‥‥‥‥‥‥‥

ナルと麻衣が一時別れているような描写がありますので、ご注意下さい。勿論、ハッピーエンドです。

( )はルビをHP用に変換するとこうなるだけで、本文はルビになっています。

 

 

 

     

 

 

 暗闇の中、唯一人で、ナルは、座り込んでいた。

 彼は、いま、一人、だった。

 側には、誰も、居なかった。

 そして、これからも、彼は、一人、だった。

 彼が、傍らに居て欲しいと、唯一、望んだ、彼女は、もう、彼の側には、戻って来ない。

 だから、ずっと、ずっと、これから先も、彼は、一人だった。

(‥‥‥麻衣)

 暗闇の中、唯一人で、ナルは、対として望んだ唯一無二の女を想った。

 そして、どうせなら笑顔を思い出したいのに、最後に見た、呆然としている顔しか思い出せない自分を、嗤(わら)った。そして、自らが招いたことだと分かっているのに、彼女の笑顔を、もう二度と、見れないことを、悔しく思う自分を、罵った。

 なにもかもが、自業自得だった。

 なにもかもが、当たり前だった。

 いま、ここで、唯一人で、死にかけていることさえも。

 なにもかもが、彼の責任だった。

 なにもかもが、彼の愚かさが招いたことだった。

 つまり、彼には、嘆く権利も、悔しく思う権利も、ないのだ。

 なのに、悔しく嘆く自分が、ナルは、許せない。

 どうしても、許せない。

 だから、このまま終わるべきかもしれない、と、思った。

 あるいは、それが、正しいことなのかもしれない、とも、思った。

 二度と会えなくても、辛くても、それでも、大切な彼女の為に。

 それが最善なのかもしれない、と。

 

 

     ※

 

 

 いつも、いつも、なんとなく、思っていた。

 薄氷の上を歩いているようだ、と、心の奥底で思っていた。

 幸せになりたい、と、いつも、思っていたけれど、幸せになればなるほどに不安が募った。

 いつか、なにもかもを喪ってしまうのではないだろうか、と。

 だから、いま、その不安通り、すべてを喪って。

 哀しいのに、苦しいのに、どこか、ほっとしている。

 これ以上、底はないから。

 そして、そんなことを思う自分が嫌いだ、と、思った。

 前向きになりたいのに。

 もっと違うことを考えたいのに。

 後ろ向きで臆病な自分が嫌だった。

 けれど、どうやったら、立ち直れるのかが、どうしても、分からない。

 どうやったら笑えるのかも、分からない。

 だって、ナルが、居ない。

 ナルに、もう二度と、会えないかもしれない。

 ならば、もう、なにもかもが、どうでも良い気がした。

 なにもかもが無意味で、なにもかもが無価値な気がした。

 だって、彼が、居ない。

 側に居ることさえ、拒絶された。

 だから、もう、笑えない。

 恋にすべてを捧げるなんて愚かだと分かっているのに、でも、どうしても、笑えない。

 どうしても、立ち上がれない。

 どうしても。

 この結末は、自らが招いたことだと分かっているけれど。

 自業自得だと分かっているけれど。

 辛くて、哀しくて、立ち上がれない。

 どうしても。

 

 

     

 

 

 ぱたん、と、音が、響いた。

 扉が閉まった音だった。今回の騒動の関係者、広田が、話しを聞き終わり、正式な報告書を受け取り、所長室から出た音だった。つまり、今回の事件は、終わった、ということだった。

 椅子に深く腰掛けたまま、ナルは、吐息を吐き出した。

 そして、終わったのならば、最後の後始末をつけなくては、と、思った。

 だが、為すべきことが分かっているのに、ナルは、すぐには、動けなかった。

 珍しいことだった。だが、理由は簡単だった。

 本当は、ナルは、後始末など、つけたくないのだ。

 いまのままを維持したいのだ。

(‥‥‥愚かな)

 自らの逃げを、ナルは、嗤(わら)った。

(‥‥‥時間を引き延ばしても、結果は同じだ)

 だが、そう分かっていても、ナルは、動けなかった。

(‥‥‥愚かな)

 愚かで無意味だと分かっているが、なかなか、動けなかった。

(‥‥‥死ぬまで引き延ばすつもりか?)

