‥‥‥‥‥‥‥

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 落ちていく。

 堕ちていく。

 墜ちていく。

 どこまでも、どこまでも、どこまでも、下に。

 赤い、赤い、赤い、水の中を。

 どこまでも下に。

 下に。

 下に。

 下に。

 落ちていく。

 けれど、いつまで、堕ちていくのだろうか。

 底は。

 底は。

 底は。

 無いのだろうか。

 ずっと、永遠に、墜ち続けていくのだろうか。

 それは、ひどく、恐ろしい気がして、桔梗は、体を、震わせた。

────大丈夫。

 けれど、どこからか優しい声がしたから。

 ほっ、と、安堵の吐息を吐き出す。

 途端、口から、空気を孕(はら)んだ泡が、こぼれて、上に、上がっていった。

 それを見上げながら、桔梗は、上を、思う。

 遥かに上から呼ばれている気もした。

 戻らなくてはいけない気がした。

 取り返しがつかない気がした。

 怖かった。

 けれど。

────大丈夫。

 優しいけれどどこか恐ろしい声が、響いて、あらがう心ごとすべてをからめ取ってしまう。

 駄目だ、と、思うのに。

────大丈夫。

 あらがうことさえ考えられなくなっていく。

 逃げることさえ分からなくなっていく。

 それが誰の声かも分からないのに。

 聞いた気がするけれど分からないのに。

 優しいけれどどこか怖いのに。

────大丈夫。

 どうにもできない。

 何一つできないまま、墜ちていく。

 底に。

 赤い赤い赤い赤に満ち満ちた水の中に。

 深い深い深い深い池の中に。

 冷たくて怖くて恐ろしくて寂しくて哀しくて狂おしい想いの中に。

 落ちていく。

 堕ちていく。

 墜ちていく。

 どこまでも、どこまでも、どこまでも、下に。

 溶けていく、解けていく、融けていく、どこまでも赤く。

 だから、怖くて、だから、望む。

 溶けて無くなってしまう前に。

 早く。

 底に。

 底に。

 底に。

 たどり着きたい、と、望む。

 けれど、恐ろしい。

 どこまでも深い赤い水の底には。

 なにかとてもとても恐ろしいモノが潜んでいる気がして。

 とても恐ろしい。

 けれど。

────溶けてしまう。

 なにもかもが消えてしまう前に。

 手遅れになる前に。

 どうしても。

────大丈夫。

 底が。

 見てみたかった。 

────大丈夫。

 溶けてしまう前に。

────大丈夫。あなたなら。

 消えてしまう前に。

 喪ってしまう前に。

 底が。

 見てみたかった。

 

 

     

 

 

 東京都検察庁の一角で、男は、受話器を掴んで、渋い顔をしていた。

────‥‥‥トルルルルルル。

 受話器からは呼び出し音が鳴っている。

 だが、誰も出ない。他の電話番号を鳴らしてみても一緒であった。勿論、携帯番号も一緒である。メールも送ったが返ってこない。仕方なく、男と同じようになし崩しに協力を求められた者たちにも連絡を入れたが、そちらもさっぱりだ。地元の警察などにも問い合わせてみたが、担当者が居なくて分からないと言われるばかりで、はっきりいって、怪しい。

────‥‥‥トルルルルルルルルルルルルル。

「‥‥‥出ないの?」

「‥‥‥出ない」

 しつこく電話を鳴らす男に問い掛けたのは、ただ一人の同僚だった。

 名は中井咲紀。いつもは快活で明るく容赦のない押しの強さを発揮する強い女だが、流石に、いまは、神妙な顔をしている。当然だ。いま、電話を掛けている相手は、その場所は、下手をすると、男が知っている限りでは、男が所属する部署で取り扱った事件の中でも最大のものを掘り起こす危険性を孕(はら)んでいる。

