‥‥‥‥‥‥‥

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 彼には、欲しい物があった。

 かつては、多分、持っていた物だった。

 気付かずに。

 持っていて。

 喪って。

 輝きが。

 目に痛く。

 思い出すだけで。

 苦しくなる。

 そういったモノだった。

 彼には、欲しいモノがあった。

 けれど、彼は、それに、気付いていなかった。

 気付けなかった。

 気付きたくなかった。

 気付けなかった。

 気付きたくなかった。

 手に入れるための道のりは、あまりにも、辛く、望みがあるとは思えなかったのだ。

 どうしても、思えなかったのだ。

 暗い、暗い、暗い、細い道を。

 どこまでも、どこまでも、どこまでも、歩いていく。

 そのまま落ちて、消えるのだと、漠然と思っていた。

 だから、彼は、気付かなかった。

 気付こうとしなかった。

 気付けなかった。

『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ま』

 不意に、目の前に、現れた、脆くて、弱い、モノが。

『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥さ‥‥‥ま』

 彼にとっては、あまりにも愚かで、弱く、脆いモノが。

 彼の欲しているモノを、差し出しているなど。

 導いてくれるのだと。

 気付けなかった。

 気付きたくなかった。

 たとえば、その、行為が。

 取り返しのつかないなにかを引き寄せても。

 それでも。

 彼は。

 構わなかった。

 

     ※

 

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 意味などないモノかもしれない。

 忘れた方が良いことかもしれない。

 けれど、彼は、忘れない。

 忘れられなかった。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 意味などないモノかもしれない。

 けれど、彼には、必要なモノだった。

 たとえば、それを手に入れて。

 出口のない絶望の夜に叩き落とされて。

 二度と、這い上がれなくても。

 彼は、それでも、構わなかった。

 だから、諦めなかった。

 たとえば、それで、喪うなにかがあるとしても。

 彼は、それを畏れなかった。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 たとえば、それが、絶望を詰まらせていても。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 欲しいモノがある。

 取り戻したいモノがある。

 たぶん、死ぬまで。

 死んでも。

 諦められない、欲しいモノが。

 彼の。

 すべてを。

 魂を。

 支配していた。

 

 

     

 

 

「‥‥‥ああ、もう、邪魔ですわっっっ!」 

 憤りを孕んだ声と共に、小さな華奢な手が振り上げられる。

 そして、振り下ろされる。

 その先に居た滝川は、なにがなんだか分からなくて、咄嗟に反応ができなかった。

 なぜ、いま、仲間の少女に殴られなくてはならないのか。

 さっぱり、分からなかった。

 そして、唐突過ぎて、体も動かなかった。

 ただ、体だけが、衝撃を予想して、強ばる。

 だが。

「‥‥‥‥‥‥」

 予想していた衝撃も痛みもなにもない。

 そして、仲間の少女、視ることに関しては随一の能力を誇る原真砂子は、とても奇妙な行動を取っていた。滝川には、なにをしているのか、さっぱり分からない。ただ、なんとなく、なにかを取り外しているような動きだと思った。

