‥‥‥‥‥‥‥

調査のネタバレをかなり含みます。

( )はルビをHP用に変換するとこうなるだけで、本文はルビになっています。

 

 

 

 

     

 

 

 

 天窓越しに、日差しが柔らかく降っていた。

 穏やかで静かなサンルームで、しわくちゃだらけの顔に、老女は、笑みを浮かべた。 

「‥‥‥亜麻子(あまね)ちゃんが、昔のことを知りたがるなんて、珍しいねぇ」

「そうかしら?」

「珍しいねぇ。あたしが知る限り、初めてだねぇ。頭が大分ぼけちゃったから、忘れてしまったかもだけどねぇ」

 亜麻子は、微笑む祖母に、昔話をせがむのは、初めてだと言われて、過去を振り返った。

「‥‥‥そういえば、そうかも。昔のことを聞くなんて、したことないかも」

「そうかい。じゃあ、あたしの頭はまだ無事みたいだねぇ」

 亜麻子の返答に、祖母は、ますます笑みを深めた。

「‥‥‥なんとなく、おばあちゃんは、最後まで、ぼけなさそう」

「それは困るねぇ」

「困るの?」

「ぼけた方が楽そうなんだよねぇ」

「‥‥‥」

 ころころと笑う祖母の言葉が本心かどうかは亜麻子には分からなかった。

 少なくとも亜麻子は、ぼけるのだけは嫌だ。

 祖母のように足がうまく動かなくなってもいいから、ぼけるのだけは勘弁して欲しい。

「‥‥‥おばあちゃん、それで、井上家のことって」

「ああ、うん‥‥‥覚えているよ。忘れられないからねぇ。可哀想だったよ」

「可哀想?」

「お金持ちでねぇ。うんとお金持ちでねぇ。なにも知らない時は、羨ましく思ったこともあるけれど‥‥‥。あそこの子供は、いっつも一人でねぇ。学校でも、だーれも相手にしなくて近付かなくて‥‥‥可哀想だったねぇ。でも、話しかけると、すぐに、母さんたちに伝わって、どえらい怒られるから、できなくてねぇ」

「‥‥‥そうなんだ。村八分ってやつ?」

「そうだねぇ。そんな感じかもねぇ。可哀想なのは、先生も、そうだったことかねぇ。そこに居るのに、みーんなが無視していて‥‥‥いつもいつも寂しそうだったねぇ。母親がたまに迎えに来ていたけれど、その時、たまたま立ち聞きしたんだけど‥‥‥泣いてたねぇ。どうして、私だけ、いつも仲間はずれなのって‥‥‥‥」

「‥‥‥そうなんだ。でも、どうしてそんなに嫌われたの?」

「嫌われたんじゃないよ。みんな、怖かったのさ。あたしも、怖かったよ。あそこに関わると、本当に、良く、人が死ぬんだよ」

「‥‥‥そんなに?」

「あたしが知っているだけで、五人は死んだねぇ」

「‥‥‥五人」

「あたしはまだ小さかったから、あたしの耳には入らないようにしていたから、本当はもっとたくさんだろうねぇ」

「‥‥‥それって、本当に、井上家の呪いの所為なの?」

「そうだねぇ。そう言われると‥‥‥どうなんだろうね。もしかしたら、違うのかもしれないねぇ。証拠なんてなにもないんだから」

「‥‥‥井上家がお金持ちで僻(ひが)んだだけかも?」

「‥‥‥」

 亜麻子の問い掛けに、祖母は、しばし、黙り込んだ。

「おばあちゃん?」

「ああ、うん‥‥‥そういうのもあっただろうね。あの村は、井上家とお寺さんを除けば、みんな、貧しかったからねぇ。井上家に近付いて、同じようにお金持ちになろうとしても、難しかったからねぇ」

「‥‥‥井上家はそんなに特別だったの?」

「特別だったねぇ。みんな頭が良くてねぇ。商売がうまかった。真似しようとしてもとてもできないほどにねぇ」

「‥‥‥」

 亜麻子は、どうしてだろう、と、思った。

 どうしてそこまで井上家は特別なのだろうか、と。

「‥‥‥呪われていたんだよね?」

「そうだねぇ」

「なんか、聞くと、恵まれている気がするんだけど」

「‥‥‥そうだねぇ。そうとも言うねぇ」

「そんなに頭が良い人ばかりって‥‥‥なんか変」

「‥‥‥血じゃないかい?」

「血?遺伝子のこと?」

「あたしは良く知らないけど、井上家は、元々、えらい所の血筋らしいからね。村の者とは、いろんなことが違ってたしねぇ」

「‥‥‥血筋ねぇ」

 そんなものはあまり当てにならない、と、亜麻子は知っている。どれだけ両親が出来た人でも、子供まで出来ているとは限らない。反対に、子供がどれだけ良い人でも、両親が良い人とは限らない、と。