 そして、思考は、逃避へと伸びてしまった。

 彼らしくなく、酷(ひど)く消極的で、無駄な選択肢までが、出てしまった。

 しかも、その選択肢は、随分と前に、彼自身が無意味だと切り捨てた選択肢だった。

 つまり、彼は、迷っていた。まだ、悩んでいた。

 為すべきことを把握しつつも、迷っていた。

────ココン。

 けれど、その迷いは、軽やかにノックする音で、中断された。

「‥‥‥ナル、お茶、飲む?」

 そして、軽やかなノックの後、少し緊張した顔で、ナルに問い掛ける彼女の目を見た途端、ナルは、悟った。ナルが、あの時、囁いた言葉を、彼女は、忘れているが、忘れていない、と。

(‥‥‥ならば)

「麻衣、話がある」

 なにもかもすべてを忘れていれば良かったのに、と、思いつつ、ナルは、麻衣を呼んだ。

 唯一無二の女を。

「‥‥‥え‥‥‥」

 ナルに呼ばれて、麻衣は、戸惑っていた。

 なんだか良く分からないけれど、怖い、逃げたい、と、素直な表情が語っていた。

「麻衣」

 ナルは、もう一度、麻衣を呼んだ。

 その気持ちのまま逃げてしまえばいいのに、と、思いながらも。

 どうして覚えているんだ、と、彼女の責任ではないと分かっていながら、責任転嫁だと分かっていながら、心中で、責めながらも、唯一無二の女の名前を、呼んだ。

 

 

     ※

 

 

────なんだか、怖い。

 広田さんが所長室から出て来て、挨拶をして、見送って、それから、ナルにお茶のおかわりが要るかどうかを聞く為に、ノックをしようとして、麻衣は、固まった。

────なんで、こんなに、怖いの?

 所長室の中に入ることに、麻衣は、強い抵抗を感じていた。

 けれど、その理由が分からなくて、戸惑っていた。

 所長室の中に居るのは、ナルで、ナルは麻衣の恋人だ。抵抗も、戸惑いも、怖れも、感じる必要のない相手だ。だが、けれど、どれだけ否定しても、抵抗を感じるのは確かだった。

(‥‥‥もしかして、まだ、あの時の怖さが残っているのだろうか?)

 把握しきれない自らの心の内を、麻衣は、探った。

 少し前まで、二人の関係は、歪みまくっていた。

 大切な大切な存在を喪って、その嘆きや怒りや後悔に絡め取られて、二人は、お互いを傷つけ合った。それは、もう、徹底的に。もう一度、と、言われたら、逃げ出してしまうとはっきりと確信できるほどに。

 だから、克服したはずだけれども、あの時の怖さが強すぎて残っているのだろうかと、麻衣は、怖れて、疑った。そして、なんとかできないだろうかと思いながら、ナルにはばれないようにしたいと願いながら、心の内側を覗き込んだ。

(‥‥‥でも、もう、分かっているのに。ナルは、私を、大切にしてくれているのに‥)

 二人の間の歪みは、すでに、正されていた。そして、修復後は、麻衣は、ナルの強い執着に戸惑いつつも、幸せな時間を過ごしていた。

 ついこの間も、大切な人を喪った事件と関係のある調査で、ものすごく大変な思いもしたけれど、それも乗り越えて、終わって‥‥‥。

 もう、なにも、本当に、なにも、問題は残っていないはずだった。

(‥‥‥なのに‥‥‥どうして?)

