‥‥‥‥‥‥ sumon

 

 

 

 

「──ナル」

 その声を聞いて、ナルはモニター上の文書から、一旦、手元へと視界を落とした。

 こつ、と人差し指でデスクの表面を小さく叩く。

「麻衣か、どうした」

「──お願い、助けて」

 携帯電話越しの麻衣の声は、いつもの快活な声ではなかった。今にも消え入りそうに掠れた、それでいて譲れるものなど何一つないような芯の通った声。

 ──また、やってくれたな。

 漆黒の艶やかな前髪を掻き上げながら、ナルは額から目元を右手で覆った。面倒事を背負い込まされたと察して、軽い頭痛すら覚えていた。

「──ナル、お願い」

 助けを求める相手が違うだろうと思いつつも、ナルは麻衣が告げるままに、向かう先と待ち合わせ場所をメモしていった。通話を切るとすぐにパソコンの電源を落とし、メモを手に立ち上がる。「少し出てくる」とリンにそれだけを告げて、ナルはSPR所有のセダンのキーと、黒いコートを手に事務所を後にした。

 ビルの裏手にある屋外駐車場に出ると、やがて午後二時を回ろうとしているのに、朝よりさらに空気が冷たくなっていた。吐く息が白く染まり、寒さに耐性のあるナルであっても、耳や頬に風の冷たさが厳しく感じられる。

 セダンのドアを開けながら、何とはなしにナルはビルの向こうにある空を見上げた。薄い灰色をした雲がより厚みを増して空を覆い尽くしている。

 朝、新聞で目にした気象予報を思い出して、ナルは独り柳眉をひそめた。

 ──これは間違いなく雪になるな。

 あと十日もすれば十二月二十五日、クリスマスだ。新しい年を迎えるまで十六日。今年は気象庁の予報が大幅に外れ、例年に比べて寒さが厳しい。都心でもすでに雪が二回降った。いずれも積もるほどではなかったが、雪に対応していない都心では不自由極まりない状態になった。

 運転席に滑り込むと、ナルは小さく息をついた。

 それはナルお決まりの、不快な感情の表れ。そうとわかっていて、かつ意識して、ナルはいつもそうして溜息をつく。独りであろうが、誰かが一緒にいようがナルには一切関係ない。

 何故、雪になるかもしれないという日に、車を出さなければならない。日本の交通法規と道路事情にはだいぶ慣れたが、雪となればまた別だ。

 だからといって、けしてナルが不器用ということではなく、雪道であっても車の操作など、いくらでも対応し切れる自信はある。

 調査で山中に入ることも、降雪地帯に赴くこともあるので、SPRが所有しているこのセダンにもバンにもチェーンは積んである。状況によってはスタッドレスタイヤに替えてしまえばいい。

 それでも通常の運転より神経を必要とするし、それが長時間に及べば疲労もする。

 何より、ナルの本音としては、面倒臭い。心霊調査に関する諸々が山積しているというのに、それ以外のことに時間を奪われるのが腹立たしい。

 面倒臭くて腹立たしいが、麻衣からの頼みを断らなかったのは自分自身なので、行くしかない。

 それがまた、面白くない。

 ──ナルってさ、単に面倒臭がりなだけなんだよね。人嫌いとか無愛想とかマイペースとかいう前に。

 エンジンを掛けようとイグニッションキーを回せば、今はいない片割れの苦笑が耳の奥で再生される。記憶に残っている声すらお節介だ。

 ──でもね、知ってた?ナルもね、結構なお節介焼きだよ。それも、ナルがお節介だって言う僕が、呆れるくらいにね。

 十二歳の時、そんな会話を交わしたことまで思い出してしまった。人並み外れた自分の記憶力に、ナルはまた溜息をついた。

 ──誰が、お節介だ。

 これはお節介というものではなく、SPRの所長としての責務を全うしているだけのことだ。調査員であるアルバイトがあんな声で連絡を入れてくるということは、調査に準じたトラブルに首を突っ込んだと考えて間違いない。トラブルメイカーたる彼女を放置しておけば、問題はさらに大きくなるのは目に見えている。そして自分も済(な)し崩しに巻き込まれるであろうことも。

 ──だから、そこで無視し切れないのがお節介ってことじゃないか、ナル。

 ナルは苦虫を噛み潰したかのように秀麗な顔をしかめると、過去の記憶から蘇ってくる会話をそこで強制的に打ち切った。

 ──お節介はお前だ、ジーン。そうでなければ、こんな記憶、一言だって残っているわけがないだろう。

 ナルにとってお節介というレッテルを貼れるのは自分ではない。乏しいナルの人間関係の中でそれを堂々と額に貼り付けられるのは、かつては双児の兄のジーンであり、今は、電話で助けを求めてきたアルバイト──谷山麻衣、彼女だった。

 

 

 麻衣から指定されていた駅のロータリーに入り、タクシーや路線バスの邪魔にならないよう、ゆっくりとセダンを進めていくと、すぐに麻衣は見つかった。麻衣の方でもSPRのセダンに乗ったナルをすぐに見つけた。

「あっ、ナル! こっちこっち!」

 大学の帰りなのか、カフェオレ色のハーフコートの肩にダークブラウンの大きな革のバッグを掛けて、麻衣が大きく手を振っている。ハザードランプを点灯し、ロータリーを出た少し先で歩道にセダンを寄せると、あまり高くないブーツの踵を鳴らして麻衣が走ってくる。