 だが、井上家は、特別で在(あ)り続けた。

 少なくとも、村では。

 それは、なぜだろう。

 亜麻子も、商売をしているから、とても興味があった。

「‥‥‥お金持ちだから家庭教師を雇っていたってのは?」

「ああ、居たねぇ」

 それだ、と、亜麻子は心中で突っ込んだ。

「きらきらの金髪で、初めて見た時は、びっくりしたよ」

「‥‥‥外国人を雇ってたんだ」

 あの時代で、それは凄い。

 そこまで教育に力を入れていれば、村を出て、都会でも、潰(つぶ)れなかったのも、納得がいく。

 むしろ、そんな家が、あの村にあった方が、おかしい。

「‥‥‥でも、ねぇ、亜麻子ちゃん。ぜーんぶ、昔のことだよ。井上家は、もう、村には居ないんだから‥‥‥」

「帰って来るかもしれないって、噂になってるわ」

「‥‥‥‥‥‥なんだって?」

 なにげなく答えを返した亜麻子は、祖母の形相に驚いた。

 いまのいままで穏やかに微笑んでいたのに、いきなり、鬼のような形相になったのだ。

 そんな顔を見たのは始めてだった。

「お、おばあちゃん?」

「駄目だよ」

「え?」

「関わっちゃいけない。亜麻子ちゃん、あの家には、関わっちゃいけないよ。無視しなさい。お金なんて気にしたらいけないよ」

 可哀想に、と、言っていた口で、関わるな、と、祖母は言った。

 きっと、祖母の母が、言ったように。

 そして、昔、事故で、指が二本欠けてしまった手で、三本だけだとは思えないほどの、強い強い力で、亜麻子の腕を、掴んだ。

「あの家は、不吉なんだから、関わったらいけないよ。絶対に」

 鬼気迫る祖母の言葉に、亜麻子は、とりあえず頷いた。

 これ以上、興奮させないように。

「‥‥‥うん、うん、分かってる。大丈夫だよ、おばあちゃん」

「絶対だよ」

「‥‥‥うん」

「絶対に、絶対だよ」

「‥‥‥うん」

「みんなが追い出すと言い出しても、関わっちゃ駄目だよ。酷いことになるからね。ともかく関わったら駄目だよ」

「‥‥‥‥‥‥うん」

 ああ、昔、なにかがあったのだな、と、亜麻子は悟った。

 けれど、聞きたかったけれど、それ以上は、問い掛けなかった。

 祖母の心臓は、弱っている。

 興奮させるのは危険過ぎる。

 だから、何度も、頷いた。

 何度も、大丈夫だよ、と、囁いた。

 何度も、何度も、何度も‥‥‥‥‥‥。  

 

 

 

     

 

 

 

 東京地検特捜部にある通称ゼロ斑は、心霊現象や呪詛などについての案件を取り扱っている、日本で唯一の部署である。なので、三人だけが所属している小さな部署だが、管轄外の地域からも、しばしば、案件が持ち込まれていた。

だから、東京からかなり離れた場所での事件が持ち込まれても、おかしくはない。

 また、渋谷サイキックリサーチとゼロ斑は、過去、ある事件を切っ掛けに繋がりが出来たので、しばしば、情報交換などをしているので、渋谷サイキックリサーチ絡みであることも、別に、おかしくはない。

 だが、それでも、今回の一件は、なんだか気に入らない、と、中井咲紀は思っていた。

 そもそも同僚の広田が、後輩絡みとはいえ、まるでその辺のアルバイトの如く、渋谷サイキックリサーチ関係者のアシスタントに駆り出されたことからしておかしいし、広田だけではなく、咲紀までも、駆り出されたのが、おかしい。

(‥‥‥裏になにかあるのかしら)

 行ってらっしゃい、と、送り出した倉田検事からは、なにも聞き出せなかった。

 広田くん一人だと手に余るようだから手伝って来てあげてね、と、実に気軽に言われただけだ。

(‥‥‥変なことじゃなければいいけど)

 とりあえず警戒は怠らないようにしよう、と、咲紀は強く思った。

 そして、気合いを入れてから、車から降りて、周囲を見回した。

 そこ、玄野村は、長閑(のどか)そのものだった。

 木造の家々と、畑と、緑が、穏やかな日差しに照らされていた。

────呪い。

────殺人。

 そんな言葉は、酷(ひど)く、似合わなかった。

 だが、この村で、事件は起きた。

 目の前の寺で、人が、死んだ。

 しかも、かろうじて人の原型を保っているだけの、惨(むご)い死に様だったという。

────呪い。

────殺人。

────惨殺死体。

 確定はできないし、いまの段階で、してはならないことだ。

 けれど、渋谷サイキックリサーチの過去の実績を振り返れば、それが、単なる殺人である可能性は、物凄く、低い。彼らは、咲紀たちとは違う意味での、プロだ。彼らが、厄介で危険だと判断したのなら‥‥‥。

 咲紀は、手入れの行き届いた小さな寺を、見つめた。

 そして、その周囲を、ふと、黒いなにかが覆っているように感じて、ぶるぶると首を横に振った。

 

  

     ※

 

 

「‥‥‥んで、どういうことなの?」

 玄野寺で泥棒が死んで二日後、広田の同僚の咲紀がやって来た。

 そして、麻衣たちがベースにしている民宿にやって来て、開口一番、なんだか怒っているような顔で、問い掛けた。

「それは、こちらの方が知りたいですね」

「蔵の方の交渉はしてあげたんだから、説明してくれてもいいんじゃない?」

「蔵の件は、別に、こちらは開けて貰っても構わないのですが?被害者が増えるとそちらが困るだろうと配慮しただけですので」

 ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。

 最初の出会いが悪かったのか、咲紀とナルは、会えば、いつもこんな感じだ。

 たぶん、咲紀が、最初から、ちょっぴり喧嘩腰なのが、良くないのだろう。

 そういうタイプに、ナルは、自分から折れて、親切にしたりはしないのだから。

「‥‥‥おいおい、折角、来て貰ったのに、そりゃあ、あかんだろう」

 麻衣が、間に入るべきかと悩んでいると、見かねた滝川が間に入った。

「咲紀さん、ナル坊の言い方は悪いが、こっちも、分かっていないことが多いんだ。いきなり答えろと言われても、困る」

「‥‥‥そうなの?」

「‥‥‥まー、多少は、分かっていることもあるけどな」

 咲紀は、物凄く、意外、という顔をした。

 なんとなく咲紀が、渋谷サイキックリサーチ、いや、ナルをどう思っているのかが良く分かった気がした。面白くないが有能、なにもかもすでに把握して分かっていて当然、と。

────なんだか、屈折した信頼である。

「‥‥‥じゃあ、とりあえず、分かっている所を説明して頂戴。検事からは、渋谷サイキックリサーチに全面的に協力しろって言われているから、こっちも、流せる情報は流すわ」

「‥‥‥最初からそう言えば‥‥‥」

「それで?」

 滝川のぼやきに咲紀は取り合わない。

「‥‥‥あー、玄野寺の蔵には、いま、井上家っていう、曰く付きの家の墓から取りだした刀がしまってある。井上家には、代々かなりごつい呪いが掛かっていて、現在、活性化している所だ。つまり、んな所に、わざわざ盗みに入るのは、死にに行くようなもんだな」

「刀?‥‥‥価値があるの?」

「さあなぁ。少なくとも、俺が見た限りだと、ぼろぼろに錆びていて、銘もなにも判別できないような状態だった。いま、専門家を派遣して貰うように手配している所で、いまの段階では、価値があるかないかは分からない」