 麻衣は、戸惑った。

 どれだけ自分に言い聞かせても、抵抗感が消えてくれなくて、困った。

 けれど、いつまでも困っていることもできないから、とりあえずは、そのことを、脇に置いておくことにした。

────ココン。

 たくさん話して喉が渇いているだろう大切な人に、お茶を運ぶのが、まずは最優先、と、麻衣は思った。だから、いつもの通り、いつものように扉を叩いた。

「‥‥‥ナル、お茶、飲む?」

 そして、所長室の中を覗き込んで、いつものように、問い掛けた。

 けれど、問い掛けながら、目を合わせた途端、なにかが、分かった。

(‥‥‥駄目)

 なにが分かったのかは、良く分からない。

 けれど、ただ、駄目、だと、分かった。

 そこに居ては駄目、だと。

 けれど、では、何処に行けばいいのか。

(‥‥‥どうしよう)

 進むこともできず戻ることもできずに麻衣は困り果てた。

「麻衣、話がある」 

 そんな麻衣の困惑に気付いているのか気付いていないのか、いつものように、いつもの声で、ナルが、麻衣を呼んだ。

「‥‥‥え‥‥‥」

 だが、ナルはいつも通りだったが、麻衣は、いつも通りではなかった。

 声を掛けられて、嬉しいはずなのに、もっともっと逃げたくなっていた。

 背中を向けて、一目散に、逃げ出したくなっていた。

「麻衣」

 けれど、結局、麻衣は、逃げられなかった。

 いいや、最初から、逃げられるわけがなかったのだ。

 唯一無二の大切な人の呼び掛けを、無視など、振り切るなど、できるわけがない。

(‥‥‥ならば、もう、オワリだ)

 呼ばれて諦めて近付きながら、麻衣は、漠然と、変なことを思った。

 そして、足下が、たわむのを感じた。

「麻衣、もう一度、言う。おまえは、忘れてしまっているようだからな」

 唯一無二の人、大切な人に近付いて、その眼差しを見返しながら、麻衣は、やめて、と、叫ぶように思った。どうしてか分からないけれど、耐え難い、と、強く強く思った。けれど、声に出すことはできなかった。なぜか、全身が、凍り付いたように動かせなかった。

「僕は、あの時、ジーンが消えた時‥‥‥‥‥‥」

 ナルの言葉の途中で、麻衣は、耳が聞こえなくなった。

 まるで、突然、耳を塞いだかのように。

(‥‥‥違う)

 そうじゃない、と、麻衣は、思い直した。

 耳が聞こえなくなったのではない。麻衣は、自分で、自分の耳を塞いでいた。

「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 耳を塞ぎ聞くことを拒絶する麻衣を、ナルは、静かな眼差しで見つめた。

 その眼差しを見つめ返しながら、麻衣は、どうしてか分からないけれど苛立ちを感じた。

 強い強い強い強い苛立ちを。

 そして‥‥‥。

(‥‥‥嘘だと言って、夢だと言って)

 麻衣は、ナルの言葉を、聞いていないはずだった。

 けれど、麻衣は、ナルの言葉を、聞いていないはずの言葉を、必死に否定しようとしていた。

 つまりは、それは‥‥‥。

(‥‥‥お願い。嘘だと言って。そんなこと耐えられない。ユルセナイから)

 強く強く思いながらも、けれど、麻衣は、もう、分かっていた。

 もう、仕方ないのだと。

 ナルは、もう、決めてしまったのだと。

 こんなのは、僅かな時間稼ぎにしかならないのだと。

(‥‥‥でも‥‥‥)

