‥‥‥‥‥‥‥
( )はルビをHP用に変換するとこうなるだけで、本文はルビになっています。
序
麻衣は、空を見上げた。夜だった。 麻衣は、下を見下ろした。薔薇が咲いていた。 色とりどりの薔薇たちは、真っ暗なはずの夜に、仄かに淡く発光するかのように、美しく、群れ咲いていた。 その美しい薔薇たちをぼんやりと見ながら、麻衣は、歩いていた。 どこに行くわけでもなく、ただ、彷徨っていた。 (‥‥‥私は、どうして、ここに居るのだろう?) 彷徨いながら、麻衣は、ふと、そんなことを思った。 だが、うまく考えが纏(まと)まらなかった。 ただ、頭の奥の奥で、いまの自分の状況を、ぼんやりと把握していた。 夢を、視(み)ている、のだと。 けれど、では、どうしてこんな夢を視(み)ているのかは、分からなかった。 ただ、ただ、ぼんやりと‥‥‥。 (‥‥‥前にも‥‥‥ここに来た気がする?) 不思議な、既視感に、麻衣は、惑っていた。 そうして、戸惑いながら歩いて、麻衣は、ふと、気が付いた。 いつのまにか、周囲に、異変が起きていたことに。 つい先程まで、麻衣の周囲の薔薇たちは、様々な色をしていた。 白、ピンク、赤、黄色、薄蒼、紫、黒、と、華やかな色とりどりの薔薇が咲いていた。 だが、いま、麻衣の周囲の薔薇たちは、ただ、ただ、赤く、赤く、染まっていた。 深紅の薔薇だけが、咲いていた。 (‥‥‥真っ赤だ‥‥‥) 麻衣は、その色を認めた途端、どうしてか、怖くなった。 認めたくなくて、見たくなくて、視線を逸らした。 だが、逸らした先も、ただ、赤い。 目を閉じても、瞼の裏側に、赤が焼き付いていた。 (‥‥‥あか‥‥‥あか‥‥‥あかい‥‥‥) その禍々しいほどの赤色に、耐えられなくて、麻衣は、しゃがみこんだ。 けれど、すぐに、そのことを、後悔した。 麻衣は、しゃがんでは、いけなかった。 地面に近付いてはいけなかった。 赤い赤い薔薇で埋め尽くされて隠されたモノを、見ては、いけなかった。 「‥‥‥‥‥‥あ‥‥‥あ‥‥‥‥‥‥」 見てはいけなかったのだと、見た瞬間、麻衣は、理解した。 けれど、もう、見なかったことには、できなかった。 「‥‥‥‥‥‥あ‥‥‥あ‥‥‥‥‥‥」 麻衣は、叫ぶこともまともにできず、それを、凝視した。 ────投げ出された。 ────青白く、細い。 ────手を。 ────赤く赤く赤く染め上がった薔薇で隠された人を。 「‥‥‥‥‥‥あ‥‥‥あ‥‥‥」 それが、誰か、麻衣は、最初、分からなかった。 いや、分かりたくなかった。 けれど、麻衣の、直感は、容赦なく、麻衣に、答えを突き付けた。 そう、まるで、唐突に、空から雨が降るように、当然のこととして、どうしようもなく‥‥‥。
※
それは、唐突に、降り注いだ。 静かな夜、穏やかな眠りの海を漂っていた麻衣は、どんっっっ、と、まるで、地震が来たような、空中から地面に落とされたような、そんな、衝撃を感じて、目を覚ました。 なにが起きたのか、麻衣には、すぐには、分からなかった。 ただ、酷(ひど)く、驚いて、酷(ひど)く、怖くて、飛び起きた。 心臓が、だかだか、と、暴れ跳ねていた。 全身が、緊張していた。息苦しかった。 ────なにが。 麻衣は、周囲を見回した。 そうして、すぐ隣に、ナルを見つけた。 ナルは、目を閉じていた。眠っていた。当たり前だ。いまは、夜なのだから。 だが、どうしてか、それも、耐え難いことに感じて、麻衣は、わめきそうになった。悲鳴を上げそうになった。けれど、それを、その衝動を、麻衣は、必死に抑えた。 「‥‥‥どうした?」 麻衣の異変に気が付いたナルが、目を開けて、問い掛けた。 その静かな声の、揺るがない強さのある響きに、麻衣は、ほっとした。 ────大丈夫。まだ。 心底安堵しながら、麻衣は、分からない、と、答えようとした。 だが、麻衣は、もう、すでに、分かっていた。 それは、どうしようもない揺るがない変えられない真実だった。 「‥‥‥おばあちゃんがしんだ」 麻衣は、自分がなにを言っているのか、分かっていなかった。 だが、口は、勝手に、言葉を紡ぎ出していた。 「‥‥‥ころされた」 「‥‥‥麻衣、僕は、ここに居る。深呼吸をしろ。大丈夫だ。僕は、ここに居る」 ナルの、静かで揺るぎのない強さを持った声が、響いている。 それを聞きながら、麻衣は、突然の衝撃で凍り付いていた脳味噌が、活動を始めるのを、感じていた。怖すぎて、受け取れなかったメッセージを、受け取ろうとしていることを。 けれど、そのことを、頭の片隅で理解しながら、麻衣は、まだ、分かっていなかった。 いや、分かろうとしなかった。分かりたくなかった。 だが、確信は、残酷なほどにはっきりと、麻衣へと突き付けられた。 ────おばあちゃんがしんだ。 ────ころされた。 麻衣は、麻衣自身の言葉で、追いつめられた。 そうして、ようやく、分かりたくない現実を確信して、認めた。 ────おばあちゃんがしんだ。 ────ころされた。 おばあちゃんはやさしいおばあちゃん。 春に出会った。猫を拾ったおばあちゃん。 『いつでも預かるから、遠慮無く連れておいでな』 柔らかな語尾の柔らかな声が、麻衣の脳裏で甦る。 深い皺の刻まれた、優しそうな顔が、浮かぶ。 けれど、すぐに、その、顔は、苦悶に歪む顔に変わった。 ────おばあちゃんがしんだ。 ────ころされた。 そして、苦悶に歪んだ顔は、気味の悪い声が響くのと同時に、赤く、塗り潰(つぶ)された。 『‥‥‥長生きしたってろくなことねぇだろ』 『楽にしてやるよ』 笑い声と共に、なにかが、振り上げられる。 麻衣は、それを見上げながら、絶望に染まった。 死にたくない。そう思った。死にたくない。強く、そう思った。 けれど‥‥‥。 ────麻衣! ────それ以上は、駄目だ!遮断して! 不意に、切羽詰まった良く知っている人の声が聞こえた。 ────離れて。 ────いますぐに。 そして、麻衣は、容赦のない残酷な現実から、引き剥がされた。 だが、もう、遅かった。 麻衣は、もう、視(み)てしまった。 引き剥がされながら、それを、視(み)てしまった。 麻衣が、春に出会い、捨て猫を通して、ずっと、仲良くして来た、おばあちゃん、生野小菊の、苦悶と、血にまみれた死に顔を。
麻衣は、悲鳴を、上げた。 落ち着かせようとする大好きな人の声さえも遮断して、絶叫した。 夜を引き裂くような声で、喪失の現実を、拒絶した。
────そうして、終わりの物語は、赤く、残酷に、始まったのである。
1
呼び出しが掛かった。 早朝、寝たばかりの滝川は、けたたましい携帯の呼び出し音で目を覚ました。 だが、滝川は、文句一つ言わずに、すぐに携帯を掴んだ。 頭の奥はまだ眠っていたが、ほとんど、本能的に、携帯を掴んでいた。 なぜなら、その呼び出し音は、ナルからの呼び出しの時に設定してあるからだ。 ナルからの直接の呼び出し。それは、滝川が、妹のように娘のように思っている麻衣の危機を知らせるものだ。動植物関係なしの強力すぎる能力の暴走によって、ここ数年、麻衣は、常に、生死の境を彷徨っているような状態だった。一瞬の判断の遅れが、まさしく、命取りになるかもしれなかった。ならば、迷いも戸惑いも一切が不要のモノだった。 「‥‥‥どうした?」 ナルからの緊急呼び出しに慣れてしまったことを、まだ眠気の残る頭の片隅で、苦く思いつつも、滝川は呼びかけに応じた。そうして、状況説明を求めた。 『事務所に来てくれ』 「分かった」 簡潔にもほどがある答えだった。 だが、滝川は、文句一つ言わずに、了解の返事を返した。 そうして、ぶちりと切れた携帯を手に、起き上がり、出掛ける準備を始めた。 いつものように、いつもの如く、大切な妹分の為に、全力を尽くすために、ただ、黙々と手早く準備を整えた。