「‥‥‥おかしいわね。それとも、価値があるに違いないと勝手に思い込んだのかしら。泥棒に入った男は、大きな借金を抱えていたらしいの。借金返済の為に、玄野寺に盗みに入ったのは、間違いが無いだろうってことなのよ。蔵には、いつもは、貴重品なんかは保管していないってことだから‥‥‥」

「んじゃ、刀狙いか。‥‥‥刀の件は、あの時点で知っている人間は少なかったから、男の関係者、あるいは、共犯者が、寺の関係者ってことか」

「‥‥‥ええ、そうよ。知らなかったの?」

「知りたくても、その一件以来、村人は、俺たちを避けまくっていて、なんともならん状態でねぇ。広田たちも、騒ぎが落ち着くまでは、と、動いてないし。‥‥‥ご機嫌は直角なんだわ」

 ちら、と、滝川は、ナルを見やった。

 ナルは、滝川が間に入った途端、咲紀たちに背を向けて、ファイルをめくっている。

「‥‥‥ああ、成る程ね。じゃあ、泥棒の身元も知らないのね。死んだのは、井上雄高。役場の職員ね。玄野寺に手伝いに行っている笹本間知の弟よ。姉の話では、井上家の墓から副住職たちがなにかを取り出したという話しに、興味津々だったそうよ」

「‥‥‥井上、同じ苗字だな。親戚とか?」

「それよ。それ」

「それ?」

「井上という名前で、死んだ男は、結構、苦労したらしいのよ。姉の方は、苗字が嫌で、早くに結婚したらしいのね。でも、色々と苦労していたらしいけど、実際は、まったく関わり合いがないらしいわ。だから‥‥‥迷惑料に少しぐらい寄越せ、というのが、口癖だったそうよ」

「‥‥‥あー、成る程」

「借金は、一千万円近くあったようね。ここ最近、返済に随分と困っていたようね。最近は、この辺りの再開発話しにご執心で、過疎化の調査に訪れていた、超絶怪しい二人組に、まとわりついていたみたいねぇ」

「‥‥‥あー」

「あと、こっちの記録に、同じような死に方をした男の記録が残っていたの。随分と昔なんだけど、この辺りで殺人は珍しくて、覚えている人が多かったみたいね。井上家で泥棒が殺された件だけど、そっちは?」

「あー、そっちは、把握している」

「それで、井上家の呪いって、なんなわけ?」

「敵対したり、害を与えた人間を殺すみたいだなぁ。あと、井上家の人間も、早死にする」

「‥‥‥守っているのか、守ってないのか、呪いなのか、呪いじゃないのか、よくわかんないわねぇ。呪いってそんなものなの?」

「あー、こっちの道理が通じないからな。もしかしたら、井上家の守り神みたいなものだった可能性も高いが、なんか、どっかで扱い方を間違えたんだろうな」

「やーねぇ。‥‥‥つまり、気難しい話しの通じない用心棒みたいなものね。下手をすると雇い主も殺しちゃうような」

 口を出して余分なことを言うと怒られるので、お茶を啜りながら、麻衣は、二人の会話を聞いていた。そして、不意に、それだ、と、思った。

「‥‥‥だから、殺されたんだ」

「麻衣?」

「‥‥‥でも、なにが欲しいの?」

 麻衣は、考え込んだ。

 けれど、うまく、纏まらなかった。

「麻衣、どうした?」

 肩を掴まれて、顎も掴まれて、顔を上げさせられて、麻衣は、目を瞬いた。

「ナル、どうしたの?」

「‥‥‥」

 酷(ひど)く強ばった顔をしていたナルは、どうしてか、吐息を吐き出した。

「なにが分かった?」

「え?」

「殺された理由が分かったんだろう?」

「え‥‥‥あ、うん」

 麻衣は、ああ、それか、と、納得した。

「小夜音さんのご家族は、報酬を払わなかったの。だから、殺されたの」

「‥‥‥」

「ちゃんと役目を果たした用心棒に褒美を渡さなかったから、殺されたの。でも、褒美ってなんだろうね?お金じゃないのは確かだと思うんだけど‥‥‥」

 麻衣は、悩んだ。

 真剣に。

 麻衣は、困っていた。

 かなり切実に。

「褒美を渡さないと、また、怒ると思うの。しばらくは我慢できるけど、長くは無理なの。だからね、早く、渡さないとやばいと思うんだよね」

麻衣は、うんうん、悩んだ。

「‥‥‥‥‥‥麻衣や、おまえなぁ‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥困った子ねぇ」

 そんな真剣な麻衣に向かって、滝川と綾子は、どうしてか、吐息を吐き出した。

 なぜか、咲紀まで、吐息を吐き出している。

「え?なんか変なこと言った?」

「なぜ、そんなことが分かった?なにか視(み)たのか?」

「‥‥‥え?‥‥‥なんとなく?」

 麻衣は、正直に答えた。

 途端、ナルまで、深い深い溜息を吐き出した。

「‥‥‥え?なんで?」

「リン、副住職たちに連絡してくれ。いま以上の警戒が必要だ」

「分かりました」

「それと、安原さんに連絡を。ここ最近の井上家についても、調べるように、と」

「‥‥‥そうですね」

「え?なんで?」

「依頼人の姉は、今年の五月に死んだ」

「うん、そうだね」

「ならば、それ以前に、井上家に、なんらかの災いが起き掛けたということだ」

「あ、そっか‥‥‥」

 そうか、と、頷いて、麻衣は、不意に、また、分かった。

 まるで、思い出すように、知った。

「‥‥‥痴漢、だよ」

「‥‥‥」

「暗い夜道で、綺麗な女の人を待っていた」

「‥‥‥」

「傷つける為に」

「‥‥‥」

「だから、処分したの」

「‥‥‥いつ?」

「‥‥‥いつ‥‥‥いつ‥‥‥」

 麻衣は、問い掛けに誘われて、記憶を、遡った。

 そして、虫たちのざわめきを、思い出した。

「‥‥‥蝉が鳴いているから‥‥‥たぶん、夏」

 

 

 

     

 

 

 