 動けない麻衣を見つめたまま、ナルが、立ち上がった。

 そして、麻衣の側に来て、耳を塞いでいる麻衣の両手を掴んで、強い力で抵抗をねじ伏せて、耳から外した。

「‥‥‥やめ‥‥‥」

「やめない。それにそんなことをしても、無意味だ。おまえは、もう、聞いて、忘れているが、知っている。僕が、ユージーンの消滅を望んだことを」

 やめて、と、麻衣は、強く、思った。

 耳を塞ぎたかった。だが、ナルは、許さなかった。

「うんざりだった。ユージーンが居る限り、おまえは、僕を、見ない。だから、僕は、確かに、望んで、安堵した。ユージーンが消えたことを」

「‥‥‥やめ‥‥‥」

「僕がそんなことを思っているとは知らず、おまえが、僕の所に、償いの為に、来た時、僕は、愚かな女だと思っていた。本当のことを話してやろうかとも思った。だが、話さなかった。その愚かさを、喜んだ。愚かさに付け込んで、おまえを犯して、傷つけて、縛り付けた」

「‥‥‥おねが‥‥‥やめ‥‥‥」

「‥‥‥おまえの側にいるのは、そういう卑怯な男だ。おまえが夢見ているような男は、どこにも居ない」

「‥‥‥おねが‥‥‥」

「そして、おまえは、許せない女だ。ずっと、見ていたから、知っている。おまえは、許せない。ユージーンの消滅を望んだ僕を、おまえは、許せない」

 突然訪れた嵐の中で、翻弄されながらも、混乱しながらも、麻衣は、分かっていた。

────彼は、正しい、と。

 直感で本能で感覚で、分かっていた。

 否定したいけれど、違うと言いたいけれど、分かっていた。

 どんな事情があっても、どれだけ後悔しても、でも、それでも、あの優しい人が消滅することを望んだ者は、誰であろうとも‥‥‥。

────許せないことを。

 そして、ならば、もう、結末が、決まっていることも、分かっていた。

 分かりたくなくても、分かっていた。

「そもそも僕たちが出会ったことが、間違いだった。間違いは、修正しなくてはならない。‥‥‥麻衣、終わりにしよう」

 

 

     

 

 

 世界が瓦解した。

 大切にしていた守りたいと思っていた世界が、跡形もなく。

 そして、それを壊したのは彼で、そして、荷担したのは、彼を許せない自分で、どうしようもなかった。けれど、どうしようもないと分かっているけど、哀しくて苦しくてなんとかしたくて、でも、どうしたら良いのか分からなかった。

 優しい人が消えた時、これ以上、辛いことはないと思った。

 けれど、いまは、それと同じほどに、辛かった。

(‥‥‥どうしよう。どうしたらいいんだろう。どうしたら)

 麻衣は、混乱したまま、必死に、考えた。

 けれど、どれだけ考えても、分からなかった。

 一歩前に進むことすら、どうしたら良いのか、分からなかった。

(‥‥‥どうしよう。どうしよう。どうしよう‥‥‥)

 逃げたかった。

 何処かへ、遠い、遠い、何処かへ、逃げてしまいたかった。

 けれど、何処に逃げても無意味なことは分かっていた。

(‥‥‥どうしよう。どうしよう。どうしよう‥‥‥)

「‥‥‥いまは、なにも、しなくて、いいわ」

 混乱する麻衣に、不意に、優しい声が、掛けられた。

 暖かくて優しくて労りに満ちた声だった。

「‥‥‥考えるのは後よ。いまは、なにも考えず、寝なさい」

 麻衣は、顔を上げた。

「‥‥‥あや‥‥‥こ‥‥‥?」

「大丈夫。時間はたっぷりとあるわ。いまは、休憩することが最優先よ」

 いつのまにかどうしてか麻衣の側には綾子が居た。

 綾子は麻衣を抱き締めてくれていた。

 流れる涙を、優しく、ふんわりと柔らかいタオルで、吸い取ってくれていた。

「‥‥‥あやこ‥‥‥あやこ‥‥‥」

「ここに居るわ。寝なさい。側に居てあげるから」

「‥‥‥あやこ‥‥‥でも」

「寝なさい」

「‥‥‥でも」

「寝なさい。話しは、後で、いくらでも聞いてあげる」

 でもでも、と、思いながら、麻衣は、必死に、なにかを言おうとした。

 けれど、うまく言えなかった。それに、酷(ひど)く、全身が、だるかった。

 眠りたくないと思ったけれど、瞼も、重かった。

「‥‥‥寝なさい。そう、目を閉じるの」

 でも、と、思いながらも、麻衣は、言われるまま、目を閉じた。

 そして、すうっ、と、自らの意識が遠退くのを感じた。

 