 だからこそ男は、いや男たち心霊事件班、ゼロ班は、今回の事件に関してのみ、SPRと最初から協力体制を取る事になっていた。

 なのに、連絡が取れないとはどういうことか。

『‥‥‥心配なんだ。本当に。本当なら、麻衣は連れて行きたくない。だが、置いて行っても、麻衣は‥‥‥来てしまうだろうから、仕方ないんだ』

 男の脳裏に、SPRの協力者の一人で、心配性な元坊主の、ため息混じりの言葉が甦った。

 嫌な感じがした。

 それは曖昧なもので、勘と呼ぶしかないものだが、嫌な感じだ。

 なにかが、なにかとんでもないことが起きているのではないだろうか。

 いつも飄々として暢気(のんき)なSPRの連中の顔も、強ばっていた。

 ひどく、心配していた。

 その顔を思い出せば思い出すほどに‥‥‥。

────気になる。なにか起きたのではないかと気になって仕方ない。

 しかし、男、広田には、ここで、任されている仕事がある。

 だが‥‥‥。

「‥‥‥検事、広田くん、行かせていいですか?」

「お、おい、俺には仕事が」

「あたしがやってあげるわよ。それぐらい。そんなことより、連絡の不徹底を怒りに行くのが先だと思うわよ。これじゃあ、協力しようにもできないじゃない」

 それはそうだが、しかし、と、迷う広田の耳に、のんびりとした声が届く。

「そうだね。広田君、ご苦労だが、行って来てくれるかな」

 直属の上司の言葉に、広田は、頷いた。

 行かせて貰えるなら、正直、助かる。

 しかし、意外だった。同僚の咲紀は、こういう時、真っ先に駆けつけそうなのだが。

「‥‥‥いいのか?」

「なにが?」

「俺が行っても」

「‥‥‥だって、あたしが行ってもねぇ。たぶん、相手にされないんじゃないかな。あちらさん、広田君はある程度認めているみたいだけど、あたしは‥‥‥うるさい虫程度の認識な気がするのよね。むかつくことに」

 そんなことは、と、言い切れない程度には、広田も、SPRを率いる男を知っていた。

 それに、気の強い咲紀があちらに行けば‥‥‥。

 相手にされないだけならまだしも、揉めるかもしれない、とも、思った。

「それに‥‥‥」

「それに?」

「広田君に大人しくここで仕事していなさいって言っても‥‥‥どうせ、飛び出すかなぁ、とか思ってね。なんたって瞬間湯沸かし器だから」

「‥‥‥」

 広田はとりあえず反論することはやめた。

 反論しても無駄であるし、言い争っている時間が惜しい。

『‥‥‥心配なんだ‥‥‥‥‥‥』

 それにどういう理由であろうと行かせて貰えるのは有り難い。

 広田には、どうしても、気になることがある。

 心配していることがあった。

『‥‥‥心配で心配で‥‥‥たまに、どうしようかと思うな』

 心配だ、心配だ、と、呟く滝川の方が広田は心配だった。

 いつもは脳天気で飄々としている男だからこそ、可愛がっている心優しい少女を案ずる時に見せる深い影が、気になった。

 馬鹿なことはしていないと思う。

 暢気(のんき)そうに見えて、賢い男だ。

 広田にはない特殊な能力もあるようだし、大丈夫だとは思う。

 だが、

『‥‥‥心配で‥‥‥本当に、たまに、浚って匿ってやれたらと思う』

 滝川が心配の余りなにか馬鹿な事をしてはいないかと気になって仕方なかった。

『‥‥‥心配で‥‥‥』

 散らかしていた書類やファイルを手早く片づけながら、広田は、思う。

 あの心配性の男は。

 滝川は。

 いま、どうしているのだろうかと‥‥‥。

 

 

        ※

 

 