 いつのまにか、麻衣は、また、真っ暗な闇の中に居た。

 冷たくて堅くて暗い場所で、蹲(うずくま)っていた。

 そして、ただひたすらに、待っていた。

 期待してはいけないと思いながらも期待しながら、待っていた。

────勤めを果たした。

────勤めを果たせた。

 胸の内には達成感が満ちていた。

 ようやく、と、深い安堵が、満ちていた。

 だからこそ、期待は高く、不安も高い。

────まだ、だろうか。

 暗闇の中、麻衣は、待ち侘びていた。

 けれど、なかなか、なかなか、鈴の音は、聞こえない。

 早く早く早く、と、願うのに。

 鈴の音は、どこからも、聞こえない。

────足りないの、だろうか。

 暗闇の中で、麻衣は、ふと、思った。

────もっともっと勤めを果たさなくてはならないのだろうか。

────もっともっと‥‥‥以前のように。

 それは、少しだけ、嫌なことだった。

 けれど、それでも、構わない、とも、思った。

 呼んで貰えるのなら。

 会えるのならば。

 それで、構わない。

────もっともっと勤めを。

────まだ、だろうか。

────もっともっと勤めを。

────まだ、だろうか。

 思考が、乱れていくのが、狂っていくのが、分かって、麻衣は、泣きたくなった。

 留(とど)めたいのに、駄目だと思うのに、どうしようも無かった。

(‥‥‥お願い、正気に返って)

 黒い冷たい狂気が、ひたひたと、身体を満たしていく。

(‥‥‥お願い、もう少しだけ、待って)

 苦しみを忘れさせる狂気は、甘く、抗いがたく。

 麻衣の願い虚しく、麻衣は、いや、麻衣と同調しているなにかは、ゆっくりと、だが、確実に、正気を喪い‥‥‥‥‥再び、黒い狂気として、目を覚ました。

 そして、なにものにも妨げられることなく、駆け出した。

 

 

 

     ※

 

 

 

 どうしてこんなことになったのか、と、間知は思っていた。

 年の離れた弟は、困った子だったが、可愛かった。なのに、死んだ。惨(むご)たらしく殺された。

 間知が手伝いに行っている玄野寺に、忍び込んだ所為だとは、分かっている。悪いことをしたのだということも。だが、それでも、どうしても、死んで当然のことをしたとは、とてもとても思えなかった。

 呪われたあの家の墓から、刀が取り出されたことを、弟に話してしまったのは、間知だった。 いまなら話してはならなかったのだと分かる。だが、あの呪われた家は、間知とも少しだけ関わりがあって、怖くて、話さずにはいられなかったのだ。

 間知の元々の姓は、井上、だった。この辺りでは特に珍しい名前ではない。だが、それと同時に、毛嫌いされる名前だった。特に年配の人には。間知自身も、苗字ではいい思い出がない。役所に勤めている弟は尚更だった。同期より出世が遅れているのは、苗字のせいだと、良く嘆いていた。

 だが、勿論、間知たちは、あの井上家とはなんら関わりがない。

 理不尽だった。

 不利益だけが降り掛かって、不公平だ、とも、思った。

 だから、間知は、弟の気持ちが、良く分かった。

 盗みは良くないことだが、盗んでしまえ、と、思ってしまう気持ちが。

────いや。

 間知までもが、弟は盗むために忍び込んだと考えてしまったが、あるいは、弟は、ただ、確認したかっただけかもしれない。間知たちに不利益を齎(もた)らした井上家の墓から、どんな物が、出て来たのかを。

 ならば、弟が、殺されたことは、あまりにも、惨(むご)い。

 可哀想だった。

(‥‥‥どうしてこんなことに‥‥‥)

 弟の遺体は、まともな原型を留(とど)めて居なかったらしい。

 年老いた両親には見せない方がいいと言われ、間知までも、外された。

 後の始末は、間知の夫が、してくれた。

 夫は、良い人だった。けれど、そんな夫にまで、いま、迷惑を掛けていた。

 妻の弟が玄野寺に盗みに入ったなんて、村八分になって当然のことだった。

 玄野寺は、この辺り一帯では、とても尊敬されている。幸い、夫は、町に働きに行っているから、勤め先にはあまり支障がないらしいが、村人には、いろいろと言われているようだった。

 町に引っ越さないか、と、問い掛けた顔は、疲れ果てていた。

(‥‥‥どうしてこんなことに‥‥‥)

 村は、豊かではないが、居心地が良いところだった。

 苗字では嫌な思いもしたが、それで同情してくれる人も多かった。

 なによりも、町で暮らせば、生活は苦しくなるだろう。

 村と町では、家賃と生活費がまるで違う。

(‥‥‥どうしてこんなことに‥‥‥)

 弟の残した借金についても、心配だった。

 都会から来て、最近弟と仲良くなったという人が、親切にも、弁護士を紹介してくれて、手配してくれたらしいが、普通よりは随分と安いらしいが、間知たちにとっては、その破格値の弁護士費用さえも、大きな負担だった。

(‥‥‥どうしてこんなことに‥‥‥)

 居なかったら良かったのに、と、間知は強く強く思った。

 あの井上家が、この村に居なければ、なにもかもがうまくいっていたのに、と。

 せめて、帰って来なければ。

 帰って来ようとしなければ。

 こんなことにはならなかったのに。

────‥‥‥チリン。

 不意に、どこからか鈴の音が聞こえて、間知は、顔を上げた。

 誰かが来たのかと思ったのだ。

 客人など鬱陶しいが、居留守を使うわけにもいかない。

 だが、結局、誰も、来なかった。

(‥‥‥空耳かしら?)

────‥‥‥チリン。

 勘違いだと思った途端に、また、鈴の音が聞こえた。

 それも、酷(ひど)く、酷(ひど)く、酷(ひど)く、近くから。

 そう、すぐ、後ろから。

 間知の身体は、恐怖で、固まった。

 後ろを振り返ることさえできずに、ただ、ただ、ただ、固まった。

────‥‥‥チリン。

 そして‥‥‥。

 

 

 

     ※    

 

 

 

 寺で、人が死んだと聞いて、真鈴は、なんとも言えない気持ちになった。

 死んだ人は、良く知っている人だった。手伝いに来てくれている間知さんの弟は、真鈴にも良くしてくれた人だった。そもそも村人は全員が昔からの顔見知りだ。さらにその上、恐らく、盗みに入ったのだと聞かされて、真鈴は、複雑な気持ちになった。村の人が、盗みに入るなんて、真鈴は、考えたこともなかった。

 なんだかいろいろと一挙に押し寄せた感じだった。

 なにもかもが一杯一杯だった。

(‥‥‥間知さん、どうしているのかしら?大丈夫かしら?)

