‥‥‥‥‥‥‥

アダルト部分が少し有るのでご注意下さい。

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 色鮮やかなステンドグラスを見上げて、桔梗は、目を細めた。

 綺麗だった。

 とても綺麗だった。

 珍しいステンドグラス入りの窓も、白い壁も、張り出した大きなバルコニーも、所々に施された綺麗で繊細な飾りも、燭台も、なにもかもがとても素敵だった。

 けれど、同時に、こんな所にこんな素敵な建物が建っているのが不思議でもあった。

 いま桔梗が居る、白くて可愛くて素敵な別荘が建っているのは、うんと山奥で。とても不便な所だ。

 こんな所に別荘なんか建てたら、来るだけで大変だろうに。

 それに、そもそもこの別荘は誰の物なのだろう。

 随分と昔から管理を任せられていると聞いたが、そんな話を聞いたのも、ここに来るちょっと前のことだった。

 お父さんもお母さんも曖昧に言うばかりで良く分からないし。

 おばあちゃんはむっつりとしていてなんだか機嫌が悪いし。

 なんだか、変な感じだった。

 もしかしたら、いや、多分、お母さんとおばあちゃんは喧嘩をしているのだろう。

 桔梗の前ではなにも言わないけれど、最近、二人が、仲良く話す姿を見ていない。

 お父さんも、なんだか、疲れている気がする。

 どうしてしまったんだろう?

 なにか問題があるのだろうか。

 桔梗は、ステンドグラスを見上げたまま、ぼんやり考える。

 けれど、光輝く大輪の花を見上げても、なにも分からない。

 ただ、その花を。

 どこかで見た気がした。 

────んーと。

 桔梗はしばし考えた。

 そして、笑った。

 ごくごく簡単なことだった。

「桔梗、どこに居るんだい?」

 なんだか嬉しくなって、くふくふ笑っていると、小さくてでも元気で大好きなおばあちゃんの声が聞こえた。

「ここ、ここに居るよ!」

 おばあちゃんに大発見を教えて上げようと桔梗は声を上げた。

 そして、階段下に居る祖母を見下ろして、息を、止めた。

「桔梗、あんまりあちこちうろうろしてはいけないよ」

 おばあちゃん。

 おばあちゃん。

 おばあちゃん。

 近付く音。

 近付く気配。

 おばあちゃん。

 おばあちゃん。

 おばあちゃん。

 その人は、間違いなく、おばあちゃん。

 けれど、

「『桔梗』」

 けど呼ぶ声は、なんだか、違う。

 重なっている。

 後ろに居る。

「‥‥‥おば‥‥‥おばあちゃん‥‥‥」

「『桔梗?』」

 しわがれた声と、低い声が、名を呼ぶ。

 視線が向けられる。

 大好きな祖母が心配そうに。

 神経質そうな見知らぬ男が射抜くように。

 その眼差しの鋭さと暗さに、桔梗は、身を震わせた。

 だが、男は、震える桔梗を一瞥すると、ふいっと視線を逸らした。

 そうして、消えた。

 跡形もなく。

 足音も立てず。

 幻のように。

「‥‥‥桔梗、どうしたね?」

 優しい祖母の声を聞きながら、桔梗は、へたり込んだ。

 正確には、腰が抜けて、立てなかった。

「‥‥‥おばあちゃ‥‥‥あの‥‥‥あのね‥‥‥」

 だが、もう、あの男は居ない。

 そのことに安堵して、桔梗は、祖母に、いま、見た、たぶん、なにか、とんでもないものについて語ろうとした。けれど‥‥‥。

 甲高い、泣き叫ぶ声が、声を消した。

 激しくなにかをぶつける音が平穏をぶち壊した。

「恵!‥‥‥おいっ、どうした!」

 母の名を叫ぶ、父の声を、聞いて、桔梗は悟った。

 先ほどの悲鳴が、

 誰のもので、

 あるのかを。

 

 

 

     

 

 

 

 渋谷、駅前。

 賑やかで秩序のない人混みの中で、麻衣は、挙動不審な男を見付けた。

 いや、なぜか、目に留まったというのが正しいかもしれない。

 周囲には人が溢れ。

 もっと奇妙な動きをしている者はいくらでも居たし、声を張り上げている者も、自分を見てくれ、と、派手なパフォーマンスをしている者も居た。

 なのに、なぜか、麻衣は、その男に、視線を向けた。

 そして、奇妙な感覚を感じて、背筋を震わせた。

────呼ばれている?

 それは引力のようなもののようにも思えた。

 じりじりじりじりと引きずられるような。

 あるいは足下が勝手に動いていくような。

 流れるような。

 渦巻くような。

────誰?

 どうしてそんなことを感じるのか、麻衣には、さっぱり分からなかった。

 なにかの紙、恐らくは地図を片手に、あちこちをうろうろ見回している男は、知らない人だ。 随分と年上の。不精髭を生やした。顔色の悪い。見たことのない。

────なに?

