‥‥‥‥‥‥‥yutuki
ふと、微かな気配を感じて羅列するアルファベットからナルは意識を浮上させた。ロジックの海から帰還すれば、いつの間にか黄昏時も過ぎ去って、外を宵闇がしんと支配している。初秋の頃からすっかり短くなった日は、すでに冬の夕暮れともなれば釣瓶落としだ。しかしそれ以上に暗く感じるのは、空が重く曇っているからだろう。夜半から天気が崩れるため、外出の際は傘をお持ち下さいと点けっ放しのテレビの中でキャスターが誰かに喋りかけていた。 ぱたんと分厚い本を閉じて窓の外を窺えば、空にある灰色の雲に不夜城のネオンがぼやけて反射し、何処か不思議な薄暗さだった。 窓外に向かっていた意識を引き戻すように、インタフォンから軽やかなチャイムの音が響く。先触れを感じた気配はこのチャイムであろう。夜も更けつつあるこんな時間に訪ねてくる人間と言ったら、宅配便の他には一人しか居ない。 ローテーブルの上に本を読みつつ手持ちぶさたに弄っていた手鏡を置き、立ち上がる。先の調査でジャケットの内ポケットに入れ放しだったものをついさっき偶然見つけたのだ。ついでだからと開きっぱなしのハードカバーの上に栞か文鎮の代わりに置いて頁が閉じないように重しにすると、ナルはソファから立ち上がった。 リビングのドアの脇に設置されたインタフォンの受話器を持ち上げれば、見慣れた小さな顔が画面の中で荷物を抱えて立っている。唇が開かれる前に、ナルはぽんとキーを押した。 「上がってこい」 「ありがとう」 にこりと軽やかな微笑みと可愛らしい声がインタフォン越しに僅かに籠もって響いた。硝子扉のエントランスがオートロックを外されて客人を迎え入れる。小柄な身体が滑り込むと硝子扉は再びゆっくりと閉まっていった。 その姿を見送りもせず、ナルはキッチンに向うとケトルに水を入れる。丁度喉も渇いた頃合いだった。取っ手を持ってコンロの上にことんと置くと中の水が波打つ。構わずに、かちんとレンジの火を点けた。仄青い色をした美しい炎がふんわり揺らぐ。ついでとばかりに戸棚から、揃いのマグを二つと白磁のポットを取り出した。彼女の手には多少大きいけれど、ナルにとっては適正サイズのマグ。彼女用にも新しく買い求めようとしたナルをとどめたのは麻衣自身だった。おそろいが良いの。小声でそんなことを呟いて、微妙に視線を外し、ほっこりと立ち上る湯気に照れた顔を隠して無表情を取り繕おうとしながら、麻衣は仄かに頬を染めていた。 そんなことをしている間に、今度は玄関のチャイムがりろーんとまろやかな音を立てた。 「……来たか」 秀麗な眉を微かに寄せて、黒いスラックスの長い足が広いスライドで玄関へと向かう。レンジに掛けっぱなしにしてきたケトルに後ろ髪が引かれたがどうせすぐに戻るつもりだから良いだろう。換気扇のスイッチを入れ、ナルはキッチンを後にする。 インタフォンで確認をする必要もなく、ドアノブを握って、がしゃんとチェーンと錠を外した。覗き窓から相手を確かめもせず不用心にドアを開けば、思った通りの人物が手にいっぱいに持った荷物の間からちょこんと顔を出していた。 「えへ……ありがとう、ナル」 「…………お帰り。買いすぎ」 学校の帰りに食料品の買い物に勤しんできたのだろう。丁度スーパーも仕事帰りの人々で賑わい商品も売り時で、安くなる頃合いだった。必ず呆れられることを見越した誤魔化し笑いが、明後日を向く。 「だ、だって安かったんだもん、たまねぎとジャガイモが四個できゅうじゅうきゅうえん!」 力説する少女のソプラノをいっそ優雅にナルは無視して、いっぱいになっているビニール袋の一つを彼女の腕から取り上げる。そしてドアを開いたまま身体を横にずらして、室内へ無言で促すと、寒さに顔を真っ赤にした少女はほっこりと嬉しそうに、ありがとうと微笑んだ。 もう一つの軽いビニール袋と、テキストや教材が入ったバッグを腕にかけてブーツを脱ぐと、お邪魔します、と折り目正しく彼女はナルの脇をすり抜けて、ドアの奥へと入っていった。
