‥‥‥‥‥‥‥second -1

 

 

‥‥‥‥‥‥話は少し遡る。

 ナルが、論文を書き終わった瞬間に。

 

      ※

 

 最後の一文を打ち終わり、ナルは息を吐き出した。

(‥‥‥さすがに疲れたな‥‥‥)

 固まってしまった体は、ぎしぎしと軋み、目が霞む。

 後は修整のための打ち出しだけだ。

 とりあえず仮眠を取ることに決めて、ナルは立ち上がる。途端、くらり、と視界が揺らいだ。

 同時に、誰かが、呼んだ。

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ナル。

 

 呼ぶ声の主は、予想外の人物だった。

 ナルは眉間に皺を寄せて、それでも、机の引き出しにしまっておいた鏡を取り出した。鏡の中には、予想通り、ナルと良く似た、ナルより若い少年が、にっこりと微笑んでいる。

『お疲れさま。やっと、終わったみたいだね』

『‥‥‥‥‥‥なんの用だ?』

『もうすっごく焦ったよ。何度呼びかけても気が付いてくれないし。間に合わないかと思って、冷や汗が出たよ‥‥‥のめりこむのが悪いとは言わないけどさ』

 限度ってもんがあるよね、と嬉しげに笑われて、ナルは無言で鏡を閉じる。

『ああああっっっひどいっっっっ!』

 だが、鏡を閉じても、うるささは変わらない。

 いや、余計に騒がしくなった。

『話しを聞かないと絶対に後悔するんだからね!』

 仕方なく鏡をもう一度開ける。

『それで?』

 さっさと言え、と圧力を掛けるナルに、ジーンは滅多に見せない真剣な眼差しを向けた。

『‥‥‥‥‥‥麻衣が狙われている。いままでは、固い殻が麻衣を護っていたけど、殻が壊れ始めてる。漏れ出す光りを、嫌な奴が見つけたみたいだ。手に入れようと罠を仕掛けてる』

 ナルは、すうっと目を細めた。

『的確に話せ』

『これ以上はないほど的確に話しているよ?』

『奴とは誰だ?』

『若い男だね。若い男たち、と言うべきかな。虚栄心が強くて支配欲が強い奴を選んで渡り歩く‥‥‥悪意、みたいなものかな。僕にも良く見えない。ともかく真っ黒で‥‥‥形も曖昧だし。確かなのは、アレは、麻衣を傷つける。それだけは間違いない』 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥やめてっ!

 

 不意に、目まぐるしく変わる光景が脳裏に流れ込んでくる。白い肌、泣き叫ぶ声、鮮やかな赤、笑う低い声‥‥‥。

 

『‥‥‥これは、なんだ?』

 問いかけに、ジーンは答えなかった。ただ、笑みを浮かべる。

『ジーン』

 冷ややかすぎる呼びかけの圧力も、双子の兄には効力がない。

『気を付けて』

 だったらもっとまともな情報をよこせ、とナルが告げる前に、ジーンの気配は消え失せる。同時に、書斎の扉を叩く音が、静かに、響いた。

 

「‥‥‥‥‥‥ナル?」

「なにか用か?」

「ええっ?」

 返答を返すナルという珍しいものに出くわした麻衣は、大きく目を見張った。

「‥‥‥あれ、終わったの?」

「‥‥‥‥‥‥ああ」

「そっか、ごくろうさまでした。紅茶、飲む?」

「‥‥‥‥‥‥ああ」

 

 麻衣は嬉しげに笑って、踵を返した。弾むような足取りだ。きっと、いま、その瞳は輝いているだろう。けれど、たまに、それが、揺れることをナルは知っている。

 どうしたらいいのか分からない、と困惑を宿して、途方に暮れた子供のような顔をしていることが、ある。

 迷っているのか。

 惑っているのか。

 それは定かではない。知りたいとも思わない。

 もしも揺れる瞳の奥にある思いが、予想したものだったならば。

(‥‥‥‥‥‥愚かな‥‥‥)

 瞬時に浮かんだ想像に、ナルは嗤った。

 

 

     ※

 

 

‥‥‥‥‥‥その日、安原は、休みであった。

 

 が、突然呼び出しが掛かり、友人との約束をキャンセルして指定の場所へと駆けつけた。

 指定の場所とは、いつものオフィスではない。調査場所でもない。

 なんと、呼び出した所長のマンションである。

 そして、そこに同席しているのは、勿論所長とリンと‥‥‥。

「‥‥‥‥‥‥こんにちわ、広田さん」

 にっこり笑って見せると、疲れたような顔で見返されて、ああ、とか、うう、とか不明瞭な返答が返って来た。その顔色から察するに、心身共に弱っているようだ。

 なぜ、この人が、こんな所に居るのか。

 最も毛嫌いしているはずの人のテリトリーに。

 問わずとも、答えは出る。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥lastkissmenu    back   next