 ドアを開けるより先に、麻衣は満面の笑顔でウインドウ越しにひらひらと手を振る。

 大理石の彫像のような無表情でナルが見返していても、麻衣は一向に気にしない。ドアを開けると軽やかに助手席に滑り込んできた。

「ありがとう、ナル。ホント、助かったぁ。さすがにタクシー乗りまくるわけにいかなくてさぁ」

 助手席でシートベルトを締めながら、いつもの屈託のない笑顔で捲し立てる。

「お財布そんなに余裕ないし、調査じゃないから経費で落とせないし、目的地に案内したくても住所で言えないし、到着したら墓地とかだったらマズイし、マズくないトコだったとしても、着いたら着いたで待っててもらうのも微妙だし、もう、どうしようかと思っちゃったけど、ナルが来てくれて良かったぁ」

 麻衣は満足げな顔で、ふう、と息をつくと、タオル地でできたヌイグルミのようにくったりと座席に身体を預けた。手袋をしていない両手を温風にかざし、そしてその手でストッキングの上から膝をさすって温めている。

 谷山麻衣という人間と知り合ってから四年が経ったが、近頃では「うるさい」とそのお喋りを遮ることも、ナルは面倒臭くなってしていない。

「──それで、何処に向かえばいい」

「このまま、まっすぐ」

 大通りの先を、麻衣はつい、と手を挙げて指で示した。

 交通量の多い四車線道路の先には、うっすらと白い雪をまとった山並みが見えている。ここは二十三区外ではあるが東京都内。JRの駅を中心にそれなりに大きな街が形成されている市の中心地。それでも車で二十分も走れば街は途切れ、長閑(のどか)な山里に行き着いてしまいそうだった。

「山の方に向かえばいいんだな──」

 ステアリングを切ってセダンをゆっくりと発進させながら、ナルがそう確認すると、視界の端で、麻衣は小さく首を傾げていた。首を傾げたせいで、長く伸びた栗色の前髪が顔の半面を覆う。鳶色の視線はフロントガラスの先ではなく、手元へと落ちている。

 つい今し方までの快活な笑顔は消え、麻衣はぼんやりとした表情で山並みを指差す。

「まっすぐ行って」

 やはりな、とナルは内心で独(ひと)り言(ご)ちた。

 麻衣の意識も表層に出てはいるが、何かが大きく麻衣の意識に影響を及ぼしている。

「麻衣」

 呼び掛けると、麻衣はナルを見ずに首を傾げる。

「それは誰だ」

「……わからないよ。……知らない人」

「何をした」

「……わからないよ。……特別なことは何もしてないから」

 無意識にしたことが引き金になったかもしれない、ということは、センシティヴ──潜在的にESP能力を持つ麻衣ならば充分に有り得ることだった。

「……雪が」

 ぽつり、と麻衣の声が言葉を続ける。

「雪がどうした」

「……雪が降る前に着かないと」

「どういうことだ」

「……わからない」

 視界の端に見える麻衣は、変わらずぼんやりとした視線を手元に落としていた。それでいて、本来の麻衣にはない落ち着きに満ちているようにも見えた。

 幼い頃に父親を、中学生の時に母親を失い、独りで生きることを余儀なくされた麻衣は、その子供っぽい見た目とは裏腹に、精神的には驚くほど成熟し自立している。だがそうは言っても、それはあくまでも内面のことで、普段の麻衣は十九歳という実際の年齢より、少し幼い雰囲気を残した少女らしい言動が多い。

 ──見せかけ、ということだろうな、これは。

 麻衣自身は自分でナルに答えていると思っていたとしても、言葉を選ばせているのは、麻衣に影響を及ぼしている何か、であるということだ。

 霊視能力のないナルには、麻衣が憑依されているかどうか、即座に判別することはできない。同じ大学に通い、互いに親友と言って憚らない霊能者の原真砂子が、どうして今日に限って一緒ではないのだろうか。それもまた、麻衣に影響を及ぼしている何かが、そうさせているのだろうか。

 ナルには、麻衣の言動を観察するしか、見極める方法がない。

「……でもね、ナル」

 ナル、と呼び掛けることで、麻衣であることを強調しているつもりなのだろうか。訝しんでナルが視界の端で麻衣を見やると、麻衣の眼差しはぼんやりとしたままだった。

 次いで、それまではっきりとしていた麻衣の声が低く潜められる。

「……雪に、見つからないようにしないと」

 その囁き声は、電話で助けを求めてきた時と、同じ声質だった。小さく掠れた声は、怯えて震えているようにも聞こえた。

「何故」

 答えを探して考え込んでいたのは、五秒ほどだった。麻衣は自分の二の腕を、震える両手で抱き締めていた。指先が厚地のコートに食い込んでいる。

「……わからない。……だって、ずっと雪に見つからないように逃げてたから」

 次に逃げる理由を尋ねたが、麻衣からはとうとう答えが返ってこなくなった。

 麻衣なのか、麻衣に影響を及ぼしている何かなのか、時折、鳥のように小首を傾げては小さく溜息を洩らす。困ったように栗色の眉根が寄せられている。どうやら、本人にも、すべてが明瞭に把握できているわけではないらしい。

「このまま道なりに車を走らせていく。進む方向を変えたい時はすぐに言え」

 こくりと頷き返される。

 その後は、ナルは仕方なしにそれ以上問い質すことなく、麻衣の拙い誘導に従ってひたすらセダンを走らせていった。

 

 

 

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