 そう、まるで、滝川の周囲にある、なにか目に見えぬものを取り外しているようだと。

 そして、その動きの意味は分からないが、徐々になんだか、体が軽くなっていくことだけは実感できた。

「‥‥‥お、おお?」

 さらには、視界が、鮮明になり、頭も軽い。

 まるで、重い重い錘(おもり)から解き放たれたような感じだった。

 そして、そう感じて、やっと、自分が、なにかに囚われていたのだと理解できた。

「‥‥‥真砂子ちゃん、なにやったんだ?」

「後で説明しますわ。そんなことより滝川さんは、他の人が逃げないようにしていて下さいませ」

「‥‥‥ちょ、ちょっと、なによ、それはっっ」

「‥‥‥え、えと、どうされたんどすか?」

「よっしゃ。任せろ!」

 ようやくなにかが動いた気がした。

 硬直し、動かない、この、すべての流れが。

 いや、違う。

 動かさなくてはいけないのだ。

────今度こそ、なにもかもを終わらせる為に。

 困惑して困っている仲間の動きに注意しつつ、滝川は、じりじりと間合いを詰める。

 仲間たちは、皆、とてもとてもとても困った顔をしていた。

 当然だろう。

 つい先ほどまで、ここで、病院の一室で、今回の調査について話し合っていたというのに、いきなりのこの展開では、戸惑うのが当然だ。

 だが、滝川には、分かる。

 実感していた。

 重いなにかに囚われたままでは、話す意味も価値もないのだと。

 結局の所、滝川たちは、まだ、囚われたままだったのだ。

 現実との違いがまったく分からない、あの、鮮明で恐ろしい夢の中に。

 目が覚めたと思っていたけれど、まだ、中途半端なのだ。

「広田さんは、出入口をお願いしますわ。誰も入れないで、誰も出さないで下さいませ!」

「‥‥‥‥‥‥分かった」 

「特に安原さんに注意して下さいませ!」

「‥‥‥分かった」

「‥‥‥原さん‥‥‥ひどいです‥‥‥」

 気合いがみっしり詰まった真砂子が、仲間たちに、順に、手を振り上げるのを、滝川は見守った。 とは言っても、滝川の時と同様、真砂子は、仲間たちに手を振り上げたわけではない。

 仲間たちの周囲にあるなにか。

 なにかを外していた。

 それが、なんなのか、滝川はすごく知りたかった。

 だが、いまは、それどころではないと、ぐっと堪(こら)える。

 そして、なにかを取り外す前に、逃がさないように、仲間たちを見張る。

 言われた通り、特に安原の動きには注意した。

────しかし。

 安原は、仲間たちの誰よりも、逃げることが難しい格好をしていた。

 椅子に座らされて、縄でくくりつけられているのだ。

 それをしたのは滝川たちである。

 仕方のないことではあったが‥‥‥。

 我に返って見ると、なんとも、やばい格好である。

────だが、それも、仕方のないことではある。

 安原は、確かに、要注意人物なのだから。

 たとえ、体の動きが封じられようと、その明晰な頭脳と、達者な口がある限りは、まったく、油断ならない男なのだから。

「‥‥‥‥‥すごく、楽になったどす」

 仲間の一人、ジョンの驚く声が聞こえた。

 だが、もう一人は、難しいようだった。

「‥‥‥駄目ですわ。なんて固い‥‥‥周りを外すだけしかできませんわ。どうして松崎さんだけ‥‥‥」

「ちょっと、どういうことよ」

「‥‥‥皆さんの周囲を、黒い塊が包んでますわ。滝川さんとジョンのは簡単に外れましたけど‥‥‥松崎さんのは、固くて‥‥‥全部はとても無理なんです。しかも、棘があって」

「‥‥‥棘があるってことは植物ね」

「え、ええ、たぶん。そういう形をしていますわ」

「‥‥‥じゃあ、仕方ないわ。私は、植物とは相性が良すぎるもの。祓うには、どなたかのお力をお借りするしかないわ。‥‥‥それは、自分でやれるから、もう、いいわ」

「‥‥‥でも」

「大分、頭がすっきりして来たから、もう、大丈夫よ。もう、騙されたりしないわ。そんなことより、やらなくてはいけないことがあるでしょ」

「‥‥‥そうですわね」

「早く、確認しないと」

「‥‥‥ええ、そうですわ。側に行ってあげなくてはいけませんわ」

 頷きあい、確認を取り合ってから、真砂子は、一番要注意な安原に近づいた。

 安原は、神妙な顔をしていた。

「‥‥‥ええと、なんか、僕、駄目みたいですね。大人しくしてます」

 そして、潔く、目を閉じた。

 目を閉じた安原の周囲で、真砂子が、また、なにかを取り外す動きをした。

 その一瞬、滝川は、視(み)た。

 なにか、なにか、なにか。

 黒い。

 なにかが。

 確かに、安原から、剥がれ落ちたのを。

 それは、長い形をしていたが、はっきりとは分からない。

 それが、なんであったのかも。

 だが、それがなんであったのかがはっきりとは分からなくても、綾子にはまだ少し張り付いているようだが、ともかく、これで、まともな話ができるようになったようなので、滝川はほっとした。

 だが。

 滝川は。

 甘かった。

「‥‥‥縄!縄を早く、外して下さい!谷山さんが!早く、止めないと!」

 安原が、黒いなにかから、解放された安原が、突然、暴れ出した。

 そして、叫ぶ。

「ああ、もう、僕のことはいいですから、早く、上の階に言って下さい!特別室の919号室です!早く!谷山さんが、夢に潜(もぐ)っているんです!谷山さんも所長もリンさんも、忘れているんです!はやく!」

 その叫びを聞いた途端、滝川は、走り出した。

────忘れている?