※
早朝、渋谷サイキックリサーチには、いつものメンバーがほとんど揃っていた。 滝川は、一歩、足を踏み入れた途端、綾子、安原、ジョンを見つけて、事態が、深刻であることを確信した。 「どうなっている?麻衣は?」 「全然、分からないのよ、私たちにも。麻衣の姿は無いわ。ナルとリン、それと、広田さんが、あの中よ」 綾子は所長室を指差した。 「広田が‥‥‥」 広田は、随分前に、ナルがジーンを殺害したのではないかという、見当違いの疑いを抱いて、渋谷サイキックリサーチを探りに来た、検察庁の職員だった。 そして、その疑いが晴れた後も、内情を知ったのをこれ幸いと、渋谷サイキックリサーチの面々に掴まって、いろいろと後始末をさせられている哀れな男である。ここ最近は、動植物関係なしの暴走サイコメトリで、麻衣がうっかりと見つけてしまった死体の処理などもさせられている。 「また、死体か」 「だと、いいけど。それなら、全員をこんな早朝に呼び出すかしら。それに、真砂子まで呼べって言われたのよ。あの子が、いま、動ける状態ではないのは分かっているはずなのに」 「‥‥‥真砂子ちゃんまでか」 滝川は、嫌な予感を、強く、感じた。 原真砂子は、去年の夏頃から、能力の消失によって、渋谷サイキックリサーチにはまったく関わらなくなっていた。だが、冬に起きた、ある事件に巻き込まれて浚われて帰って来てから、なにか思う所があったのか、能力を取り戻す為に、修行をすると言い出した。そして、その為に、いま、山に篭もっていた。綾子が紹介したというその山は、その筋では有名な霊域で、とんでもない不便な場所である。中に入る許可を取るのも大変だが、連絡を取るのも一苦労な所だ。 そして、一度出たら、二度目の入山の許可は滅多に取れない所だった。 だから、生半可なことで呼び出すことは、絶対に、避けなくてはならない所だ。 覚悟を決めて、篭もることにした、真砂子の為にも。 そんなことを、ナルが分かっていないはずがない。 なのに、呼び出しを掛けたと言うことは‥‥‥。 「‥‥‥それで、真砂子ちゃんに、連絡は」 脳裏を掠った嫌な予感を振り払いつつ、滝川は、尋ねた。 そして、まだ、なにも、分かっていない。 いま、不安を抱いても意味がない、と、自らに言い聞かせた。 「一応、連絡はしておいたわ。ただ、伝えてくれるかどうかは不明よ。分かっていると思うけど」 「‥‥‥そうだな」 「修行の妨げになると判断されたら、親の死も伝えない。そういう所だもの」 綾子は、溜息を吐き出した。滝川も、溜息を吐き出した。 そうして、二人揃って、所長室を見やって、嫌な予感を感じながら、扉が開くのを、待った。だが、なかなか、扉は、開かなかった。
※
滝川たちが、話すことも尽きて、まだかまだかと時計ばかりを見るようになった頃、ようやく、扉が、開き、ナルが、滝川達の前に、姿を現した。 そうして、いつもの冴え冴えとした口調で、告げた。 「生野小菊が殺害された」 あまりにも唐突な言葉で、滝川たちは、咄嗟に反応できなかった。 そもそも、生野小菊という名前に、滝川たちは馴染みがなかった。 (‥‥‥生野小菊?だれだ?‥‥‥いや、待てよ) 少し古い気がするような名前だ。そして、なんとなく、なんとなく、幾度か、聞いた覚えがある気がして、滝川は、記憶を漁った。だが、滝川が記憶を拾う前に、ナルが、答えを示した。 