かけっぱなしだったケトルはとっくに真っ白い湯気を吐き出していて、火を止めろと急き立てている。キッチンの簡易テーブルに荷物をどさっと置いた少女は慌ててガスレンジに走り寄ってぱちんとコンロの火を落とした。テーブルに備え付けの椅子にキャラメル色のダッフルコートを掛けると、棚からポットを引っ張り出す。くるくる動くたびにふんわり揺れるハイネックのニットのワンピースは暖かそうなクリーム色で、裾から覗くふわっとふくらんだモカブラウンのペチコートのレースが、腿の辺りでふわりとたなびいて、黒い厚手のニーソックスに可愛らしくシフォンの淡い影を落としていた。 沸かし立てのお湯をとりあえず引っ張ってきた保温ポットに詰めると、買ってきた食材をてきぱきとしまい始める。保冷が必要なものをひとまとめに冷蔵庫まで持って行って殆ど空っぽだった中味を新鮮な食材でいっぱいにしていった。ジャガイモや玉葱は炊飯ジャーの下のカゴにまとめて放り込みながら、彼女は後ろを振り返って高い棚に買い置きのスティックシュガーをしまってくれているナルに声を掛けた。 「紅茶にする?コーヒーにする?」 「……紅茶で」 はあい、とにっこり笑うと空になったビニール袋の皺を伸ばして小さく畳んで引き出しに仕舞った。 「あれ……ナル、コーヒーって何処だったっけ?」 鳶色の瞳をきょろりと彷徨わせ、ぱかっと開けた棚の中を背伸びしながら覗き込む。様々な形の茶葉の缶の中に、立方体のコーヒーの容器を見つけられなくて麻衣は眉を寄せた。 「コーヒーはこっち。……珍しいな」 隣の棚をぱかりと開けてフレッシュに良く合う銘柄のコーヒーの瓶をナルが取り出した。 「そうかな?たまにはコーヒーも良いかなあって」 立方体のガラス瓶を受け取りながら、もう片手に紅茶缶を取り出す。ナル用の銘柄にはオレンジペコが選ばれたらしい。彼女のセレクトに文句はないのか、ナルは何も言わない。 ステンレスの冷えから守るために、麻衣は手早く真っ白い布巾を並べて置いたティーポットとマグの下に敷く。白磁のポットにお湯を少し入れくるくると回し陶器をしっかり暖め、そのお湯が熱いうちにマグに落とす。空いたポットの中にさらりと乾いた音を立てて銀のスプーンで茶葉を落とし、保温ポットからわかしたばかりのお湯を注ぎ込む。湯気が逃げ出す前にかぱんと蓋をして、上から更にティーコジーをかぱりと被せる。仕上げに傍の砂時計をひっくり返した。さらさらと砂が落ち始めるのを見向きもせず、ふわりと茶の髪がうなじの辺りで翻し、ぱたぱたとシンクの前から忙しなく離れると、かぱっと冷蔵庫のドアを開け牛乳のパックを引っ張り出した。 棚から出したミルクパンで手早く牛乳を温めている間に、マグに落とした湯を捨てて、コーヒーの蓋をぱかっと開ける。保存状態が良かったのか香りも飛んでおらず香ばしい。さらっと直接マグにコーヒーを入れて、お湯を注ぎこむと薫り高い白い湯気がふわっと広がった。スティックシュガーを一本入れ、くるりと銀のスプーンを回し、仕上げに鍋の縁が沸々と泡立ち始めた牛乳をほんの少し注ぎ込む。そんなの入れない方がコーヒーの香りが解るのにお子様味覚だな、と呆れられたことを思い出すが彼女はフレッシュが好きなので文句は言わせないことにしている。しかし、いつもの揶揄も無く、ナルは静かに彼女の手元を見つめているだけだった。 視線を感じて振り返る。漆黒の瞳がじっとくるくる動く、小さな手元を見つめていた。 「なあに?どうかした?」 「……いや、別に」 口調はいつもどおりに抑揚が無く、瞬きもしない切れ長の瞳がじっと少女を見つめている。ふわりと香る温かいミルクとコーヒーの香りが優しく流れていく。 「……そう?」 小さな手には大きいカップを両手で持ち上げて、一口飲みながら、彼女は湯気にくゆる視界の中で、見つめてくる漆黒の瞳に、不思議な目眩を感じた。まるで桎梏されるよう。しかしぬばたまの視線はふっと突然逸らされてナルは静かに踵を返した。 「……麻衣」 「ん?」 小さな声に返事を返すと、僅かに漆黒の瞳が感情の揺らぎを映して揺らいだ。 「……まい、と言うんだな……」 「え?」 独り言にも満たない呟きは良く聞こえなかった。瞬いた鳶色の瞳に、ナルは何でもない、と頭を振った。 「紅茶、リビングに持ってきてくれ」 「……ん、解った」 僅かに翳ったぬばたまの双眸になぜか言葉が詰まった。また読書?と、いつもどおりに文句を言おうとしたのに、どうしてだか口は上手く動かなかった。
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