────なにを?

 そんなことを頭の片隅で思いながら。

 だが、答えは、分かっていた。

 明確な答えはなにも分からないが、麻衣が、とても危険な状態にあることだけは。

 だから、滝川は、走り出した。

 

 

     ※

 

 

 滝川は、白い廊下を、ただ、ひたすらに走った。

 必死に、ただ、必死に、走っていた。

 一刻も早く、麻衣の元に行かなくては、と、走っていた。

 なのに、一刻を争うというのに、腹立たしいほど、両足の動きは、とろかった。

『‥‥‥僕のことはいいですから、早く、上の階に言って下さい!特別室の919号室です!早く!谷山さんが、夢に潜(もぐ)っているんです!谷山さんも所長もリンさんも、忘れているんです!はやく!』

 早く、一刻も早く、駆け付けなくてはならないのに。

 危険な場所になにも知らずに踏み込んでしまった麻衣を、連れ戻さなくてはならないというのに、足も、体も、なにもかもが遅く。

 なにもかもが腹立たしかった。

 しかも、ようやく、必死に、たどり着いた病室の扉は、固く閉ざされていた。

 滝川を拒むように、固く、固く、固く、固く。

────どうして。

────なぜ。

 いきなりのことでなにもかもが突然過ぎて、滝川は混乱していた。

 憤りのままに、力任せに、扉を開けようと、体当たりを繰り返す。

 そんなことをしても無意味だと。

 意味が無い時があるのだと、分かっているのに。

────どうして。

────なぜ。

「滝川さん、どいておくれやす!」

「ぼーず、どいて!」

 混乱する滝川を、細い足が、信じられない力で、蹴り避けた。

 そして、水が、清らかな水が、優美な弧を描き、扉に掛けられた。

────ぱしゃん。

 とたん、かたり、と、音がした。

 扉が、滝川が何度体当たりしても、まったく、動きの無かった扉が、当たり前のように開いた。滝川は、それを、呆然と見つめた。

 だが、頭の隅では、当たり前だと、分かっていた。

 そういうことは、多々あるのだ。

 物理的な力だけでは対処できない事柄が。

 分かっているのに。

 行動が理性に付いていこうとしていなかった。

「麻衣っっっ!」

 大切な少女の名前を叫びながら、滝川は、病室内に飛び込んだ。

 そして、立ち尽くしている男を見付けた。

 黒ずくめの、背の高い、仲間の、リンだった。

 滝川は、リンの側に行こうとした。

「‥‥‥ちょ、ぼーずっっ!」

「‥‥‥滝川さん!」

 後ろから呼びかける声が聞こえたけれど、止まらず、進もうとした。

 そして、滝川は、一歩を踏み出して‥‥‥。

 ようやく、気が付いた。

「リン!‥‥‥おわあっっ!なんだ、こりゃ!」

 白いはずの室内は、赤く、赤く、赤く、染まっていた。

 真っ赤だった。

 燃えていた。

 燃え上がる炎を纏(まと)った、蛇が。

 巨大な蛇が。

 とぐろを巻いていた。

 そして、赤い蛇が纏(まと)う炎は、熱さを伴う炎ではなくて、ぞっと背筋を震わせるような寒さを伴った炎だった。それは、ただ、燃え上がる炎よりも、ずっとやばい、恐ろしい炎だという証だった。なによりも、滝川達を食らおうと狙っている、灼熱の瞳が、恐ろしい。