「麻衣が、猫を預かって貰っていた人だ」 「‥‥‥うそ‥‥‥」 「残念ながら、事実だ。広田さんに確認を取って貰った。昨夜、生野小菊は、自宅に押し入った強盗によって殺害された」 綾子の呻きのような呟きと、ナルの冴え冴えとした声を聞きながら、滝川は、どこにも行き場のない憤(いきどお)りを感じながら、桜を、思い出していた。 ────春。 ────満開の桜の下。 ────皆で、花見をした。 それは、とてもとても楽しい記憶として、滝川の脳裏に刻まれている。 そして、そこに、彼女、生野小菊も、居た。 そもそも自宅に、花見に、誘ってくれたのは、彼女だった。 柔らかな笑みを浮かべて、麻衣を優しい眼差しで見つめていた老女は、酷(ひど)く気さくで、滝川も、とても好ましい人だと思っていた。 なのに、あの人は、殺されたのだ。 (‥‥‥なんて、ことだ‥‥‥) そして、麻衣は、きっと、そのことを、その場面を、視(み)たに違いない、と、滝川は、言われずとも、ほぼ、確信していた。 (‥‥‥可哀想に‥‥‥) 小菊おばあちゃん、と、嬉しそうに呼んでなついていたことを知っているから、なおさらに、滝川は、哀しかった。腹立たしかった。 「‥‥‥これから広田さんに協力して、強盗犯を追うことにした。いつもの調査とは意味が違う。生身の犯罪者が相手だ。いつもより危険が‥‥‥」 「そんなことは、どうだっていいことだ。それで、俺たちは、なにをやればいいんだ?」 「敵討ちなら手伝うわよ。あの人は、そんな風に死んでいい人じゃないわ」 「危険でもやる価値があります」 「‥‥‥僕も、そう、思いますです」 滝川が、ナルの声を遮ると、仲間たちの声が続いた。 頼もしい声だった。 「‥‥‥では、遠慮無く、協力して頂きます。早速ですが、松崎さん、麻衣の付き添いをお願いします」 「‥‥‥付き添いって‥‥‥麻衣は‥‥‥」 麻衣はどうなったの、と、問い掛けたいのに、綾子が、言葉を続けられなかった気持ちが、滝川にも、良く分かった。怖いのだ。ここ数年、麻衣は、動植物節操なしの強力でコントロールの効かない能力によって、酷(ひど)く、不安定だった。意識不明はいつものことで、危うく死にかけたことも何度かある。しかも、それは、麻衣にはほとんど関係のない些細な出来事、些細な接点がきっかけだった。なのに、今回は、親しい人の死が絡んでいる。 ────麻衣が、ダメージを受けていないはずがない。 そして、それは、恐らくは、いや、確実に、いつもより、深刻だろう。 そう分かってしまうからこそ、聞くのが、怖いのだ。 「‥‥‥病院に入院させました。今回のサイコメトリのショックで、一時、心臓が、停止したので」 冴え冴えとした声が、滝川たちの、知りたくて、けれど、知ることが怖かったことを告げた。 そして、さらには‥‥‥。 「‥‥‥そ、それで、い、いま、意識は‥‥‥」 「ありません」 容赦のない声が、さらに、残酷な現実を告げるのを聞きながら、滝川は、片手で、顔を覆った。 そうして、どうして麻衣ばかりがこんな哀しい思いばかりさせられるのだろうか、と、運命と神を罵った。
2
大変なことになったな、と、ナルが仲間達に説明している声を聞きながら、リンはリンで、これからの動きについて考えながら、思っていた。 勿論、動くことに関して、異存はない。 リンも、殺された老女には、会っている。人なつこいが、人に甘えることが苦手で、別離に慣れてしまった少女が、まるで実の祖母のように懐いていた人は、素晴らしい人だった。こんな最悪な最期を迎えるなど、信じられないし、許せない。償いは、求めるべき、当然のことである。 だが‥‥‥。 今回の事件は、いつもとは、違いすぎる。