある。

「それで?」

「え?」

「僕に、話すことがあるだろう。聞いてやろう」

 わー相変わらずだよ、と、思いつつ、麻衣は、美しい、美し過ぎる上司を見つめ返した。

 そして、ご機嫌が悪くはないことを察して、ほっとしていた。俺様何様ナル様状態なのは、いつものことだ。聞いてくれる余地があるだけ、ある意味、機嫌が良いとも言える。

「‥‥‥友だちの部活の後輩から、相談をされたの。一月前に亡くなったお兄さんについて調べて欲しいって。その子が望んでいたのは口寄せで、うちの管轄じゃないから、最初は、断ったの。でも、その子、随分と思い詰めた感じだったから、放置しておくとやばい所に足を踏み込みそうで‥‥‥とりあえず、ボスにお伺いをしてみるってことに‥‥‥」

「現象の発生は?」

「なにも無いの。‥‥‥ええと、だからね、無理だとは分かっていたから、えええええええと」

「事前調査という形にして、原さんを呼んで、片付けようと?」

「‥‥‥‥‥‥はい、その通りです」

「まったく。相変わらずだな、おまえは」

「‥‥‥‥‥‥はい」

 すでに色々とばれていては隠しても仕方ないと諦めて、正直に語った麻衣に、特大の溜息が返って来た。なんとか誤魔化して話しを押したいのだが、どうしたらいいのか分からず、麻衣は、項垂れて、小さく、溜息を吐き出した。

「分かった。好きにしろ」

「ええ?」

 麻衣は、跳ねるように顔を上げた。

「なんだ?不服か?」

「いえいえいえいえ、とんでもない。‥‥‥えと、好きにしろって、事前調査で受けてもいいってこと?」

「ああ。但し、条件がある」

「条件?なに、なに?」

「原さんだけではなくて、ぼーさんも連れて行くこと。下調べを安原さんに頼むこと。それと、おまえの日当を取り立てること。それが条件だ」

「‥‥‥ええ、と」

「おまえのことだ。原さんへの謝礼と経費だけを請求して、自分で下調べをした上で、付き添った挙げ句、自分の分の報酬を無しにしようという魂胆だろう。それは、却下だ」

 そのとおりである。

 少しでも安くしようとしたらそれぐらいしか麻衣には手がない。

「‥‥‥で、でも、ほら、学生で」

「だからと言って、麻衣が身を削る必要はない。おまえが、そんなだから、友人たちが心配するんだ。友人の後輩にまで、身を削るやり方は、プロとして失格だ。その条件を飲めないなら、許可しない」

 ああ、うう、と、麻衣は、呻いた。

 そして、鋭い眼差しに射抜かれて、降参した。

「‥‥‥は、はい。ごめんなさい。気を付けます」

「分かればいい。同じ過ちは犯すなよ」

 つまりナルに同じ説明をさせるな、ということだと理解して、麻衣は、こくこくと頷いた。

「‥‥‥はい。気を付けます」

「では、この件は、おまえに一任する。僕が動くに値するかどうか、調べて来い」

「はい! ありがとう、ナル!」

「感謝されるようなことじゃない」

「でも、ありがとう!」

 予想外な嬉しい展開に、麻衣は、万歳三唱したい気分だった。

 ナルに告げ口した友人たちに、ありがとうっっ、と、感謝感激の大雨状態だった。

「本当に、有り難う!」

「浮かれて馬鹿なことはするなよ。後始末が面倒だ」

「はーい」

 浮かれる麻衣に、ナルは、ナルらしく、釘を刺す。

 だが、いまの麻衣には、いつもの小言も、爽やかな春風のようだった。

 

 

 

 

     ※

 

 

 

 

