‥‥‥‥‥‥‥
調査のネタバレが有ります。ご注意下さい。 ( )はルビをHP用に変換するとこうなるだけで、本文はルビになっています。
十四
時間がない。 それだけは確かだった。
※
────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 嶋囲ちずこは、ずっと昔から、いつも、そう思っていた。 なにかが間違っている気がしていた。 自分が息していることさえも、時折、夢のように感じる時があった。 そして、生きていることが間違っている気がした。 けれど、それでも、ちずこは、生き続けて来た。 伴侶を得て、子どもを産み、育て、生きて来た。 だが。 それは。 本当は。 ────許されないことなのではないのだろうか。 と、ずっと、ずっと、思いながら、生きていた。 いつかいつかいつかきっと報いを受けると思いながら。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 解けない疑問を抱えたまま。 生きていた。 そして、報いは、やはり、訪れた。 だが、予想外の形で。 ちずこは、自らが死ぬことは、恐くなかった。 けれど、報いは、そんなちずこの思いを見透かして笑うかのように、ちずこの家族に降り懸かった。最初は、娘に。次に、孫娘に。 「‥‥‥娘さんと同じ状態ですね。我々にはなにもできません。自発的に目覚められるのを待つしか‥‥‥」 ちずこの娘は、幸いにも、目が覚めた。 だがその身代わりのように、孫娘が眠りについた。 目覚めない眠りに。 一時は、目が覚めたのに、またしても、眠ってしまった。 そして、娘の時と同じように、医者は、匙を投げた。 「‥‥‥どうして‥‥‥こんなことに‥‥‥」 娘が、呆然と呟いて、泣くのを、ちずこも呆然と見ていた。 青ざめた横顔を晒して、孫娘が眠り続けている横で。 どうすることもできずに。 ただ立ち尽くしていた。 立ち尽くすことしかできなかった。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 そして、延々と考えていた。 いや、ただ、疑問を繰り返していた。 けれど、ちずこは、本当は、知っているのだ。 ────報いが。 ────来たのだと。 報いが現れたら、ちずこは、受け入れるつもりだった。 いつでもどんな時でも。 けれど。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 報いは。 ちずこの命など。 素通りしていった。 そんなものには興味がないとばかりに。 そんなものには価値がないとあざ笑うかのように。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 ちずこは、娘たちの側に居られなくて、病室の外に出た。 ふらふらふらふらふらふらふら、と。 「嶋囲ちずこさん」 そして、名を呼ばれて、振り返った。 振り返った先には、年若い青年が立っていた。 賢そうな青年が、厳しい顔をして、まるで、ちずこを憎むかのような鋭い目で見ていた。 その目を見て、ちずこは、なんとなく、悟った。 恐れていたことが起きたのだと。 彼は、知ったのだ。 過去のことを調べて解きあかす為に訪れた彼、彼らは。 ちずこの嘘を掘り当ててしまったのだと。 「大切なお話があります」 話してしまいたかった。 もうなにもかもを。 すべて。 だが。 『‥‥‥‥‥‥約束よ?』 ちずこは、約束していた。 約束していた。 約束していた。 だから、どうしても、話せない。 話してはいけないのだと知っているから、恐ろしくて。 どうしても、話せない。 『‥‥‥‥‥‥約束よ?』 どうしても。 どうしても。 どうしても。 どうしても。 どうしても。 どうしても。 どうしても。 どうしても。 どうしても。
※