 

     ※

 

 

(‥‥‥可哀想に)

 目の回りを真っ赤に腫らした麻衣が、やっと寝入ったのを確認して、綾子は、深い深い吐息を吐き出した。

(‥‥‥可哀想に。でも‥‥‥)

 綾子は、心底、麻衣が、可哀想だと思っていた。

 けれど、同時に、やはり、とも、思っていた。

 綾子は、前々から、思っていたのだ。

 ナルの麻衣に対する執着はあまりにも強すぎる。だから、いつか、なにか、最悪で、決定的なことを、引き起こすのではないか、と。

 だから、綾子は、今回のことには、あまり、驚いていなかった。

 むしろ、綾子が考えていた最悪の事態ではないことにほっとしていた。

(‥‥‥でも、最悪じゃないけど‥‥‥最悪に近いわね)

 綾子は、泣き疲れて寝入った麻衣の頭を撫でた。

 そして、また、可哀想に、と、思った。

 本当に本当に可哀想で、出来ることなら、このまま、ここにずっと匿ってやりたい、とも。

 けれど、それは、不可能だった。

 いや、麻衣が、いつもの麻衣であれば、可能だったかもしれない。

 だが、もう、麻衣は、いつもの麻衣ではなく、麻衣一人ではなかったから、不可能だった。

『麻衣の腹の中には、僕の子が居る』

 馬鹿は、気を失った麻衣を綾子たちに預けた時、そう言った。

『‥‥‥どんな結論でも、僕は、麻衣に従う』

 そして、さらに、無責任なことを言った。

 激昂した滝川が殴りつけようとして、でも、殴る価値もない、と、見放すほどに、無責任で最低な言葉を、言い放った。

 その言葉が本当かどうかは、まだ、確認は取れていなかった。

 けれど、間違いないだろう、と、綾子は、いや、皆は、思っている。

 そして、あの最低の言葉が、本当ならば、麻衣は、選択をしなくてはならなかった。

────あまりにも酷で、可哀想だが、決めなくてはならなかった。

(‥‥‥可哀想に)

 なんでこんなことになるのだろう、どうしてこんなに傷つかなくてはいけないのだろうか、と、綾子は、激しい憤(いきどお)りを持ちながら、思った。

 けれど、その憤(いきどお)りは、どこにも、ぶつけようがなかった。

 滝川は、ナルが悪い、と、怒っているけれど、綾子は、そんな簡単なことだとは、思えなかった。誰か一人だけを責めて、それで、答えが出るような話しではない、と。

 しかし、かといって、ならば、どうしたら良いのかは、分からなかった。

 どうしたら、一番、麻衣の為になるのかが、さっぱり分からなかった。

 ただ、分かっているのは、麻衣が起きて、落ち着いたら、妊娠しているかどうかを確認して、どうするか考えさせなくてはいけないことだけは、分かっていた。

 それが、どれだけ気が重いことでも。

 麻衣が、さらに深く傷つくと分かっていても。

(‥‥‥どうやって言えば、いいのかしら‥‥‥)

 綾子は、深い深い吐息を吐き出した。

 そして、寝入った麻衣を抱き抱えたまま、せめて最善を見つけるために、考え続けた。 

 

 

     

 

 