そして、関わること、動くことに関して、決して、少なくはない代償が求められる可能性が高かった。最悪、ナルは、日本に居られなくなるだろう。 殺人事件に関わって、いつまでも裏方で居られるわけがないのだから。 (‥‥‥だが、その時期を遅らせることはできるはずだ) 不安を、リンは、強い気持ちで、打ち消した。そうして、脳裏に、厄介ではあるが日本政府の上層部に顔が利きそうな面々を、思い起こす。実際動くのはまどかだが、日本との繋ぎはリンの役目だ。有る程度の目安は、動く前に立てておかなくてはならない。 (‥‥‥さて、誰にどう頼むか) 出来る限りの時間をもぎ取る為の手順を、リンは、考えた。 殺された老女の為に、またしても親しい人に置き去りにされて傷ついた彼女の為に、そして、その二人の為に、自らの首を絞めると分かっている重大な決断を下した年若い上司の為に。 最善で、最高の、道を、歩くために。 真摯に、真剣に、考え続けた。
※
万が一の為に、融通の効く病院に、麻衣を、移した方がいい。 つまりは、綾子の実家が経営している病院に、移した方がいい。 と、いう、綾子の案は、あっさりと受け入れられた。 むしろ、最初から、移すつもりのようだった。恐らく、昨晩は、綾子の実家の病院にまでたどり着く時間的余裕が無かったのだろう。 「‥‥‥困った子ね」 渋谷サイキックリサーチを出て、麻衣を、入院していた病院から実家の病院に移動させた綾子は、昏々と眠り続ける麻衣を見下ろして、溜息のような声を漏らした。 「‥‥‥早く、起きなさいよ。ほんと、ねぼすけなんだから」 無理だと分かっている願いを、綾子は、口にした。 勿論、哀しいことに、麻衣は、ぴくりとも動かなかった。 「‥‥‥」 麻衣は、良く、眠っていた。 青を通り越して真っ白な作り物のような肌色をしていた。 「‥‥‥」 その白い寝顔を見ていると、綾子は、泣きたくなって、困った。 (‥‥‥残酷過ぎる) 綾子たちは、広田から、生野小菊がどうやって亡くなったのかを、詳しく、聞いていた。憤(いきどお)りを隠さない広田が話した内容は、あまりにも、酷(ひど)かった。 生野小菊は、朗らかな優しい素晴らしい人は、手足をガムテープで縛られて、逃げられないようにされていたのに、何カ所も何カ所も刺されて、でも、即死にはならずに、失血死したそうだ。 その話しを聞いた時、即死しないように手加減したのかもしれない、と、綾子は思った。人を痛めつけることが好きな輩は、人をどうやって刺せば死ぬのか死なないのかを良く知っている。そうして、瀕死の状態をわざと作るのだ。苦しめる為だけに。 (‥‥‥酷(ひど)すぎる) 流れの強盗が犯人だろう、とも、広田は言った。 ここ最近、周囲で、窃盗の被害が多かったらしい、とも。 つまり、彼女は、たまたま運悪く、目を付けられて、殺されたのだ。 痛みを長引かせられて、絶望を与えられて、なんの罪科なく、ただ、そこに住んで居たというだけの理由で!僅かな金銭を目的にした盗人達に! 泣くな、いまは、泣いている場合じゃない、と、綾子は、強く、思った。 けれど、綾子は、もう、堪えきれなかった。 そうして、その酷(ひど)い最期を、恐らくは、その全てを視(み)てしまった、可哀想な麻衣の、冷たい手を握り締めて、泣きながら、運命を呪った。 (‥‥‥可哀想に) なにもかもが酷(ひど)い、と、綾子は思った。 生野小菊が殺されたことも。 生野小菊が殺されたことを特異な力で麻衣が知ったことも。 その事実が、麻衣を打ちのめして、意識不明に陥らせたことも。 なにもかもが、酷い、と。 (‥‥‥可哀想に) けれど、いまが、どん底ではないことも、綾子は知っていた。 そう、まだ、底は、あるのだ。