 滝川は、気が付いたら、大切なモノを抱えていた。

 遠く遠くで、心配されていることなどまったく知らずに、そんな男のことなど忘れ果てて、ただ、大切なモノのことだけを考えていた。そして、

────赤い赤い赤い底無しのどこかに。

────シズンダハズナノニ。

 なにかとても大切なことを忘れていることを、少しだけ、思い出した。

 だがそんな些細なことは、抱えている大切なモノが‥‥‥。

 嘘みたいに冷たいことに気が付いて吹き飛んだ。

 それはとても大切なモノだった。

 暖かくて。

 小さくて。

 可愛くて。

 愛しくて。

 守ってやらなくてはいけない大切な壊れやすいモノだった。

 だから、大切にしていたのに。

 気が付いたら、滝川の腕の中で、それは、壊れていた。

 冷たくて。

 哀しい。

 動かない。

 哀れなモノになっていた。

────だから‥‥‥。

 滝川は、呆然としながら、大切なモノを抱き抱えたまま、思う。

────だから‥‥‥。

 そして、憎む。

 この結果を導いたすべてのモノを。

 憎む。

 憎む。

 憎む。

 なにもかもを壊してやりたいと思う。

────だから、アイツは駄目だと、思ったんだ。

 滝川の脳裏に、冷ややかな冷たい美貌が甦る。

 思い出したくもない顔が浮かぶ。

 その冷ややかさ、あの時から、冷たさを増した眼差しが、滝川は、苦手だった。

────コレハダメダ。

────コワレテイル。

 壊れてしまったことを、哀れだと思わなくもない。

 青年の特殊さを滝川は良く知っていた。

 世界のすべてから際立つようなそのすべては、運命と呼ぶには、あまりにも、過酷で、すべてを嫌い、憎むことは、できなかった。

 けれど、滝川は、大切なモノをなによりも大切にしたかった。

 幸せにしてやりたかった。

 幸せになって欲しかった。

 だから、どうしても、青年の側に置いておくことが怖かった。

 壊れた哀れな異能の男は。

 いつか柔らかくて優しくて小さなモノを。

 握りつぶしてしまいそうで。

 だから。

 だから。

 だから。

 傷つく姿をただ見ているだけなのは、とても、苦しかったけれど、側にいて、必死に見守っていたのに。本当に駄目な時はいつでも助けられるように側に居たのに。

────冷たくて。

────動かなくて。

────小さくて。

 もう、ソレは、動かない。

 動けない。

 壊された。

────ああ。

 その冷たさに絶望して、滝川は、顔を覆った。

 後から後から後から尽きることなく涙が流れた。

 ぽたぽたと落ちる涙は赤く、どこまでも、赤く、哀しかった。

 白い冷たい頬に散る赤が、痛々しかった。

────ああ。

────ニクイ。

 胸に満ちるすべてが黒く染まっていく。

 柔らかく暖かく優しい思い出も、それを燃え上がらせる為の薪(たきぎ)になった。

 愛しければ愛しいほど‥‥‥憎い。

 暖かければ暖かいほど‥‥‥憎い。

 美しい愛しい思い出が、脳裏に浮かべば、浮かぶほどに‥‥‥憎い。

────ああ。

────フクシュウを。

 復讐をしなくてはならない。

 この手で地獄に叩き落としてやらなくては、気が済まない。

 大丈夫だ。

 俺は、やれる。

────苦しみを。

────哀しみを。

────痛みを。

 あの澄ました顔をした男に味わわせてやろう。

 俺の大切なムスメを苦しめた贖いを。

 そのすべてで償って貰おう。

 裏切りには贖いを。

 一族すべてを。

 血のすべてを。

 滅ぼしてやろう。

 そして、教えてやるのだ。

 真に。

 一人。

 真に。

 独り。

 この苦しみを。

 哀しみを。

 約束を破った裏切り者に。

────教えてやろう。

────ああ。

────憎い。

────憎くて。

────憎くて。

────狂おしい。

 滝川は、指先に、力を入れた。

 強く、強く、強く。

────憎い。

────憎い。

 そして、強く、強く、締め上げた。

────ゴツリ。

 そして、掌の中で。

 人の命が消える感触を知った。

 なま暖かい肌の感触を。

 骨が折れる感触を。

 知って、気が付いた。

────ああ。

 滝川は、ヒトを、殺していた。

 憎い憎い憎い憎い男の首を、締めていた。

────ああ。

 飛び散る赤を見回して、滝川は、嗤った。

 泣きながら嗤った。

 なにもかもが馬鹿らしくて、嗤った。

 もう、嗤うしか無かった。  

 狂うしか、道が、無かった。

 そして‥‥‥‥‥‥。

 

 

     ※

 

 

 凄まじい絶叫を上げて、滝川は起き上がった。

 そして、ほえ、と、間抜け面を晒して、周囲を見回した。

「でかい声出すんじゃないわよ、朝っぱらから!」

「おはようさんどす。大丈夫どすか?」

「おはようございます。どこか痛む所はございませんか?」

 周囲には、綾子と真砂子とジョンが立っていた。

 そして、滝川を、見下ろしていた。

 つまり、滝川は、ベッドに寝ていて、飛び起きた状態だった。

 周囲は、ただ白く、赤色は、どこにも散っていなかった。

 取り澄ました美しい男の冷たい死体も、なかった。

 滝川は、己の手を見た。

 だが、手は、赤く濡れていなかった。

 なにも。

 なにも。

 無かった。

 けれど、滝川は、まざまざと覚えていた。

────憎い。

 憎くて憎くて憎くて憎くて仕方ない男を殺した感触を。

 刺して殴りつけて蹴り付けた感触を。

 その首を。

 締め付けた。

 じっとりとなま暖かい感触を。

────憎い。

 覚えていた。

 忘れられるわけがなかった。

「‥‥‥‥‥‥俺は」

 殺してしまったのだろうか。

 滝川には、なにがどうなっているのか分からなかった。

 なにがなんだか分からなかった。

「‥‥‥‥‥‥俺は‥‥‥殺したのか」

 だから、尋ねた。

 荒れ狂う心臓を押さえて、尋ねた。

 なのに、返ってきた答えは、無情だった。

「なんのことか分からないわ」

「‥‥‥‥‥‥」

「私も、起きたばかりよ。しかも説明待ち。‥‥‥でも、まあ、一つだけ分かり切っていることがあるわ。あんたは、殺した人間のことを曖昧にするような人間じゃあないわ。‥‥‥たとえ、罪を犯しても、それを人に尋ねて確認するようなろくでなしの弱虫の卑怯モノじゃないことだけは確かね」