 だが、気になっても、真鈴から連絡することは、とても難しい。

 そもそもなんと言えば良いのかが分からない。

「真鈴、どうした?」

 ぼうっとしていると、心配そうな声が掛けられて、真鈴は、はっと我に返った。

「‥‥‥少し、ぼうっとしていただけです」

「疲れたのでは?」

「全然、大丈夫です。‥‥‥むしろ、暇なぐらいですもの」

 真鈴が苦笑すると、真鈴の大切な人、夫も、苦笑した。

『こんな時ぐらいしか、夫婦水入らずで過ごせる時間はないでしょうから、ゆっくりして来て下さい』

 玄野寺についてのすべてを受け持ってくれた副住職は、そんな風に言って、真鈴を、玄野寺から実家へ、実家から町に住んでいる姉の所へと、移動させた。

 玄野寺から離れることは、真鈴にとっては、物凄く不安なことだった。

 住職である夫が動けない時こそ、頑張らなくてはいけないと思っていたからだ。

 けれど、いまは、酷(ひど)く、感謝していた。

────寺で人が死んだ。

 それは、とても哀しいことで、真鈴には分からない怖いなにかが、まだ、終わっていないことを示しているのだが、町に居る真鈴にとっては、いまは、少し遠い場所での出来事だった。

 入院している夫の元へと、姉の家から通う生活は、なんだか普通で、寺の雑事をしなくていいから時間がたっぷりとあって、そして、穏やかだった。こんなにも二人きりで居たことなど無くて、新鮮で、そして、嬉しかった。

 夫の怪我を見ると、哀しくて、泣きたくなるけれど。

 寺のことを考えると、間知さんについて考えると、辛いけれど。

 でも、大切な人が、無事で、徐々に良くなっていることが、真鈴の気鬱を軽くしていた。

「‥‥‥姉が、いまの内に、編み物でも覚えたらって。赤ちゃんの靴下から始めたらって」

「ああ、それは、いいね。真鈴は手先が器用だから、すぐに、覚えられるだろうしね」

「‥‥‥そうかしら」

 あまり手先が器用だと真鈴自身は思っていない。

 だが、そう言われると、やってみようかしらという気になった。

 それに、自分の子供の物を自分で編むというのはとても素敵なことだ。

 持て余している時間も、無くなるだろう。

「性別がまだ分からないから、黄色で編むといいわよって。私は、緑でもいいと思うんだけど、高明さんはどう思う?」

「緑でもいいと思うよ。男の子でも女の子でも緑なら使えるだろうし」

 たわいのないことを話しながら、真鈴は、しみじみと幸せだと感じた。

 気になることはたくさんあるが、こんなにゆっくりと大好きな人と話が出来るのは、やはり、とてもとても嬉しかった。

────‥‥‥チリン。

 帰りに、少し遠回りになるが手芸屋さんに寄って、早速、緑色の毛糸を買って帰ろうかしら、と、真鈴は思った。

────‥‥‥チリン。

 けれど、不意に、背後から、鈴の音がして、思考が中断された。

 誰かが来たのかしら、と、真鈴は振り返った。

「真鈴?」

「‥‥‥いま、鈴の音が‥‥‥」

 見舞いの人が来たならば応対しなくては、と、真鈴は腰を浮かせた。

 だが、そんな真鈴を、

「駄目だ!真鈴、こっちに来なさい!」

 いつもいつもいつも優しくて、荒げた声など出したことのない人が、叫びながら、凄い力で、抱き寄せた。   

「た、高明さん?」

「‥‥‥ああ、やはり‥‥‥」

 戸惑う真鈴の首筋に、包帯だらけの顔が、埋められた。

「‥‥‥なんてことだ‥‥‥どうすれば‥‥‥」

 なにがなんだか真鈴には分からなかった。

 ただ、大切な人が、酷(ひど)く哀しんでいて、胸が、痛かった。

「‥‥‥なんて‥‥‥なんてことだ‥‥‥」

 とてもとてもとても胸が、痛かった。

 

 

 

     ※

 

 

 