そんな所へは、絶対に、行きたくないけれど、可能性は、あるのだ。 (‥‥‥麻衣、起きなさい。‥‥‥ナルが、ううん、みんな、待ってるのよ) 『麻衣は、僕も、拒絶している。馬鹿も、接触を試みているようだが、跳ね返されているらしい』 ナルの、抑揚の欠けた声を思い起こして、そして、そのことから導かれる最悪の事態を想像して、綾子は、強く、その未来を、否定した。 (‥‥‥大丈夫。きっと‥‥‥きっと‥‥‥今回も、麻衣は、目覚める) けれど、どれだけ最悪の事態を否定しても、どれだけ大丈夫だと思おうとしても、どうしても、涙は、止まらなかった。そして、さらには、本来なら、呼び出してはいけない人物を待ち望むことも、綾子は、やめられなかった。 (‥‥‥こんな時、真砂子が、居てくれたら‥‥‥‥)
※
風が、一際、強く、吹いた。 厚く重なる緑の葉が、ざわざわ、と、ざわめいた。 その向こう側から、なんだか、呼ばれた気がして、真砂子は、顔を上げた。 そして、なんとなく、なんとなく、そこになにかが居る気がして、目を細めて、意識を向けた。 木々のざわめきが、精神の統一と共に、意識の外へと、追いやられる。 静寂の中で、なにかは、真砂子をじっと見つめているような気がした。 そして、その気配は、酷(ひど)く、暖かく、懐かしいような気がした。 けれど、いまの、真砂子には、はっきりとは、分からなかった。 なにもかもが、曖昧で、うまく、掴めなかった。 どれだけ集中しても、かつてのようには、視(み)ることはできなかった。 口惜しい、と、真砂子は、強く、思った。 けれど、いまは、どうにもならなかった。 だから、諦めて、視(み)ることを止めた途端、不意に、それは、姿を、現した。 「‥‥‥おば‥‥‥おばあさま?」 緑のざわめきを背後に、宙に浮いている、透き通っている人は、真砂子の祖母だった。 表情は、うまく、掴めない。 ただ、酷(ひど)く、どうしてか、哀しそうな顔をしている、と、真砂子は、思った。 「‥‥‥おばあさま、どうなさったの?」 祖母が現れることは、真砂子が視(み)ることができていた時でも、珍しかった。 本当は、いつだってどんな時だって会いたかったけれど、なかなか会えなかった。 会えるのは、いつも、特別な時だけだった。 では、いまは、特別な時なのだろうか、と、真砂子は、惑った。 そんな真砂子の戸惑いに、祖母は、言葉では、答えない。 その代わりに、透き通る腕で、すいっと、背後を指差して、消えた。 「‥‥‥おばあさま!待って!」 真砂子の呼びかけに祖母は答えなかった。鮮やかに消え失せて、戻って来ることはなかった。そして、後には、ただ、戸惑うばかりの真砂子が残された。 (‥‥‥おばあさまは、なにを、伝えたかったのだろうか) 祖母が指差した方角になにがあるのか、真砂子は、勿論、把握している。 あの方角には、必ず、なにかを得て帰ると誓った場所がある。 だが、真砂子は、まだ、なにも、得ていない。 なにもかもが中途半端で、なにもかもが曖昧なままだ。こんな状況では、帰れない。それに、ここは、特別な場所だ。簡単に出入りができる場所ではない。一度出たら、もう一度入る許可が出るかどうかも、分からない。いや、こんな中途半端な状態で出た真砂子を、再び、受け入れてくれるわけがない。 だから、いまは、出ることはできないのだ。絶対に。 なのに、どうしてか、祖母は、外を、指差した。 帰りなさい、と、言われた気がした。 (‥‥‥でも) 真砂子は、惑い、迷い、ただ、立ち尽くしていた。 そうして、なにもかもが曖昧で中途半端な自分が、心の底から、嫌だと思った。
|
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