 許し難い話しを聞きつけて、滝川は、渋谷サイキックリサーチの所長室へと、駆けつけた。そして、聞きつけた話しを裏付ける光景を見つけた。

「イギリスに帰国するって、どういうことだ!」

 滝川の怒鳴り声を受けて、私物を片付けていたナルは、顔を上げた。

「こんな状況で、あんなになった麻衣を放り出して、逃げ出すつもりか!」

「‥‥‥麻衣の結論に従うことと、帰国は、関係がない」

「こんな状況で、おまえが帰国したら、麻衣が傷つくことぐらい分からないのか!」

「‥‥‥麻衣が、嫌だと、言ったのか?」

「言わなくても、当たり前のことだろうが!」

 苛立ちのまま、滝川は、叫び続けた。

 だが、そんな滝川を、ナルは、感情の欠片(かけら)もない眼差しで冷ややかに見返して、淡々と言葉を返した。

「‥‥‥当事者の意志を確認していない話しは意味がない。ぼーさん、賭けてもいい。麻衣は、僕が帰国することを、止めない」

「おまえ‥‥‥」

「むしろ、安堵しているだろう」

 なにを言っている、なにを馬鹿なことを、と、滝川は叫びたかった。

 怒鳴りつけて殴りつけて馬鹿を矯正したかった。

 だが、本当は、分かっていた。

 そんなことでは、もう、何一つ、解決できないのだと。

『‥‥‥‥‥‥麻衣、なにがあったんだ?』

 滝川は、知らなかった。

 麻衣とナルの間に、なにが起きて、こうなったのか。

 詳しいことは、なにも、知らなかった。

 問い掛けても、麻衣は、答えなかった。ごめんなさい、と、謝って、泣いてばかりで、結局、口を割らなかった。だが、知らなくても、身近に居たから、分かることもある。お互いを傷つけ合って血だらけになりながらも、決して離れようとしなかった二人が、離れようとしているのだ。

 だから、絶対に、生半可なことではない、と。

「‥‥‥なにが、あったんだ‥‥‥」

 問い掛けても答えが返ってくるとは欠片(かけら)も期待せず、僅かな恐れを抱きながら、ほとんど独り言のように滝川は問い掛けた。

「ジーンの消滅を、望んでいたことを、麻衣に話した」

「‥‥‥‥‥‥」

 いともあっさりと返された言葉が、滝川は、一瞬、理解できなかった。

 だが、すぐに、理解して、苛立ちをさらに増した。

「どうしてそんなことをいまさら言い出したんだ!」

「‥‥‥望んでいたことに関しては、驚かないな。ぼーさんは」

「おまえの麻衣に対する執着が、強すぎることぐらいは分かっている!麻衣の気持ちを動かすものすべてが邪魔だと思っていることもな!」

「‥‥‥」

「俺たちのことを邪魔だと思っていることも分かっている!だがな、そう思うことと、麻衣に言うこととは別だろう!麻衣は、駄目だ!絶対に!そんなこと、分かっているだろう!なのに、どうしてそんなことをいまさら言い出したんだ!」

 滝川の叫びに、ナルは、うっすらと笑った。

「確かに、麻衣は、駄目だろうな。麻衣は‥‥‥純粋過ぎる」

「分かっているなら、黙ってろ!この馬鹿が!」

 叫びながら、滝川は、もう、手遅れなことを理解していた。

 麻衣は、聞いてしまった。知ってしまった。

 もう、知らなかった頃には、戻れない。

「‥‥‥もう遅い。麻衣は知ってしまった」

 その通りだった。だが、納得できなかった。

 なによりも一番納得できないのは、ナルが、麻衣に、結末を、選択を、押しつけたことだ。

「‥‥‥この卑怯者が!どうして、もうどうしようもないことだと分かっているのに、麻衣に話したんだ!黙ったまま墓場に持って行けば良かっただろうが!おまえならできるだろう!」