 どうしてここにまた居るんだろう、と、広田は思っていた。

 あちこちが紫色に光る飲み屋の一角で、帰りたい、と、切実に思っていた。

 だが、広田を女の子たちの中に放り込み、カウンターで女店主と楽しそうに話しているまどかは、まだまだ帰る気が無さそうだった。

「そういえば、おじさん、知ってる?」

「おじさん達を連れて来た、井上のおじさん、死んじゃったんだって」

「‥‥‥ああ、らしいな」

 その一報は、勿論、広田の所に届いていた。

 その無惨な死に様についても。

「なんかねー、お寺で死んだんだって」

「なんで、そんな所で死んだのかな。変なの」

 情報はいまいち伝わっていないようだった。

 あるいはとぼけているのか。

 広田には、分からない。

「‥‥‥ねえ、その話し、あんまり、しない方がいいよ」

 一人が、不意に、声を潜めて、言い出した。

「えー」

「なんで?」

「‥‥‥なんかやばいみたい。井上さん、なんか、ちょっと、やばい所に手出ししたみたいだよ」

「‥‥‥え、まじで?」

「‥‥‥うん」

 若い女の子たちは、ひそひそと話し出した。

 広田は、話さない方がいい、と、言い出した子の顔を見た。

 後から、まどかに報告した方がいいだろう、と。

「‥‥‥広田くん!」

「は、はい!」

「でれでれしてないで、行くわよ!」

「は、はい?」

「亜麻子(あまね)さん、ありがとう!またね!」

 女店主と話していたはずのまどかが、勢い良く、外に飛び出す。慌てて、広田も後を追った。

「なにかあったんですか?」

「あったなんてもんじゃないわ」

「ええ?」

 まどかは、足早に駐車場に向かった。そして、勢い良く、車に乗り込んだ。

「‥‥‥まずいわ。笹本間知が死んだわ」

「は?」

 無粋だと分かっていながらも、断固として酒は断っていた広田も、車に乗り込んだ。

 途端、まどかは、低い声で、予想外なことを語った。

「‥‥‥笹本間知というと、玄野寺に盗みに入った男の姉の?」

「そうよ。弟と同じく、めった切りですって」

「‥‥‥」

「しかも、死んだのは自宅よ。まずいわ」

 確かに、それは、まずかった。

「このままだと、玄野村で、暴動が起きかねないわ」

 まどかの危惧は、広田にも、良く分かった。

 ここ数日で、玄野村の雰囲気は酷(ひど)く悪くなっていた。

 閉鎖的な場所での集団心理は怖い、と、思うほどに。

「‥‥‥しかし、笹本間知は、なぜ、殺されたんでしょうか?」

 呪いについての説明は受けている。

 だが、自宅で死んだ笹本間知が、それに該当するとは思えなかった。

「排除しようとしたからでしょうね」

「排除?」

「それは、後から、話すわ。ともかく、ホテルに戻りましょう。ナルたちにも連絡を取らないと。あと、咲紀さんにも」

「‥‥‥そうですね」

 頷いて、広田は、エンジンを掛けた。

 そして、まっすぐに、ホテルを目指した。

 

 

 

 

     

 

 

 

 麻衣が目を覚ますと、ベースは、なんだか、ばたばたしていた。

 そして、ベースの端で、依頼人の小夜音さんが、青い顔をして座り込んでいた。元々酷(ひど)く細い人なのに、さらにますます細くなっているような気がした。いまにも消えてしまいそうだ。

「‥‥‥小夜音さん、大丈夫?」

 麻衣が問い掛けると、小夜音は、顔を上げた。

 そして、どうしてか泣きそうな顔をした。

 どうしたら良いのか分からない、と、途方に暮れているような気がした。

「起きたのか。───なにか視(み)たか?」

「あ、おはよう。ええと、普通に眠ったみたい。なんにも覚えていない‥‥‥」

 覚えていないような、と、言いかけて、麻衣は、ふと、思い出した。

 黒い黒い闇の中で、徐々に狂っていく、気持ちを。

 褒美を待ち侘びる気持ちを。

「‥‥‥視(み)た、かも。勤めを果たして、満たされていて、褒美を待っているの。でも、褒美が貰えないから、もっと働かなければって‥‥‥。段々と、なんだか、思考が狭まっていく感じで、怖かった」

「狭まる?」

「うーん、そのことだけしか考えられなくて、考えがちょっとおかしいというか、偏っていると言うか‥‥‥」

「狂っていると言うことか」

「うーん、狂っていくというのが正しいかも」

「つまり、正常な時もあるということか」

「うん。我慢ができる時は、正常に近いと思う」

「‥‥‥成る程」

「それで、頑張らなくては、と、追い詰められて、駆け出したような‥‥‥感じで‥‥‥」

「‥‥‥」

「あとは、うまく、思い出せない」

「‥‥‥そうか」

 麻衣の報告を聞いて、ナルは、しばし、考え込んだ。

 綺麗な綺麗な顔を見上げながら、麻衣は、待った。

 思考の邪魔をしてはいけないと分かっていたから、なにが起きたのかとても気になるけれど、質問を重ねて邪魔をせずに、待った。

「ぼーさん。悪いが、封じの確認をしてくれ」

「あー、了解」

「行く時は、くれぐれも気を付けてくれ」

「分かってる。集団暴走は怖いからな」

「まずいと思ったら、引き返してくれ」

「了解」

 なにがなんだか分からないが、なんだか、ますます大変になっていることだけは分かって、麻衣は、胸をどきどきさせた。

「‥‥‥麻衣ちゃん」

「あ、はい」

「‥‥‥あのね、少し、聞きたいことがあるの」

 小夜音に呼ばれて、麻衣は、ベースの端に、寄った。

「‥‥‥自分で決めなくてはいけないと分かっているけれど、意見が聞きたいの。あのね、他の誰かが犠牲になって、自分が助かるとしたら、どうする?」

「‥‥‥呪いの件ですか」

「うん、そう」

 青い顔で、小夜音は、頷いた。

「犠牲になるのは、全然知らない人。いままで会ったこともない人。麻衣ちゃんなら、どうする?」

 どこをどうやったらそういう話しになるのか、麻衣には、分からない。

 だから、ただ、言われたことだけを、考えた。

「‥‥‥時と場合によります。相手が、物凄い悪人とかだったら、押しつけて逃げるかも」

「‥‥‥普通の人。なんにも悪いことをしていない人」

「うーん。ならば、ぎりぎりまで粘るかな‥‥‥。なんとかできないかと」

「‥‥‥」

「それで、暴走するのよね」

 不意に、綾子の声が、割り込んだ。

「小夜音さん、その子、暴走機関車だから、参考にしない方がいいですよ。毎回暴走して、なんとかなっているから、余計に駄目駄目ですから」

「‥‥‥え、と‥‥‥そうなの?」

「小夜音さん、本人にそんなこと聞かれても‥‥‥私は、毎回、一応、暴走しないように注意しているんですけど‥‥‥暴走したって怒られているんですよ。理不尽です」

「その自覚のない所が、駄目駄目なのよ」

「ええー」

 凄い酷(ひど)い、と、麻衣はふくれた。

 そんな麻衣を放置して、綾子は、いかに麻衣が暴走機関車かと言うことを、語り始めた。

「この間なんか、超絶怪しい影を、この子、追い掛けて、踏んだんですよ!」

耳が痛かったので、麻衣は、もそもそこっそりと逃げた。

 そして、逃げた先で、首根っこを掴まれた。

「麻衣、うろうろするな」

「‥‥‥なんか扱いが酷(ひど)いような‥‥‥」

「緊急事態だ。絶対に、外には、飛び出すなよ」

「‥‥‥なんかあったの?」

「笹本間知が死んだ」

「誰?」

「玄野寺に忍び込んだ男の姉だ。自宅で、切り刻まれていたらしい」

 くらっ、と、麻衣は、目眩を感じた。

 一瞬、目の前が、赤くなった気がした。

「‥‥‥どうした?大丈夫か?」

「‥‥‥うん。一瞬、ちょっと、くらっとしただけ。それで、いま、どうなっているの?」

「玄野村の住人たちが、不穏な動きを見せている。過去、井上家が玄野村を出た際にも、村人との間に、なんらかの衝突があったようだ。同じ事が起きるかもしれない。外は、危険だ。絶対に、出るな」