 滝川は、目を、瞬いた。

 そして、回らない頭でしばし考えて、笑った。

「そんなに誉められると照れるな」

「誉めてないっっ!」

 ぎゃーぎゃーと騒がしく叫ぶ声を聞きながら、滝川は、息をした。

 なま暖かくも湿ってもいない空気を吸って、心中で、長々と安堵の吐息を吐いた。

 そして、尋ねた。

 悪夢だと分かっていても、怖くて、安堵したくて。

「‥‥‥麻衣は?」

 なにもかもが夢だと。

 あの冷たさも。

 あの絶望も。

 引き離された苦しみも。

 なにもかもが夢だと。

 教えて欲しかった。

 けれど。

「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 三人の動きは、ぴたり、と、止まった。

「‥‥‥おい?」

────まさか。

 不安が、また、芽生えて、滝川は、声を上擦らせた。

 滝川は、怖くて、怖くて、仕方なかった。

 ひどく大切な事を忘れている気がして仕方なかった。

 取り返しのつかないことが起きてしまった気がして、恐ろしかった。

「‥‥‥麻衣は‥‥‥麻衣は‥‥‥麻衣は‥‥‥無事なんだろう?」

 滝川は必死に問い掛ける。

 だが、三人は、形容しがたい不思議な眼差しで滝川を見つめ、なかなか口を開こうとはしなかった。

 

 

     

 

 

────落ちていく。

 赤い赤い水の中を、どこまでも、墜ちていく。

 流れる気泡を眺めながら、桔梗は、くるくると回りながら、堕ちていた。

 どこまでも、なにもかもが、赤い水の中を、ただ、落ちていく。

 けれど、何一つ変化がないわけではなかった。

 赤い水はどこまでも赤いけれど。

 徐々に徐々に濃くなっていった。

 底を見れば、真っ黒で。

 上を見れば、明るくて、色が薄かった。

 そして、底に近付けば、近付くほど‥‥‥声が。

 いや、声と呼ぶべきなのか分からないけれど、でも空気のような、風のような、不可思議な音が、確かに聞こえて、響いた。

 その音は、嘆いているようだった。

 なにを言っているのかよく分からないのに、聞いているだけで、胸の奥が痛くなるような音だった。 そして、それは、一つではないのだ。

 いくつもいくつもいくつもいくつも。

 どこからか響いていて。

────イタイ。

 なにをそんなに嘆くのか。

 なにがそんなに哀しいのか。

 声は、いついつまでも響いている。

 いついつまでも哀しんでいる。

────カワイソウ。

 そう思う。

 けれど、どれだけ意識を凝らしても、言葉が分からない。

 まるで異国の言葉を聞いているように。

 けれど、唐突に、一つの声だけが、意味を持った。

 低い低い声が。

 ひどく怖い言葉を呟いていた。

『‥‥‥‥‥‥殺して‥‥‥やる』

 怖い言葉だった。

 物騒な言葉だった。

 なのに、なんて、切ない声だろうか。

 まるで、啜り泣くような声だった。

 そして‥‥‥。

────ミツケタ。

 その声は、探し求めていたモノだった。

 やっと見付けた人だった。

────こんな奥に居たんだね。

 桔梗は、ひどく、嬉しくなった。

 胸の内が、ぽかぽかと暖かくて、嬉しくて、切なくて、泣きそうだった。

────‥‥‥心配掛けて、ごめんなさい。ありがとう。

 桔梗は、理解していた。

 どうして理解しているのか分からないのに、知っていた。

 その声が、その声の主がここに居るのは、ワタシの為だった。

 心配を掛けて‥‥‥たくさん掛けすぎて、その人は、囚われてしまったのだ。

 朗らかで優しくて強い人なのに。

 本当なら、こんな所まで堕ちるような人ではないのに。

 心配の余りに抱いてしまった強い気持ちにつけ込まれて引きずり込まれてしまったのだ。

────ぼーさん!