 一目見て、それは、ヤバイ、と、分かるモノだった。

 だが、それは、鋭い歯を剥き出しにしつつも、滝川に飛びかかることはなく、ゆっくり、ゆっくりと‥‥‥消えていった。

 そして、室内は、本来の色を取り戻した。

 白が大半の。

 病室に。

 麻衣が眠る病室に。

 戻ったはずだった。

 だが、どこにも麻衣は、居なかった。

 どこにも。

 どこにも。

 どこにも。

 どこにも。

「‥‥‥リン‥‥‥麻衣は‥‥‥」

 尋ねながら、滝川は、分かっていた。

 理解していた。

────居ない。

 麻衣は、ここには、居ない。

────間に合わなかった。

 滝川が、いますぐに、駆け付けてやれる場所には居ないのだと。

「‥‥‥連れ浚われました。連れ去った男は、阪碕井直人の形をしていました。本人かどうかは分かりませんが」

 掠れがちな、リンの低い声を聞きながら、滝川は、世界が、暗く霞(かす)むのを見た。

 なにもかもが薄汚れて。

 なにもかもが暗かった。

────間に合わなかった。

────間に合わなかった。

────間に合わなかった。

 それは、もう、どうしようもなく、狂おしく、哀しいことだった。

 もう二度と、取り返しがつかないことだった。

 せめて、せめて、せめて。

────最後に一目。

 そのささやかな、唯一の望みは。

 叶わなかったのだ。

 その為にならば、すべてを捨てても良い、と、思っていたのに‥‥‥。

(‥‥‥取り返しがつかない?)   

 滝川は、薄暗い世界を見渡す。

 麻衣は、やはり、どこにも居ない。

 だが、どこかに居る。

 どこかに居る、と、感じた。

 ならば、取り返しに行くだけだ。

 連れ戻しに、助けに、どこまでも、進むだけだ。

(‥‥‥振り切れ)

────間に合わなかった。

────間に合わなかった。

────間に合わなかった。

 滝川の胸の奥に、深い絶望が横たわっていた。

 だが、その絶望の意味を、滝川は、理解できない。

 当然だ。

 その絶望は、滝川のモノではない。

 入り込んだ他人のモノだからだ。

(‥‥‥振り切れ)

 その思いが誰のモノなのか、滝川には、なんとなく分かった。

 喪ったモノがなんなのかも。

 それがどれほど大切で。

 それがどれほど愛らしいモノなのかも。

 分かる。

 分かるからこそ‥‥‥。

 哀れだと思った。

 だが、引きずられて、判断を誤り、同じ道を歩むことだけは、したくない。

 だから、滝川は、拒絶した。

 自分と同じく‥‥‥弱く脆(もろ)く可愛く美しい存在を。

 だが、決して、恋情を持つことのない存在を。

────娘を。

 慈しむことを知っている、仲間と。

 繋がっている感情を。

(‥‥‥俺には嘆いている暇などない!)

 壁を両手で叩(たた)きつけた勢いのままに。

 寸断した。

 

 

     ※

 

 

────バンッッッッッ!