「う、うん。‥‥‥でも、なんで、その人、殺されたの?なにか悪いことでもしたの?」

「‥‥‥いま、井上家についての噂が、玄野村に流れている。前回の予備調査の段階から情報が漏れていたらしいが、その噂の出所らしいな。しかも、かなり、悪意を混ぜて、噂を流していたらしい」

「‥‥‥」

「余程、井上家に、戻って来て欲しくなかったんだろう。僕たちについても、かなり悪意を込めた噂を流していたらしい」

 そうか、と、麻衣は、納得した。

 だから選ばれたのか、と。

「それと、玄野寺の住職の妻が、鈴の音を聞いたそうだ」

「え?じゃあ‥‥‥住職さんの不安は当たったっていうこと?」

「恐らく、小夜音さんの気配が掴めない、あるいは掴みにくいから、標的を移動させたのだろう」

「‥‥‥‥‥‥」

 ああ、そうか、と、麻衣は、先程の小夜音の問い掛けを理解した。

 酷(ひど)く、難しい話しだった。

 どの選択肢にも、希望と絶望の可能性があり、何一つ確かではない。

 踏み止まることが正しいのかさえ、分からない。

「ナル、大人しくしているから、放して」

「‥‥‥分かった」

 麻衣は、再び、小夜音の元に戻った。

「小夜音さん、さっきの無しです。‥‥‥私、分かりません。自分がそうなったら、どうするかなんて‥‥‥とても、決められません」

「‥‥‥そう」

「うまく答えられなくてごめんなさい」

「‥‥‥ううん、いいの。むしろ、とても、有り難いわ。正直に話してくれて、ありがとう」

 小夜音は微笑んだ。

 とてもとてもはかない笑みで、麻衣は、なんだか、酷(ひど)く、不安になった。

 

 

 

     ※

 

 

 

 電話での、報告や打ち合わせが、一段落すると、ナルは皆を集めた。

 交代で仮眠を取っていたジョンも起こして、外に出ている安原やまどか達を省いて、ほぼ、全員がベースに揃った。勿論、どうなっているのよ、と、駆け込んで来た咲紀も参加している。

「───現在の情報が出揃った。一端、纏める」

 皆の注目を一身に浴びて、ナルは、話し始めた。

「呪いの根本は、そもそもの性質は、井上家の守護だと思われる。ありとあらゆる危険に呪いは反応する。そして、危険を排除した後に、報酬を求めている。その報酬が得られない場合、一月から半年の期間で、報酬を与えなかった井上家当主を殺害するようだ。安原さんとまどかが、裏を取った。井上家当主が亡くなる前には、常に、なにかの危険が、井上家に近づき、排除されている。盗難などの場合は、即座に排除されるわけではなく、その後に排除されることもあるようだが、活性化しているいまの段階では、即座だと思っておいた方がいいだろう」

「報酬っていうのは、なんなんだ?」

「喪われている」

 滝川の問い掛けに、ナルは、即答した。

「井上家の血筋は絶えては居ない。赤子だけが残ったということもない。早死にの家系ではあるが、少なくとも、情報を渡す猶予は常にあった。それでも、現在、最も重要である報酬について語り継がれていない時点で、報酬を与える為のなにかがどうしようもないほど欠損していると考えるべきだろう」

 断固とした確定に、麻衣は、思った。

────視(み)たな。

 しかも恐らくはかなり早い段階で。

 しかし、そう思っても、勿論、いまは、問い詰めたりはしない。

「報酬を与えることができない段階で、呪いとの共存は不可能だ。呪い、正確には、呪いの元となっている存在を炙り出して消滅させるしかない。あるいは、呪いを無効化するしかない」

「その存在ってのに検討はついてるのか?」

「正確に掴むのは難しいだろう。時間が経ちすぎている。井上家に伝わって居ないのならば、それ以上を辿るのは、困難を極めるだろう。そもそも、井上家という名前すらも、確かなものではないからな」

「そーいえば、家を乗っ取ったって話しだったわよねぇ」

「井上という苗字は多い。全国で五十万人近く存在する。だからこそ、井上という名前を選んだのだろう。つまり、この村に辿り着く前にも同じ事があった可能性が高いということだ。苗字を捨てなくてはいけないようなことが起きたとすれば、それ以前との痕跡は確実に消している。‥‥‥辿るのは、不可能だろう」

「‥‥‥あー成る程なぁ。確かに」

「‥‥‥そうでしょうね」

「それと、ここを選んだ理由として、玄野寺の住職が深く関わっている可能性がある。いや、むしろ、井上家の誕生は玄野寺の住職が居なければ、そもそも、成り立たなかったと言ってもいいだろう。六代前の住職がここに居たから、井上家はこの村に来たんだ。その肝心の、六代前の玄野寺の住職についてだが。元々は本山に居て、法力の高さで有名だったそうだ。だが、本山での権力闘争に敗れて、この村に来たんだが、現在の井上家がこの村に来たのとほぼ同時期に、本山に戻っている。その後、直弟子が、玄野寺の住職に収まっている。そして、その当時、随分と多額の金銭がやり取りされた、という、噂があるそうだ」

「‥‥‥つまり、本山に戻る為の根回し用の資金を、井上家が提供したってこと?」

「その見返りに、井上家は、自分たちが抱えていた最も厄介なものを、玄野寺に預けて封じて保管管理して貰う‥‥‥そういう約束が取り交わされたんだろうな。そして、井上家の娘が、玄野寺に嫁いでいることが真実だとしたら、玄野寺は、最初から、第二の井上家として用意されていたと考えた方がいいだろう」

「つまり、井上家の血筋が絶えた時用にか」

「それと、井上家が、この村に居られなくなった時のことも考えてだろう」

「‥‥‥で、結局、どう動くんだ」

「そうよ。それで、どうするのよ。その厄介な呪いは」

「最初に言ったと思うが?共存が無理なら、滅ぼすか、無効化するしかない」

「あー、確かに、それしかないな」

「そうねぇ」

 滝川と綾子が、好き勝手なことを言っている間、小夜音さんは、静かに、静かに、ただ、黙って、俯いていた。真砂子も麻衣と同じく小夜音さんが気になって仕方ないようで、小夜音さんをちらちらと見ていた。