「‥‥‥そろそろ本当のことを話して頂けませんでしょうか」 他の誰も居ない静かな部屋で、安原は、小柄な老女と向き合っていた。 大切な話があります、と、呼び出したのは、勿論、安原だ。 安原は、頑(かたく)なに凝り固まった目の前の人から、情報を仕入れなくてはいけなかった。話したくないと思っていることも知っているが、それを力尽くで暴いてでも、知らなくてはならなかった。 時間がない。 それだけは確かなのだから。 「なんのことか分かりません」 頑(かたく)なな目をした老女を見つめて、安原は薄く笑った。 心中では苦々しく吐息を吐き出しながら。 ────安原は、腹を立てている。 だが、同時に、目の前の人に同情もしているのだ。 長い長い、あまりにも長い年月(としつき)の、沈黙の苦しみは、安原の想像を寄せ付けないだろう。 けれど、だからといって見逃すわけにはいかない。 時間がない。 それは身を切られるような切実さで。 確かなことなのだから。 「嘘ですね」 安原は、必死に秘密を守ろうとしている老女の前に、資料を並べた。 そして、聞き取りやすい柔らかな声で、ゆっくりと言い聞かせた。 ようく分かるように。 「あなたはいろんなことをご存じのはずだ。知っていて、黙秘を続け、被害を大きくしています。このまま続けばどうなるか、理解していらっしゃいますか?」 「‥‥‥‥‥‥」 「お孫さんがどういう状態にあるか正確に把握していらっしゃいますか?嶋囲桔梗さんの状態は、あなたが思っているよりずっと悪い。娘さんより遥に。あなたの黙秘がさらに事態を悪化させるでしょう」 「‥‥‥昔のことと、あの子には、なにも関係が」 「無くても巻き込まれる‥‥‥いいえ、本当に関係が無いのは、あの時、殺された子どもたちでしょう。あの子たちこそが、まさしく、まったく関係がない、罪のない、犠牲者です」 「‥‥‥」 「それに対して嶋囲桔梗さんには、理由があります。あなたの孫だという絶対的な条件が。‥‥‥‥‥‥‥いま、桔梗さんは、深い眠りに落ちています。僕たちはそれを防ぎ、根本の原因を探る為に呼ばれました。ですが、残念ですが、真実を隠し、偽りしか述べない依頼人を守るほどお人好しではありません」 小柄な老女、嶋囲ちずこは、小さな体をますます小さくさせて、かたかたと震え始めた。 顔色は悪く、疲れ果てているのが、一目で分かるほどに、疲弊しきっていた。 ────端から見たら僕は悪役だな。 心中でそんなことを思いながらも、安原は、追求の手を止めようとは思わなかった。 むしろ、切り込むべき好機だと、わざと強い口調で言い切った。 「真実を教えて下さい。教えて下さらないなら、それでも、構いませんが、その場合、僕たちは、あなた方、嶋囲家のガードを外します。依頼も、キャンセルさせて頂きます。そして、今後、一切、渋谷サイキックリサーチはあなた方の依頼を受けません」 「‥‥‥そんな、ひどい‥‥‥」 「仲間があなたの嘘のせいで捕まりました」 「‥‥‥」 「確かな事前情報さえあれば防げたはずです」 「‥‥‥」 ぶるぶると嶋囲ちずこは震えた。 青白い顔で、ぶるぶる、ぶるぶる、と、小柄な体を揺らす。 そして、喘ぐように、呟いた。 「‥‥‥私は、なにも、なにも、知りません」 そして、嘘を、重ねた。 ────バンッッッ! 安原は、机を叩いた。 荒々しく、鋭く、容赦なく。 そして、愚かさに凝り固まった老女を鞭打つように、鋭い声を出した。 「あなたは、鳥栖栄一を知らないと仰った!だが、あなたと一緒の職場に居た者たち全員が覚えていましたよ!あなただけが、知らないと言っているのです。かつての職場仲間の声をお聞きになりますか?それとも、いっそ、直接引き合わせて差し上げましょうか?」 それに、と、続けて、安原は、書類をまた取り出した。 「あの鳥居がある場所についても、あなたはご存じのはずだ。なぜなら、あなたは、あの鳥居がある場所に一番近い村で、産まれて、育った人間です。知らないわけがないんです。もう、時代が変わったせいでしょうかね。あなた以外の方たちは、簡単にあの鳥居についての伝説を教えて下さいましたよ。単なる言い伝えだと、いとも簡単にね」 さらに、と、安原はまた続けて書類と写真を取り出した。 「あなたはこの女性をご存じのはずだ。かつてのあなたの職場仲間で、あなたの大切なお嬢様を傷つけた恥知らずをね!あなたは万が一にも忘れているかもしれませんが、相手はあなたをようく覚えていらっしゃいましたよ!彼女はなにもかも話して下さいましたよ。鳥栖栄一は、山を降りなかった。降りずに消えた、と。彼女は、必死に、探そうとしたそうですよ。でも、邪魔された。邪魔をして、彼女を屋敷からたたき出したのは、あなたです。そして、彼女のご両親を焚付けて、彼女をこの地から遠い場所に嫁がせたのも、あなた‥‥‥いいえ、あなたと、あなたの雇い主であった筒井氏です。