 壁を叩(たた)きつける音と共に、なにかが、室内を走った。

 それは、真砂子の目には、赤い光のように見えた。

 先ほどの炎とは違う、だが、鮮やかな、赤。

 怒りの。

 嘆きの。

 けれど。

 美しい光。

「‥‥‥‥‥‥真砂子ちゃんや」

 その美しく鮮やかな光を纏(まと)い、静かに問い掛ける男の目は、底光りをしていた。

「は、はいっ」

 思わず、真砂子は、らしくない声で返答をしてしまう。

 途端、男は、へにょり、と、顔を崩した。

────あ、滝川さんですわ。

 その顔を見た途端、そんな、当たり前のことを真砂子は思った。

 そして、なんだか、久しぶりに滝川に会った気がした。

 つい先ほどまで一緒に居て。

 散々顔を見ていたのに、なにを今更、と、真砂子は思う。

 だが、やっぱり、その、奇妙な感覚は消えなくて、なんだか、ひどく、ほっとした。

「‥‥‥ああと、真砂子ちゃん、リンはどうだ?」

「‥‥‥」

 苦笑混じりに問い掛けられて、真砂子は、リンを視(み)た。

 そして、驚いた。

 他の仲間たちのほとんどは、捕まっていた。

 真っ黒な蔦に絡まれていた。

 そのことに誰もが気付いていなかった。

 なのに、リンは、違った。

 リンは、リン、だった。

 けれど‥‥‥。

 その足下に眼を下ろせば、焼け落ちた植物の残骸が残っていた。

────焼け落ちた。

 そういうことなのだろう。

 あの、恐ろしいほどに強い炎が、すべてを焼いたのだ。

「‥‥‥大丈夫そうですわ。すべて焼け落ちてますわ」

「流石だな」

 苦笑混じりに自嘲混じりに滝川は呟いた。

 だが、リンは、賞賛を、眉間の縦皺で拒絶した。

 そして、頭を軽く振った。

 途端、残っていたらしい微かな名残りの、細かい黒いモノが、燃え滓(かす)が、周囲に散った。

 さらには、その燃え滓(かす)は、空気に溶けるようにして無くなってしまった。

 散々と振り回されたモノのあっけない終わりを、真砂子は、無言で、見つめた。

 やっと、終わった。

 いや、始まったと言うべきだろうか。

────訳も分からず、惑わされて、戸惑い、走り回ることは、確かに終わった。

 だが、なにも、解決はしていない。

 そう、なにも。

 ある意味、あの、絶望に満ちた夢の始まりに、その位置に、また、立ったとも言える。

 あの時も、似たような感じだった。

 誰も彼もが傷ついて。

 病室に居て。

 麻衣が。

 居なくて。

────でも。

 違う。 

 同じように見えても、まったく、違う。

「‥‥‥‥‥‥間に合いませんでしたか」

 背後から響く声は、落ち着きを伴い、動揺を押さえ込んでいる。

 縄を解いて貰い、慌てて駆けつけたのだろう。

 息が荒い。

 だが、いま駆けつけたばかりの安原さんも、他の者も、誰もが、動揺はしているが、取り乱したりはしていない。なによりも、前回と違い、彼らは、すでに、今回の調査の相手が、巧妙に騙してくることを知っている。それは、大きな違いだった。 

「‥‥‥‥‥‥間に合わなかったことは、残念ですが、まだ、終わったわけではありません。ともかく、まずは、情報を纏(まと)めましょう。敵は手強いようですから、性根を据えて取り掛かることにしましょう。特に、滝川さん、暴走はしないで下さいよ」

「ふん。んなことは分かっている。‥‥‥暴走して、取り返せるものなのか、駄目なのか、それぐらいは判断できる」

「‥‥‥そう信じてますからね」

 叫んで、走り回って、駆け出すのは、ある意味、楽なことだった。

 真砂子だとて、いますぐに、走り出したい。

 けれど、ぐっ、と、我慢する。

 誰もが、みんなが、心配で、でも、我慢しているから。

────心を、無理矢理に押さえ付ける。

「‥‥‥原さん、大丈夫ですか?」

 問い掛ける言葉は、今更だった。

 大丈夫なわけがなかった。

────麻衣は。

────事態は。

 わめきたいことはたくさんだった。

 だが、いまは、わめいている暇さえ惜しいのだと知っていた。

「大丈夫ですわ」

 だから、真砂子は、頷いて、それよりも、と、先を促す。

 前に、前に、前に、前に、前に、前に。

 終わりに近付くために。

「そんなことよりも‥‥‥」

 早く、話しを、と、思って、真砂子は、気が付いた。

 麻衣は、居ない。

 それは、分かっている。

 では‥‥‥。

「‥‥‥ナルは‥‥‥」

「‥‥‥ナルも、谷山さんと一緒に、消えました。いまも一緒かどうかは分かりませんが」

「‥‥‥ナル坊までか‥‥‥手強いな」

 真砂子は、驚いた。

 今更なのに、酷(ひど)く、驚いた。

 なにが起きるか分からないと分かっていて、覚悟して、けれど。

────彼は。

────彼だけは。

 なんとなく大丈夫な気がしていたから。

 けれど、それでは、二人は、一緒に居る可能性が高いのだから、ほんの少しだけ、安堵した。

 ナルの信用は、最近は、地に落ちているけれども、それでも。

────よかった。

 素直に、そう、思えた。

 

 

     

 

 

 意識が、拡散していく。

 囚われていく。

 そうして、目を開けると‥‥‥。

 緑が。

 鮮やかな緑が。

 視界のすべてを。

 

 

     ※

 

 

 溢れる緑の中に、瀟洒(しょうしゃ)な屋敷が、建っていた。

 森の中に、唐突に、不自然に、だが、溶け込むように。

 栄一は、白を基調としたその屋敷を見上げて、口元がいびつに歪むのを我慢した。

 側には、旦那さまを盲信している田舎者が張り付いている。

 その旦那様に呼ばれた者としては、旦那さまが建てた自慢の屋敷を見上げて、あざ笑う顔などするわけにはいかなかった。

 面倒ではあるが。

 最低限の愛想を振るのは取り引き内容の内だ。

 それに、まあ、呆れはするが、悪くはない趣味だ。

 この外観ならば中も期待できるだろうし、思っていたほどの、不便さは、感じずに済むかもしれない。案内の者が居なければ、人里にも降りられぬ場所など鬱陶しい、と、思っていたが‥‥‥。