「日本刀の専門家が、明日、到着する。それから、動く」

「了解」

「りょーかい」

「‥‥‥それはいいんだけど、それで、その呪いって、いまも、外にあるわけでしょ?被害者多発ってのは勘弁して欲しいんだけど?」

 小夜音の次に麻衣が気にしていた咲紀が、ようやく発言した。

 いままでどうしてか沈黙していた咲紀は、うんざりとした顔をしている。

「それは、村人たち次第ですね」

「どういうこと?」

「井上家の守護は、井上家に危険が迫らなければ動かないからです」

「‥‥‥」

「井上家がこの村を出る際、詳細は分かりませんが、揉めたようですし、ならば、その時、痛い目を見ているでしょう。その教訓を生かして、しばらくは誰もなにもしない、と、思っておくしかないでしょう」

「‥‥‥」

 咲紀は、額に手を当てて、溜息を吐き出した。

「‥‥‥はーもー、ほんと、あんたの所って、とんでもないのばかり、引き当てるんだから‥‥‥。分かったわ。ともかく村人が馬鹿なことをしないように、外部の目を増やしておくよう頼んでおくわ。流石に、警察官が居る所で、馬鹿なことはしないでしょうし」 

「この近辺出身の者は、排除しておいて下さい」

「分かってるわ」

 咲紀は、ふらふらと立ち上がった。

 そして、ぶちぶちと、広田くんにたっぷりと奢って貰わないと、などと、言いつつ、指示を出す為に、去っていった。途端、

「では、過剰反応をする可能性が高い、外部の人間が居なくなったので、詳細を話す」

「‥‥‥‥‥‥」

 ちょっと待った、と、麻衣は思った。

 だが、すぐに、ああ、うん、そうだよね、そういう人だよね、と、思い直した。

「まず、井上家が、この村から出て行った際のことだが。始まりは、井上家本宅に泥棒が入ったことだ。泥棒は、惨殺死体で発見された。だが、問題は、その後も、死者が続いたことだ。泥棒の死によって、井上家の危険性が確かだと確証を得てしまった、村のまとめ役たちが、井上家に村から出ていくように迫っていたらしい。死んだのは、そのまとめ役たちだ。泥棒と違い、外傷は無かった為、記録では、病死、老衰となっているが、井上家関連なのはほぼ間違いないだろう」

「まとめ役たちって、何人だったんだ?」

「五人だな」

「‥‥‥一気に、五人も、死んだのか」

「そうだ」

「それで、その後も、なんかあったのね」

「暴動が起きたらしいな。記録には一切残っていないが、井上家を村人が取り囲んで、石を投げ、外壁を壊したらしい。‥‥‥だが、その直後、かまいたちが周囲を襲い、多数の負傷者が出て、散り散りに逃げていったそうだ」

「‥‥‥多数って」

「この村では、指を欠損している者が、異様に多い。まどかが調べた限りでは、ある一定の年代以上になると、ほぼ五割の確率で、指が一本以上無いそうだ。手足のどれかが欠けている者も、多いらしいな」

「‥‥‥それはまた‥‥‥」

「‥‥‥凄いわね」

「‥‥‥大変なことどす」

「また、その前後で、死者の記録が多い。その時、一度に出た死者を、誤魔化した可能性が高い。つまり、役場の記録はあまり当てにできないということだ。また、当然だが、村人たちの憎悪は深まっただろう。絶対に、村人は信用するな。若い世代でも、注意しろ」

「待った。じゃあ、この民宿は?」

「ここは大丈夫だ。この民宿は、玄野寺が出資して立ち上げている。その上、従業員全員が、余所からの移住者だ」

「‥‥‥それは、不幸中の幸いだけどね」

「‥‥‥なんか、それ、前もって、確認とってねえか?」

「当然だろう。村全体が危険なことは、話しを聞いた段階で、簡単に予測できる」

 滝川たちは、それだけかー、という、疑いの眼差しをしている。

 麻衣も、本当にそれだけかなー、と、思った。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ります」

「え?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥私、残ります。頑張ります」

「小夜音さん?」

「おばあちゃんたちは、逃げても、結局、逃げ切れなかった。なら、私、残ります。おばあちゃんたちには、渋谷サイキックリサーチの皆さんのような方が居なかったから、仕方ないけど、私は、いま、たぶん、代々の井上家の人間の中で、一番、恵まれている。残るかどうかを選択できる余地がある。だから、頑張ります」

「‥‥‥そうですか。分かりました」

「え?え?」

 戸惑う麻衣を置き去りに、ナルは静かに頷き、滝川たちは、小夜音に、哀れみと哀しみの眼差しを向けている。なんだか、麻衣だけが、良く分かっていない感じだった。

「麻衣、麻衣が寝ている時に、ナルが、小夜音さんに聞きましたの。呪いの大本をおびき寄せる囮が必要で‥‥‥どうするかと」

「‥‥‥どうするって‥‥‥」

「玄野寺のご住職たちに押しつけることも可能だろうって‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 ああ、だから、先程、小夜音さんは、思い詰めた顔で、問い掛けたのだ。

「小夜音さん、体調は大丈夫?‥‥‥無理は駄目よ」

「はい。はい。分かってます」

 綾子の労る問い掛けに、小夜音は、頷く。

 けれど、その横顔は、哀しいほどに、青い。

(‥‥‥早く終わらないと、小夜音さんが、保たないかも)

 元々、普通の体調じゃない。

 無理は禁物だ。

 そして、そんなことは、ナルも、勿論、分かっていて。

 つまり無茶をする危険性が滅茶苦茶高い。

(‥‥‥刀のサイコメトリをするって言い出さなければいいんだけど)

 刀は、ある意味、すべてを、知っているかもしれない。

 だが、同時に、それは、とてもとても危険なことだ。

 いま分かっているだけでも、たくさんの人が死んでいる。分かって居ない所でならば、もっともっと死んでいるだろう。その大本に接触するなんて、ナルには、あまりにも危険過ぎる。

(‥‥‥報酬が、代替えが効くようなものなら良かったのに)

 勿論、そんなことができるなら、代々の井上家の人たちが、それこそ本当に死に物狂いで必死になんとかしただろうということは分かっていて、それでも、麻衣は、強く、そう思った。

(‥‥‥そんなこと不可能だけど。代わりなんて、どこにも居ないのだから)

 強く強く強く強く強く強く。

 

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