それだけのことをしておきながら、あなたはなにも知らないと仰るのですか!」 安原は、また、机を叩いた。 そして、大きく、息を吐き出して、先ほどの勢いが嘘のような静かな声で話し出した。 「‥‥‥沈黙は時に罪です。あなたの沈黙は、もう一人の桔梗さんも苦しめているようですよ。あなたは信じないかもしれませんが、信頼できる仲間が、あのお屋敷で泣く桔梗さんを視(み)たそうです。‥‥‥死者は、心残りがある場合は、なかなか旅立つことをしません。生を終えた場所、あるいは心残りな人の側に居ることが多い。‥‥‥もう一人の桔梗さんは、死した後、すべてを見ていた。そして、そのことにひどく傷つき、いまも、泣いているそうですよ」 「‥‥‥」 「あなたが沈黙を守り、死ねば、あるいはすべては秘されたまま終わるかもしれません。でも、それは、あなたが誰よりも大切にされていたもう一人の桔梗さんを、出口のない迷路の中に永遠に追いやることです。そして、嶋囲桔梗さん、あなたのお孫さんの心身を恐ろしい危険に晒すことです。‥‥‥それでも、あなたは、沈黙を守りますか?どうか、話して下さい。あなた自身の為にも、二人の桔梗さんの為にも‥‥‥お願いします」
※
「‥‥‥お願いします」 まるで嵐の中に居るようだ、と、ちずこは思った。 なにもかもを一気に語られて、言われた言葉が痛すぎて。 うまく考えることができなかった。 けれど、一つだけ分かっていた。 ────目の前の青年の言葉は。 正しい。 それだけは。 分かっていた。 そして、青年が、必死だと言うことも分かっていた。 ちずこは、潔く下げられた頭を見つめる。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 頭の中は、混乱しきっていた。 そして、壊れたレコードのように同じ言葉ばかりを繰り返している。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 ちずこにはなにがなんだか分からなかった。 なにもかもが分からない。 誰もがちずこをしっかり者だと言うけれど、ちずこは知っている。 自分ほど愚かな人間は居ないと。 だから、ちずこは、人一倍必死に働いて、人一倍必死に考えた。 ただ一言を発するにしても、それがどういう意味であるかを、一生懸命考えた。 なぜなら、ちずこは知っているからだ。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 たった一言が、なにかを引き起こすことがあることを。 取り返しのつかないなにかを、起こしてしまうことを。 ちずこは知っていた。 思い知っていた。 だから、交わした約束を破り、あの時のことを語ることは、ひどく、恐ろしかった。 『‥‥‥‥‥‥約束よ?』 だが‥‥‥。 交わした約束は、もう、一度、破られていた。 決して誰にも言わないと約束したのに。 誰よりも大切な人と交わした約束だったのに。 ちずこよりもうんと賢くて聡明な人と交わした約束だったのに。 ちずこは、愚かにも、約束を破ってしまった。 その結果は‥‥‥。 ────どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 ────どうしてこんなことになってしまったのか。 思い出すのも辛い、悲しい、恐ろしいことになってしまった。 だから、ちずこは、もう二度と誰にも言うまいと誓った。 もう、誰も、ちずこに口止めをしなかったけれど。 『‥‥‥約束よ?』 けれど、けれど、けれど、けれど。 ちずこは、優しくて賢くて美しいあの人が大好きだった。 いまでも、たぶん、誰よりも。 あんなに優しい人が、苦しんでいると、目の前の青年は言った。 ちずこもそう思う。 ちずこは聞いた。 聞いていた。 『‥‥‥どうして?』 最初は信じられなかったけれど、疑ったけれど、いまは、信じている。 あの声は、あの人のものだと。 深い深い眠りに落ちた娘が、唐突に、唇を動かした時、目を閉じたまま語った声は、なつかしくてなつかしくて泣きたくなる人の声で。 『‥‥‥どうして‥‥‥‥‥‥約束したのに』 そして、もう一人、孫娘も。 ちずこを、ちず、と、呼んだ。 孫娘の声ではない声で。 なつかしくて泣きたくなるあの人の声で。 