 麻衣との話し合いを終えて、ナルは、所長室に戻った。

 ぱたん、と、軽い音が、静かな部屋に響く。

 途端、

『‥‥‥もうちょっと、優しい言い方をしたらいいのに。最後も小言を言うんじゃなくてさ、こう、心配しているとか、あるいは、信用しているとかっっ』

 ナルの脳裏に、馴染み深い声が、響いた。

「‥‥‥まだ、起きているのか」

 ここ最近、声の主、ジーンは、ナルに付きまとっていた。

 そして、ぎゃあぎゃあと鬱陶しい言葉を繰り返している。

 だから、ジーンの声が聞こえた途端、ナルの声が低くなり、眉間の皺が深くなるのは、極自然なことだった。

「とっとと眠れ」

『それが出来ないんだよね。不思議なことに。目が覚めて、全然、眠くならないんだ。変だよね。調査中でもないし‥‥‥危険なことも、特に、無さそうなのに』

「‥‥‥眠れないなら、せめて、黙っていろ。僕は、仕事中だ」

 不機嫌そうに言い捨てると、ナルは、椅子に座り、積み重なった書類と本に向き合う。

『仕事仕事って‥‥‥仕事は大事だけど、麻衣のことも大事だと思うんだよね!』

 ナルの不機嫌など、双子で、長い付き合いのジーンには、少しも通じないらしく、声は、潜まる気配さえない。

『麻衣って、ここ一年で、ほんと、綺麗になったよね。勿論、前も、可愛かったけど、大人になったっていうか。でも、問題だよね。外見が可愛くて綺麗で、中身も可愛くて綺麗なんて‥‥‥狙われまくりだよ! ナル、ちょっと、ほんと、どうにかしないと、麻衣が、どっかの馬の骨に浚われちゃうよ!』

「あれに、浚われるような可愛げがあるものか」

『うわ、ひど。なにその言い方!』

「昔は、そんな可愛げもあったかもな。だが、いまは、無い。それは、壊したおまえが、一番良く分かっているだろう」

 書類をチェックしながら、ナルは、斬りつける刃物のような言葉を吐き出した。

『‥‥‥それは‥‥‥』

「あれは、頑丈なフリをしているが、実際は、臆病だ。おまえとの一件で、すっかり、恋愛沙汰に懲りたようだな。その手の話題になると、うまく逃げていく。勘が良すぎて、逃げ足の早いあれを、捕まえられるような奴が、その辺りにごろごろしているとは思えないな」

『‥‥‥それは‥‥‥そうだけど‥‥‥でも』

「そもそもおまえは僕にどうしろと言うんだ。あれは、追えば逃げる」

『‥‥‥ううううう』

「責任を感じるのなら、黙っていろ。仕事の邪魔だ」

『‥‥‥ううう、でも、でも、ナル。僕、嫌なんだよ。ナルならいい。でも、他の誰かに麻衣を取られるのは‥‥‥どうしても嫌なんだ! 我が儘だって分かってる! でも、いやなんだ!』

 ジーンの叫びを、ナルは、無視した。

 相手にしても仕方ないと思ったからだった。

 そのナルの拒絶をどう受け取ったのか、その後、ジーンの気配は、ナルの周囲から、消えた。

 だが、ナルは、完全に消えたわけではないと、分かっていた。

(‥‥‥眠ったわけではないな。ただ、少し、遠くに行っただけだ)

 あの世とこの世の狭間で、いつもは、眠っているのに、どうしてジーンがずっと目覚めているのか、それは、ナルにも分からなかった。

 調査の時、目覚めることもあるが、これほどにはっきりといつまでも目が覚めていることは、いままで無かった。

 原因について、勿論、ナルは、考えていないわけではない。

 だが、いくつかの候補はあるが、どれも、確定的ではなかった。

 そして、ジーンが叫ぶ戯れ言についても、どうしたらいいのかなど、ナルには、分からなかった。どうにかしろとジーンは叫ぶが、どうしたらいいのか知りたいのは、ナルの方だった。