────悪くない。

 最近、周りがうるさいと思っていた所だ。

 あのうるささに比べれば、静けさが心地よい気もする。

 鳥の鳴き声も、涼やかな気がする。

「‥‥‥立派なお屋敷ですね」

 栄一は、とりあえず、旦那さまのお屋敷を誉めた。

 途端、栄一をここまで案内して来た男は、嬉しそうに栄一を振り返った。

 重そうな荷物を背負っているのに、動きは軽く、笑った顔は、思っていたより若かった。年上だと栄一は勝手に思っていたが、もしかしたら、年下なのかもしれなかった。

「じゃろう?儂らも手伝わせて貰ったんじゃけど、ここに建てるのは大変だったんじゃぞ」

 嬉しげに笑う男の訛りは、少し、鬱陶しいが、冷ややかに表面だけを滑(すべ)る綺麗な言葉よりも、暖かみがあった。なによりも、浮かべられた満面の笑みが、栄一の気分を解(ほぐ)した。

 率直で素直な人間が栄一は好きだ。

 外面だけが綺麗な人間ばかりを見てきたからなおさらに。

「そうでしょうね。大変だったと思いますよ、本当に」

 返す栄一の言葉に嘘偽りはない。

 本当に、この屋敷を建てるのは大変だったろう、と、栄一は思った。

 まずは場所からして大変だ。

 人に溢れた街ならば、少し物珍しい建物で終わっただろうが、ここは、街から遠く離れた山の中だ。材料を運ぶだけでも面倒な作業だったに違いない。

 それだけではない。

 その材料一つ揃えるだけでも大変だったろう。

 噂では、細かい装飾なども、すべて、欧州から取り寄せたと聞く。

────一体、どれだけつぎ込んだのやら。

 この屋敷を建てた男を思い出しつつ、栄一は、頭の中で試算を弾き出す。

 真偽は定かではないが。

 どちらにせよ途方もない金額であることは確かだった。

 いくら名家とはいえ、易々と出せる金額ではない。

 それなのに、こんな所に、こんな物を建てて、なおかつ、まだ、足らぬと、金を湯水のように使う姿は、滑稽で、そして、哀れでもある。

 どちらにせよ栄一の感覚からすれば、おかしい。

 常軌を逸している。

 まあ、そのお陰で、栄一は、惨めな転落を避けられそうなので、構わないのだが。

 しかし、理解は、できなかった。

────娘一人。

 たかが娘一人の為に。

 ここまでする父親の気持ちが分からない。

 確かに、一人娘で、溺愛しているとは聞いていた。

 だが、病気になったのならば仕方ないだろうに。

 高名な医者を呼び寄せて、最高の治療を受けさせていると聞いている。

 生まれてから一度も苦労をしたことなどないだろう。

 そして、そのまま、溺愛する父親が生きている間に、苦労を味わうことなく死ねるのは、ある意味、とても、幸福なことのように思われた。

 なのに。

 彼は。

 決して、無能ではなく、商才に溢れた、男は。

 まるで、気が狂ったかのように。

 その財のすべてを娘の為に使おうとしている。

 その姿は、まるで、財が尽きるのが早いか、娘が死ぬのが早いか、と、競っているようにも見えて、栄一は、本当に、理解できない。

 まだまだ若いのだから娘をもう一人作ることは容易いだろうし。

 それを何度も望まれていると聞く。

 だが、彼は、それを拒みつづけ、ただ、ひたすらに、娘の為だけに、生きている。

 そして、ついには、彼は、栄一のような若造にまで頭を下げた。

 下げることを厭(いと)わなかった。

『‥‥‥無理を言っているのは重々承知してる。頼む。娘に、最後の思い出を作ってやってくれないか。たまに会って、話しをしてくれるだけでいい』

 その提案に飛びついたのは、栄一ではなかった。

 最近、業績が思わしくなく、苦しんでいた、父親たちだった。

 父親たちは、栄一の意見は一切聞かず、頼み事を快諾した。

 そして、栄一を、家から蹴り出すようにして、ここに、送り出した。

 売った、とも、いうかもしれない。

 だが、それも、娘が死ぬまでのことだが。

────馬鹿な女だ。

 外観にそぐわず美しい内装を誇る屋敷内に足を踏み入れながら、栄一は、たった一度だけ出会った少女を思い出して、哀れむ。

 少女は勘違いをしていた。

 あの時、少女が、栄一の実家の庭で、途方に暮れて怯えていた時、栄一は、彼女に優しくしてやるつもりはなかった。

────鬱陶しかった。