あかくてこわい、と、言っていた。 やめてとめて、と、泣いていた。 娘や、孫の口を借りて、あの人が、泣いていた。 ────止めたかった。 ちずこも止めたかった。 あの赤くて恐ろしい出来事を。 止めたかった。 でも、できなかった。 間に合わなかった。 その力が無かった。 『‥‥‥約束よ?』 いまなら、ちずこにも分かる。 約束してね、と、願った人の気持ちが。 なにを恐れていて、誰を守ろうとしていたのか。 けれど、あの時のちずこには分からなかった。 大切な大切な大切な大切なあの人が。 居なくなったばかりで。 悲しくて。 悲しくて。 悲しくて。 悲しくて。 悲しくて。 ────そして、いまも、悲しい。 あの人に会えないことが、側に居られないことが、悲しくて。 幸せになって欲しいと願われたから頑張って生きてきたけれど。 ────悲しい。 悲しくて。 悲しくて。 悲しくて。 悲しくて。 堪(たま)らない。 だから。 ────話してしまおう。 ちずこは、不意に、そう思った。 話すのは恐ろしい。 あるいは、また、なにか、恐ろしいことが起きるのかもしれない。 けれど、もう、これ以上のことはなにもない気がした。 「‥‥‥ちずこさん?」 そもそも最初から間違っていたのだ。 ────そう、最初から。 ちずこは、ようやく、長年の疑問に答えを得た。 だから、もう、なにも恐くはなかった。 「‥‥‥お話しましょう。なにもかも」 なにも。 なにも。 なにも。 なにも。 なにも。 恐くはなかった。 賢い青年が、なんだかとても奇妙な顔をしていたけれど。 もうなにも恐くはなかった。
十五
『聞き出すことができました』 重苦しい空気が充満した空間で、真砂子は、離れた場所から届く声に、意識を集中させた。 一言も、一音も、聞き漏らすまいと耳を澄ます。 『やはり、我々の予想通り、あの屋敷で、鳥栖栄一が殺害されています。筒井桔梗さんが亡くなられてすぐのことだそうです。手を下したのは、筒井靖近氏です。殺害理由は、筒井桔梗さんの話し相手として呼び寄せた鳥栖栄一が、屋敷に勤めていたメイドに手を出して、その場面を見せつけて‥‥‥最後の時間を台無しにしたからです。筒井氏は、鳥栖栄一を殺害後、屋敷内で自害しています。筒井氏の遺体は、筒井氏の遺言通り、あの屋敷の庭に埋められているそうです』 真砂子は、予想通りの答えを聞いて、目を伏せた。 鳥栖栄一があの屋敷に行った、いや、行かせられた経緯(いきさつ)はすでに聞いている。 実家の借財と引き替えにしてのことだと聞いた。 筒井桔梗が、それを望んだのならば、ある意味自業自得だとは思う。 人を金銭で縛り付けるやり方は気に入らない。 先のない身で、残り少ない時間を、好いた相手と共に過ごしたい、と思う気持ちは、理解できるが‥‥‥‥‥‥だが、それにしても。 ────なんて救いのない。 救いのない過去などあまりにも多く。 救いは本当に希(まれ)だが。 それにしても。 被害が大きすぎる。 『鳥栖栄一の遺体は、向かいの山、坂槌山(さかづちやま)の鳥居がある場所に、昔は泉があったそうで、そこに沈めたそうです。遺体運搬は、当時、屋敷で下働きをしていて、後に、嶋囲ちずこの伴侶となった嶋囲一郎が手助けしたそうです。それで、肝心の鳥居がある辺りの伝承ですが、あの辺り‥‥』 不意に、声が遠のいた。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 一番聞きたい所なのに。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 いやな感じの雑音が邪魔をする。 だが。 『満月の夜に沈んだ者は天に上がるそうよ!阪碕井直人も居るかもだけど、元凶は鳥栖栄一、もしくは、代々沈められていた奴等の可能性が高いわっっっ!』 しゃん、と、鈴が鳴るような音と共に、声が響いた。 安原と共にその場に残ることになった綾子の声だった。 けれど、それも、その一時だけで。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────ザー。 ────‥‥‥。 しばらく雑音を響かせて、ぶちりと携帯の電源が落ちた。 液晶画面は黒く染まり、もう、うんともすんとも言わなかった。 予想していたことではあったし、話が聞けただけましなのだが、それでも、真砂子は溜息を隠しきれなかった。