 あれから、まもなく一年が過ぎようとしている。  

 ジーンの遺体を見つけて、一年が。

 麻衣が、心中で密かに育てていた恋情が砕けて、一年が。

 その一年が、長いのか短いのかは分からない。ただ確かなのは、一年という時間は、その時、深く傷ついた麻衣を癒すには足りないということだ。

 そして、反対に、その一年は、ナルの気持ちを育てるには、十二分だった。いや、正確には、自覚させるには、十二分だったと言うべきだったかもしれない。

 ナルにとって、麻衣が、特別であると、認識させるには、十二分だと。

 けれど、ナルが自覚しても、無意味だった。

 淡い恋情を、あまりにも無惨に砕かれた麻衣は、無意識に、そういった事柄のすべてを避けてしまうようになっていた。いま、ナルが、なにを言っても、麻衣の気持ちは、動かない所か、遠くなるだけだった。

 それが分かっているから、ナルは、動けない。

 動きたくても、動けないでいた。

(‥‥‥諸悪の根元が!)

 そもそもの原因は、ジーンが、ジーンであると、麻衣に言わなかったからだった。ジーンとナルを混同するように振る舞って、誤った認識を正さなかったせいだった。

 始めから分かっていれば、なにもかもが違っていただろう。

 勿論、ナルは、過去をやり直したいなどと馬鹿なことは思わない。

 だが、原因の一端を作っておきながら、騒ぎ立てる愚かさは、許せなかった。

(当分、戻って来るな!)

 ゆえに、ナルは、かろうじてジーンと繋がっているラインを通じて、叫ばずにはいられなかった。叫んでも無意味だと分かっていたが、それでも。

 

 

 我が儘だと分かっていることを叫んで、ジーンは、ナルから離れた。

 そんなジーンに、ナルの苛立ち混じりの声が、追い打ちを掛けた。

(‥‥‥諸悪の根元が!)

 そのとおりだ。

(当分、戻って来るな!)

 叫ばれるのは、自業自得だった。

 そのことを、ジーンは嫌と言うほど自覚している。

 そして、自らが犯した罪の深さも、分かっている。

 いや、正確には、あの時、麻衣が、同じ高校の男子学生に告白されている姿を垣間見たときに、思い知らされた。ジーンが思っているよりも、麻衣は、ずっと傷ついているのだと。

 大丈夫だと笑ってくれたけれど、全然、大丈夫では無かったのだと。

 ジーンには、分かった。

 告白されて、麻衣は、驚いてはいたが、少しも、揺らいで無かった。

 考える余地すらも無かった。

 相手が好きか嫌いかというごく単純な判定すらも無く、ただ、拒絶していた。

 一年前の麻衣なら、きっと、あわあわしただろう。そして、年頃の少女らしく、断るかどうかは別として、胸を弾ませただろう。なのに、年頃の少女らしいその気持ちは、ジーンに砕かれて、欠片(かけら)も残っていなかった。

────拒絶。

────ただ、拒絶。

 心揺らす恋情のすべてを、麻衣は、拒絶していた。

 きっと、もう二度と、傷つきたくないから。

 一年前の傷が深すぎて、痛すぎたから。

(‥‥‥ごめん。ごめん、麻衣。ごめん、ナル)

 一年経って、自らの罪深さを改めて思い知らされて、ジーンは、深く後悔している。反省している。けれど、でも、それでも、譲れなかった。身勝手だとは分かってはいるが、それでも、麻衣がナルから離れるのは嫌だと、麻衣がナル以外を選ぶのは嫌だと‥‥‥愚かだと分かっていても、胸の奥が黒々としたもので満たされてしまいそうなほどに嫌だった。

 もしも目の前で、麻衣が、他の誰かを選んだら。

 悪霊に堕ちてしまいそうな程に嫌だった。

(‥‥‥どうしたら、どうしたらいいんだろう。時間が要る。でも、時間が無い。このままだと、僕は、また‥‥‥‥‥‥)

 

 

 

 

 

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ buck