 筒井家の箱入り娘が、その日、茶会に来ることは随分と前から噂になっていた。

 滅多に外に出ない娘は、鬼才とまで言われた男の、一人娘で、恐らくは、唯一の弱味だった。

 手に入れることができれば、と、誰もが、望んでいた。

 そのせいで、その日、栄一の実家は、騒々しかった。

 また、その日だけではなく、その前から、茶会にあぶれた者が文句を言いに来たりして、本当に、うるさかった。それなのに‥‥‥。

 その張本人が、庭の奧、森に近い、あんな所でふらふらして、なにかあったら。

 さらに大騒ぎになるに違いない。

 まったく、迷惑な話だ。

 娘のせいではないと分かっていても、苛立たしかった。

 だから、

『‥‥‥あんた、誰?』

 見付けた瞬間分かっていたのに、敢えて、尋ねた。

 優しい顔などしてやらなかった。

 けれど、怯えて、震えて、泣き出す姿は、幼い子供のようで。

 それ以上、苛める気にならなかった。

 そこに居たのは、筒井家の我侭な箱入り娘ではなくて。

 迷子になって泣いている単なる子供だったからだ。

『‥‥‥あー、分かった。あんた、筒井家の箱入り娘だろ。外とまったく接触させないで、育てられているっていう、評判の世間知らず。滅多に外に出さないのに、今日の茶会に連れて来るって噂になってたよ』

 泣いている子供は、哀れだが、鬱陶しい。

 だから、さっさと親元に返してやるべきだろう。

 こんなことで筒井氏に取り入るのは無理だろうが。

 心証が悪くなることもないだろうし。

 連れ帰るぐらいは、道案内ぐらいは、してやっても良い気がした。

『どうせ、ふらふらと父親の側を離れたんだろ。馬鹿だねぇ。あんたみたいな箱入り娘は、篭(かご)の中で大人しくしていないと、食われるだけだろうに。ほら、付いて来な。筒井氏の所に連れてってやるよ。あの人には、うちの家が随分と世話になっているし、それぐらいはしてやるよ』

 子供は、きょとん、とした顔をしていた。

 まるで、異国の言葉を聞いているかのような顔をしていた。

 その顔を見て、これは、本当に、本当の、箱入り娘なのだと分かった。

 甘やかされているのとは違う。

────隔離されている。

 外から、害意から、すべてから。

 こんなに脆(もろ)くては、外では、生きていけないだろう。

 あの父親が居なくなったら。

 骨まで食われて死ぬだろう。

────そう思った。

 だが、それも、仕方のないことだ。

 そうなったらそうなったで、それが、この娘の運命だったのだろう。

 けれど、できれば‥‥‥。

『‥‥‥ありがとう』

 無償の親切を当たり前みたいに信じて、礼を告げる子供の、哀れにもほどがあるそんな姿は、目の前では見たくなかった。

 だから、らしくないことを言った。

『‥‥‥あんた、二度と、このうちに来るなよ。このうちは、あんたを頭からばりばり食ってやろうと思っている奴等ばかりが集う巣だ。あんたみたいなのは、親鳥の巣の中で、ぬくぬくとしているのが一番だってことさ』

 けれど、それは、本当に、気紛れで。

 優しくしてやったわけでは決してない。

 父親の元に送り届けてやったのも、ただ、場違いな場所に迷い込んだもろい生き物が壊れた時、自分に、とばっちりが来ることを厭(いと)っただけだ。

 それだけなのに。

 それを知らない、分かることのできない子供は。

 栄一を優しい人間だと勘違いして。

 栄一をここに呼んでしまった。

────馬鹿な女だ。

 だが、その、ありえない夢を。

 その愚かさを、そのままに、死なせてやるのが、栄一の役目だ。

 ばかばかしいが、たやすいことだ。

 だが、茶番劇を長く続けるのは、わずらわしい。

 とにもかくにも、早く、終わればいい。

 それは、つまりは。

────娘の死を願うことだと分かっていて。

 それでも、栄一は、茶番劇が早く終わることを、強く、願った。

 

     ※   

    

 

 意識が、拡散していく。

 囚われていく。

 そうして、目を開けると‥‥‥。

 緑が。

 鮮やかな緑が。

 視界のすべてを。

 覆っていた。

 そして、光が、差し込んでいた。

 それが光だと気付かぬままに、光を受けていた。

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