 桔梗は、手を伸ばした。

 手が、自由に動いた。

 堕ちていくことしかできなかったのに、いまは、体が、嘘のように軽くて、赤い水の中を泳ぐことを知っていた。

────ぼーさん!こっち!こっちに来て!

 手を伸ばして近付いた先には、黒い人影があった。

 赤い赤い水の中で、もがいていた。

 悲鳴のような呻き声を上げていた。

────ぼーさん!

 そしてさらに近付いて、桔梗は、驚いた。

 男の人が居た。

 長い栗色の髪をした男の人が。

────赤い涙を流していた。

 年上の男の人が泣くのを、桔梗は、初めて見た。

 そして、子供のような顔で、笑うのも、初めて見た。

『‥‥‥ああ、こんな所に居たのか』

 嬉しそうだった。

 本当に心底嬉しそうだった。

 そして、伸ばされる手は大きくて、暖かい。

『‥‥‥ああ、良かった。無事だったのか』

 桔梗は、見知らぬ男の人に抱き締められていた。

 けれど、少しも嫌ではなかった。

 初めて見たのに、ダイスキだと思った。

────ぼーさん、みんな、待ってる。帰ろう。

 桔梗は、なにも考えず、そんなことを言った。

 意味も分からず、ただ、言葉を紡いだ。

 男の人は、赤い涙を止めて、嬉しそうに頷いた。

 その笑顔が嬉しくて、桔梗も、笑った。

 一緒に帰れるのが嬉しかった。

 見付けられたのが嬉しかった。

 でも。

────ミテル。

 背筋が、ぞっと、した。

 なにかひどく嫌な予感がした。

 後ろを振り返るのが恐ろしかった。

────ミテル。

 それがなにか分からないのに。

 なんのことか分からないのに。

 ダイスキな人の暖かくて強い腕の中に居るのに、怖くて仕方なかった。

────ミツカッタ。

 ああ、どうしよう。

 桔梗は、迷った。

 約束を、思い出して、困った。

 必ず無事に帰る、と、約束したのだ。

 無理をしない、と、誓ったのだ。

 けれど、たぶん、一緒だと、ニゲラレナイ。

 でも、いまなら、帰すことは、たぶん、できる。

────ドウシヨウ。

────オコラレル。

────デモ。

 こんな所に引きずり込んでしまった責任は取らなくてはいけない。

 巻き添えにしてしまったコノコは。

 絶対に帰さなくてはいけない。

────ぼーさん。コノコを連れて行って。

 桔梗は、桔梗を、男の人に押し付けた。

────麻衣?

────ワタシにはまだしなくちゃいけないことがあるの。大丈夫。ここはワタシの得意分野だから。

────待て、麻衣。

 桔梗は、自分の中から、なにかが抜け出すのを感じた。

 ひどく、力強い暖かいなにかが、無くなるのを。

────お願い、ぼーさん。ワタシを、ヒキョウモノにしないで。

 するり、と、ほっそりとした人影が、桔梗の前を通り過ぎていく。

 さらりと揺れた栗色の髪に見覚えがあった。

────怖い思いをさせて‥‥‥ごめんね。

 優しい声に聞き覚えがあった。

 けれど、思い出せない。

 この人は。

 遠ざかる人は。

 堕ちていく人は。

 誰だっただろうか。

────駄目だ!行くな!行くな!

 男の人の声が聞こえる。

 伸ばす手が見えた。

 けれど、すごい力で、押し戻されて、戻れない。

 上に。

 上に。

 上に。

 上に。

 上に。

 上に。

 上に。

 押し上げられて、戻れない。

────麻衣っっっっっっっっっっっっっっっっっっ!

 悲鳴のような呼びかけを聞いて、桔梗は、思い出した。

 ああ、あの人は。

 あの人だ。

 谷山麻衣と名乗った人だ。

 黄昏時に出会った綺麗な哀しい笑みを浮かべていた人だ。

 ワタシを。

 ここに突き落とした人だ。

────麻衣っっっっ!行くな!戻って来い!

 けれど、そう分かっても、なぜか、憎む気持ちは湧いて来ない。

 裏切られた、とも、思えなかった。

 それどころか、ひどく、哀しかった。

 引き離されて。

 戻されて。

 哀しかった。

 いつまでもいつまでもいつまでも。

 その優しい暖かい腕の中で。

 まどろんでいたかった。

 そんなのはおかしいと思うのに。

 あの、美しい哀しい笑みを浮かべる人を、嫌いにはなれなかった。

 どうしても。

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