黒い夢
蒸し暑い真夏の夜、イルカは、一人、夜の街を歩いていた。 今夜、イルカは、一人の同僚、いや、友人を、見送った。 朗らかな明るい良い奴だったが、内に、激しい決意を秘めていたらしい。 戦地へ行く、と、彼は、唐突に決めて、転属届けを出した。 忍びである以上は、戦うのは当然のことであり、戦地へ赴くことも、また、当然のことではあった。 イルカも、若い頃は、戦地に赴いたことがある。 だが、いま、イルカは、戦地へ赴きたいとは思えなかった。 三代目を喪った後の、混乱期を抜けて、里は、再び、安定していた。 それが薄氷の上を進むような脆い平和だと、イルカは、知っている。 だからこそ、いまの、得難い安定を、喪いたくなかった。 勿論、木の葉の忍びとして、有事の際には、命を惜しむつもりはない。 けれど‥‥‥。 『生温い場所で、腐りたくなかったんだ。俺は、駄目だ。腐っちまう奴なんだよ』 戦地へと赴く決意をした、同僚の気持ちは、分かるけれど、分かりたくない。 それに、認めてしまったら、足下が、崩れてしまう気がした。 人は人、自分は自分だと、分かっているのに。 そんなことはとうの昔に、理解しているのに。 なんだか、駄目になってしまいそうで、怖かった。 --------考えるな。 飲んだ酒の余韻で、頭が、うまく働いていないのが、分かった。 ひどく後ろ向きな気持ちになっていることも。 そして、イルカは、ちゃんと、知っているのだ。 そんなことは、いま、考える意味など無いことを。 --------考えるな。 けれど、脳裏では、いつも一緒に馬鹿騒ぎをしていたのに、どこかが変わってしまった同僚の、なにかを突き抜けた穏やかな笑みが、幾度も、繰り返し、蘇っていた。 なにかを決意した者の潔さが、鮮やかで、少し、痛い。 --------考えるな。 かつての戦地での日々も思い出してしまい、イルカは、なんだか、泣きたい。 けれど、泣くのは、あまりにも情けないので、ぐっと堪えて‥‥‥。 ふと、その瞬間、異和感を、感じた。 それは、とても、不思議な、感じだった。 イルカの忍びとしての鍛え上げた感覚は、なにもない大丈夫だ、と、教えてくれる。だが、そうではない感覚、鍛えることの難しい、そう、直感のような、本能のようなものが、おかしい、おかしい、と、密やかに囁くのだ。 なにがおかしいのかも分からないのに。 なぜか、背筋が、ひやり、とした。 --------なんだろう? イルカは周囲を見回した。 そうして、慎重に、慎重に、慎重に周囲を見回した。 けれど、やはり、なにも、見つけられない‥‥‥。 でも、なんとなく、異和感があるような場所へと、足を、向ける。 それは、普通の、路地裏だった。 細い暗い、街灯の明かりからも、隔絶されている、けれど、なんの変哲もない普通の‥‥‥普通の‥‥‥普通。 --------でも、なにかが‥‥‥違う? 足を進めた途端、ぱしり、と、なにかが、割れた。 それが、巧妙な結界だと気が付いた途端、イルカの前には‥‥‥。 (‥‥‥ひと‥‥‥くろい‥‥‥ひと‥‥‥けもののめん) 圧倒的な、絶対的な、上位者の気配を纏う、黒い人が、現れていた。 黒髪のその人は、座り込んでいた。 ぱっと見は、具合の悪い人が座り込んでいるような。 あるいは、なにかの塵袋のような。 そんな風情だった。 だが、空気が、纏っている圧倒的な気配が、なにもかもを変えている。 真っ黒な、けれど、なんの変哲もない路地裏が、あっと言う間に、生死の境へと、塗り替えられていく。 (‥‥‥けもののしろいめん‥‥‥あんぶ‥‥‥あんぶ) 本能が、逃げろ、と、叫ぶ。 生命の危機を感じて、悲鳴のような声を上げている。 だが、イルカは、なんとか、踏み止まっていた。 恐ろしい、と、わめく本能を押さえ込むことが出来ていた。 それは‥‥‥。 (‥‥‥大丈夫。暗部だって、里の仲間だ) 愚かだと分かっているけれど、譲れない気持ちが、させたことだった。 それに、黒髪の暗部は、蹲っている。 もしかしたら、本当に、具合が、あるいは、怪我をしているのかも、と、思ったからだ。もしも動けないほどに酷いのならば、医療班を呼ばなくてはならないだろう。 それは、里の仲間に対する当然の責務だった。 「‥‥‥あ‥‥‥あの‥‥‥だ、大丈夫ですか?」 イルカは、覚悟を決めて、恐る恐る声を掛けた。 その途端、 「‥‥‥え?」 イルカは、夜ではない、闇の中へと、あらがうことのできない強い力で、引きずり込まれた。
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