できれば間違っていて欲しかった仮定が、まさしく当たっていたのだから、溜息も出るというものだ。 どちらにせよ。 相手は手強い。 それはやはり確実で。 「真砂子ちゃん、どうだった?ちゃんと声は聞けたか?」 少し前、車の助手席からの問いかけに、真砂子は、ええ、と、頷いた。 「もしかしたら妨害が入っているかもしれませんが。‥‥‥わたくしたちの仮定はほぼ合っていたようです。鳥栖栄一さんは、あのお屋敷で殺されていますわ。筒井氏が手を下したそうです。そして遺体は‥‥‥あの鳥居の近くにあった泉に沈められたそうです」 「ばあちゃんが知っている予定のあの辺りの伝承は」 「詳しくは聞けませんでした。ただ、満月の夜に沈めた者は天に上がるそうなので‥‥‥人柱を定期的に捧げていた可能性が高いと思いますわ」 「‥‥‥人柱か。だとすると、敵は一人だとは限らないな」 そのとおりだった。 過去、真砂子は、そういった場所に赴いたことがある。 そして、そこで、正視できないものを視(み)た。 望んで人柱となった者は、時に、その精神(こころ)の強さゆえに、霊格が上がり、神となっていることもある。だが、大抵の場合は、その場所に縛られて、苦しみ続けている。 特に、無理矢理捧げられた者は、ひどいありさまだった。 そういった者たちは。 当然のことではあるが。 ────すべてを憎む。 逃げることを許さなかった犠牲を強いたすべてを。 その負のエネルギーは、長い時間を経ても消えることはなく、人を吸い寄せ続けたりもする。ましてや、その場所が、力に溢れた場所であれば、そのエネルギーは増していくに違いない。 だが、しかし。 「‥‥‥だが、なんで、いま、なんだ?」 そう、それが不思議だ。 「阪碕井直人が起こしてしまったのか‥‥‥それとも他に理由があるのか」 阪碕井直人がなにかのきっかけを与えたことは間違いないだろう。 けれど、それからさらに数年を掛けた理由が分からない。 それに、どうして。 「第一、どうして、麻衣を浚うんだ?」 そう、それが、一番、分からない。 阪碕井直人ならば、子供をまた浚うだろう。 鳥栖栄一ならば、自らを殺害された時の関係者を狙うだろう。 ましてや、関係者は、すでに、影響下にあると言っても過言ではないのだ。 さらには、元凶となった娘と同じ名前の娘も居る。 それだけ条件が揃っていれば、普通ならば、そちらに行く。 それならば、いつものパターンで、なにもおかしなことはないのだ。 だが、あの場所に居る何者かは、遠く離れた場所に居た麻衣に照準を定めた。 そして、細かく複雑な罠を張り巡らせて、麻衣を浚う、という目的を遂げた。 ────だが。 ────その理由が。 ────分からない。 だからこそ、元凶が、なになのかも、誰なのかも、分からない。 阪碕井直人か。 鳥栖栄一か。 それとも過去に人柱とされた者たちか。 それとも‥‥‥。 ────すべてなのか。 そして、道は、行く先は、合っているのか。 真砂子の不安を煽るかのように、真砂子たちの乗っている車が大きく揺れた。 そう、真砂子たちは、もう、向かっていた。 万が一の可能性に賭けて、かつて、ナルの片割れであるジーンを失った場所へと、夜が迫る夕闇の中を、山道を、車で、駆け上がっていた。 そこに、二人が居ると、真砂子たちは予測した。 そこしか考えられなかったからだ。 だが、いま、この段階になっても、まだ、真砂子には、確信がない。 そして、それは、同乗している仲間たちも一緒だろう。 けれど、動かなくては、行かなくては、ならない。 その、衝動にも似た勘を頼りに、真砂子たちは動いた。 それが、吉とでるか凶とでるか。 そもそも、真砂子たちだけで、再び、あの悪夢が現れた時、対処ができるのか。 まったく、なんにも、分からない。 ────けれど。 ────それでも。 ────行かなくてはいけなかった。 「‥‥‥いやな色だな」 まさしくそのとおりの、いやな、寒気がするような凶々しい、真っ赤に熟れた、夕日の中を、赤い水の中を突き進むようにして、ただ、行くしかない。 つきが。 みちるまえに。 いかなくては。 すべてが。 おわるのだと。 ────頼りになるか分からないけれど、直感が。 『月が丸くなったら、カミサマが、来るよ』 ────生きているもう一人の桔梗の言葉が。 ────正しい。 ────正しいのだと。 『そうしたら、なにもかも、終わるよ』 ────悲鳴のように叫んでいるから。 つきが。 みちるまえに。 いかなくては。 いけなかった。 ────自らの安全よりも。 ────取り返したい大切な人たちがそこに居るから。 つきが。 みちるまえに。 ────頭の奥底で、あまりにも危険で無謀だと叫ぶ理性も居るけれど。 ────相手のテリトリーに入って、頭の回転がにぶくなっていることも分かっていたけれ ど、それでも、それでも、それでも。 つきが。 みちるまえに。 いかなくては。 いけなかった。 遠く遠く遠くで、誰かが。 そんな決意を。 あざ笑っているような気もしたけれど。 それでも。 それでも。 それでも。 それでも。 それでも。 つきが。 みちるまえに。
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勝算の薄い賭だな。 夕日で赤く染まった、うねるような山道を見つめながら、滝川は冷静にそう判断していた。おそらく、仲間たちの誰もが分かっていることであろうが、今回の一件は、滝川たちの手には余る事態だった。 前回、この山道を駆け上がった時よりは、いろいろなことが分かってはいる。 だが、それだけだった。 最終的な手段を滝川たちは持っていない。 事態を終息させる為の、なにかの切り札が、まったくなかった。 滝川たちにできることは、恐らくは、捕まってしまったであろう二人をなんとか見つけだして、逃げ帰ること‥‥‥それぐらいであろう。 そして、それができるかどうかも。 その確率も。 行ってみなくては分からない、と、いう、有り様だった。 『‥‥‥‥‥‥私も行くわ』 滝川の脳裏に、女の顔が浮かぶ。 美しいと言っても構わない容貌の女の顔が、いびつに歪んでいた。 女は、苦楽を共にして、多くの修羅場を一緒にくぐり抜けて来た仲間だった。 そして、女は、綾子は、樹木の神の助けを得られるのならば、滝川などより遥に強力な力をふるうことのできる、力に溢れた巫女だった。 けれど、今回、滝川は、綾子の参戦を認めなかった。 誰かが残らなくてはいけなかったからだ。 そして、残念なことに、綾子は、囚われていた。 滝川たちが抜け出した、目に見えぬ、だが、確実に、思考と視界と力を防ぐ黒い檻の中に、囚われたままだった。 恐らくはそれは、相手が‥‥‥。 巫女に干渉することができる格のもの‥‥‥つまりは、本当に考えたくないのだが、カミサマの類だろうと滝川は考えている。 それに、最初からそう考えれば、いろいろと納得ができるのだ。 前回の調査の時も。 今回の調査の時も。 どちらも、振り回された。 例外に例外が重なっていた。 桁違いの現象だった。 けれど、相手が、カミならば。 理解できる。 規格外は当然だ。 ならば、なおさらに、綾子は連れて行けなかった。 彼女は、巫女。 カミに仕えるヒト。 万が一の時は、綾子の意志はねじ曲げられて、滝川たちの行く手を阻む障害になるかもしれないのだから、仕方がなかった。 『‥‥‥‥‥‥駄目だ。ここに残れ。分かっているんだろう?』 たとえ、綾子自身が、どれだけ切実に、共に行くことを望んでいても。 仕方なかったのだ。 それに、もしかしたら、万が一の時は。 最悪な時は。 彼女ならば。 カミに仕えるヒトならば。 目こぼしがあるかもしれない。 だから、余計に、連れて来れなかった。 最悪な時は。 ひどい苦しみと後悔を味わわせると分かっていても。 最悪な時は。 誰よりも生き残る確率が高いから。 ────ああ。 赤い赤い赤い山道を見つめながら、滝川は、ふと、思った。 最悪な時、泣くであろう綾子の顔を思い浮かべて、思った。 ────無事に帰ることができたら‥‥‥。 無事に帰れる確率がとても低いと分かっているから。 自らを力づける為に。 約束を、自分に、課した。 ────無事に帰ることができたら‥‥‥。 ────その時は、必ず‥‥‥。 そして、ふと、気が付いた。 本当に唐突に。 泣く綾子の顔を思い浮かべたら。 唐突に。 唐突に。 気が付いた。 「‥‥‥‥‥‥赤い‥‥‥」 赤い世界の理に。 「‥‥‥‥‥‥泪が、すべて、なのか?」 もしかしたら、と、思いながら。
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