「‥‥‥できない」

「なんでだ!」

「愛しているから、これ以上は、裏切れない」

「‥‥‥」

 いつもの、感情の起伏のない声で、ナルは、麻衣への愛を語った。

 その言葉を、滝川は、共感はできないが、理解はできた。

 だが、理解できても、やはり、馬鹿だと思った。

 滝川の基準からすると、それは、愛ではない。

 愛しているのなら、たとえ嘘を付いても、欺いても、守り通すべきだ、と、いうのが、滝川の信念だった。だから、理解できても、納得など、欠片(かけら)もできなかった。

「‥‥‥それに、あのまま側に居たら、能力を持ち、その上、勘の良い麻衣に、いつか、暴かれるのではないかという不安に押し潰(つぶ)されて‥‥‥取り返しがつかないことをしでかしていたかもしれない。あの、欲した存在を縛り付けて、苦しめることしかできなかった、愚かな男のように」

 そして、滝川にとって、その言葉は、理解どころか、絶対に許せない言葉だった。

「ふざけるな!」

 滝川は、ナルを殴りつけた。

 いままで我慢して我慢して我慢して溜め込み続けていた、怒りのすべてをぶつけた。

 万が一の畏れも、怒りを燃え上がらせる燃料となった。

「帰れ!二度と、麻衣の前には、現れるな!」

 

 

     ※

 

 

 怒りの塊となった滝川が、所長室へと飛び込んで、暫くしてから、さらに怒りを増して、飛び出して行った。それをどうすることもできずに見送ってから、リンは、溜息を吐き出した。

「‥‥‥困りましたね。滝川さんでは、駄目みたいですね」

 溜息を吐き出すリンの側で、安原が、不穏なことを、ぼやいた。

「安原さん‥‥‥あなたですね。滝川さんに情報を流したのは」

「いいえ」

 困った事態に頭痛まで感じているリンに、安原は、朗らかな胡散臭い笑みを向けた。

「指示されたのは、まどかさんです」

「‥‥‥‥‥‥」

「馬鹿の目を覚まさせる為なら、なにをしてもいい、と、言われまして」

「‥‥‥‥‥‥」

「ただ、そう言われても、僕なんかでは、できることには限りがありまして」

 つまりやっぱり情報を流したのはあなたなんですね、と、思いつつ、リンは、決して口には出さなかった。出しても無駄だからである。

「‥‥‥しかし、本当に、なにがあったんでしょうね。あの所長が、谷山さんを一生縛り付けられる好機(チヤンス)を自分から手放すなんて‥‥‥どこかで、頭でも打ち付けたんでしょうかね」

 酷(ひど)い言いようである。だが、リンも、似たようなことを思っていた。

 そして、どうしてこんなことになったのかまったく分からなかった。

 ただ、なんとなく、だからかもしれない、とは、思った。

 愚かだと思うし、納得はできないが、離れることが、本当に彼女の負担になる前に、縛り付けられる存在が少ない内に、と、彼なりに気遣ったのかもしれないと。

「‥‥‥ともかく、所長の意志は変えられそうにないですし、いまさら帰国スケジュールも変えられませんし‥‥‥頑張って下さい」

「‥‥‥」

 頑張って下さい、と、励まされて、リンは、返事をしなかった。

 正確には、返事を、したくなかった。嫌な予感がしたので。

「自暴自棄になった所長がうっかり政略結婚の駒にならないように、きっちりよろしくお願いしますね」

「‥‥‥」

「まあ、そこまで馬鹿ではないと思いますが、谷山さんが結論を出すまでは、よろしくお願いします」

「‥‥‥」

「まどかさん情報では、すでに、上層部が動いているようですし」

「‥‥‥」

 リンは、溜息を、吐き出した。そして、なにもかも終わったはずなのに、どうして、なぜ、こんなことになってしまったのだろうかと、答えが出ない疑問を抱きながらも、理不尽だと思いながらも、頷いた。   

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