 なのに、呼ばれている気がする。

 引きずられる気がする。

 目を合わせてはいけない気がするのに。

────‥‥‥ニゲラレナイ。

 もはや、取り返しがつかないことのように感じた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥麻衣?」

 どうしようもない気がした。

「‥‥‥‥‥‥どうした?」

 逃げたいけれど。

「‥‥‥麻衣?」   

 もう、遅い。

 目が、合った。

────ああ。

 麻衣は、心中で、なにかを悟って、吐息を吐き出した。

 けれど、なにを悟ったのかは、分からない。

 ただ、周囲が。

 空気が。

 渦巻き。

 波立ち。

 巻き戻されていくのを感じた。

「麻衣!」

 そして、呼ばれて、我に返れば、隣には、厳しい顔つきをした綺麗な人が立っていた。

 掴まれた腕が痛かった。

 けれど、その痛さが嬉しいと言ったら、おかしいだろうか。

 でも、その痛みが、現実を教えてくれる。

 ここは、ここ。

 人混みに溢れたいつもの道で。

 彼の隣だと。

「どうした?」

「‥‥‥」

 麻衣は、なんと答えて良いのか分からなかった。

 何一つ、確かな、言葉には、ならない。

 あの曖昧な。

 奇妙な感覚を。

 どう伝えれば良いのか。

 分からない。

「‥‥‥知らない‥‥‥人なのに‥‥‥」

 けれど、心配しているから。

 心配させたくないから。

 必死に言葉を紡ぐ。

「‥‥‥引き寄せられる気が‥‥‥したの。あれは、なに?」

 振り返り確認を取るのが怖くて、麻衣は、後ろを見れない。

 もう一度、後ろを見たら、もう戻れない気がして‥‥‥。

 離されてしまう気がして。

────怖い。

 怖くて、怖くて、しがみつきたかった。

 縋りたかった。

 けれど、その瞬間、喪ったら。

────きっと。

────私は。

「‥‥‥馬鹿か、おまえは」

 腕を掴んでいた手が離された。

 それは、当然のことなのに。

 大したことではないのに。

 突き放された。

 引き離された。

 そんな気がして。

 麻衣は、息を、止めた。

 衝撃で、固まって、動くことも、できない。

「‥‥‥戻るぞ」

「‥‥‥え?」

 固まった体を、ふわりと、囲まれた。

 労るように、肩を、抱かれていた。

 その優しい暖かい感触が嬉しい。

 けれど、今日は、流石に、出勤しなくては、と、思うのだ。

 だって、休み明け二日目なのだ。

 五連休の後に、人様に言えない理由で休んだ、次の日なのだ。

 けれど。

 けれど。

「‥‥‥僕だ。麻衣の様子がおかしい。一度、戻る。ああ、分かっている。その件はあとで聞く」

 了承を得ず、さくさくと話を進めている、身勝手な男の、暖かい手を振り払うことなどできるわけがなく、ましてや、一人で、振り返り、進むことなどできるわけもなく、麻衣は、ただ、流れに身を任せた。

「‥‥‥帰るぞ」

「‥‥‥うん」

 けれど、知っている。

 分かっていた。

────ノガレラレナイ。

 なにかが、呼んでいるのが。

 呼ばれているのが。

 惹かれているのが。

 巻き戻されるのが。

 分かっていて。

 でも。

 目を。

 瞑った。

 いまは。

 いまだけは、と、呪文のように心中で唱えながら。

 

 

     

 

 

 携帯が鳴り響いた。

 約束の時刻まで後少しだった。

 リンは、嫌な予感を感じながら、携帯を取り出して、眉を顰めた。

 呼び出しているのは。

 嫌な予感どおり。

 有能ではあるが、ここ最近、素行が悪い上司だった。

「‥‥‥」

 昨日も似たような時間に連絡があったことをリンはもちろん覚えている。

 祝日などを挟んで珍しい五連休の後だと言うのに、休む、という、連絡だった。

 しかも、また、彼女を巻き込んでの休みだった。

 なにをしたのか。

 なにをしているのか。

 もはや、問い掛ける必要はない。

 いや、問い掛けられないと言うべきか。

 彼は、彼女に、執着しすぎている。

 リンの口出しを、とんでもない方法で拒絶するほどに。

 それは、警告だ。

 これ以上口出ししたら、なにをするか分からないぞ、という。

 幼稚で愚かで、だが、嘘偽りのない、本気の。

 だが、いまは、大分、落ち着いているようにも見えた。

 少なくとも、あからさまな牽制は減っている。

 それに、多分、それだけ執着していながらも、彼女を閉じ込めようとしないだけましなのであろう。恐らくは、閉じ込めてしまいたいと願ってはいるだろうが。

────困ったものだ。

 吐息を押さえ込みながら、リンは、携帯の通話ボタンを押した。

「‥‥‥はい」

『‥‥‥僕だ。麻衣の様子がおかしい。一度、戻る』

 リンは眉間にさらに皺を寄せた。

 脳裏に、今日のスケジュールが過ぎる。

 今日は、依頼人が来る予定なのだ。

 断りづらい筋から紹介された厄介な依頼人が。

 そして、その依頼は、大事になるかもしれない可能性を秘めていた。

 その上、決して、放置することができないものだった。

 少なくとも。

 リンは。

 彼らは。

 彼女は。

 忘れることは、勿論。

 放置することなど、できるわけがない。

 そういう厄介な筋からの、依頼だった。

 だが、彼は。

────どうなのだろうか。

 ほんの少し前ならば、リンは、確固とした確信を持って、当たり前だと考えただろう。

 けれど、いま、リンの中で、彼への信頼は、かなり、薄れている。

 いや、ほとんど無いと言った方が正しいかも知れない。

 リンは、知っている。

 彼が、彼女に、なにをしたのか。

 彼が、彼女に、いまも、なにをしているのか。

 そして、彼が‥‥‥危うい均衡をいまもかろうじて保っていることを。

「‥‥‥依頼の件は」

『‥‥‥‥‥‥ああ、分かっている。その件はあとで聞く』

 素気ないいつもの声からは、なにも情報は掴めない。

 声は、いつもどおりに、聞こえた気がする。

 けれど、彼は、欺くことが上手い。

────大丈夫だろうか。

 言いたいことだけ告げて切れた携帯をしばらく見つめてから、リンは、吐息を吐き出した。

 そして、立ち上がり、資料室の扉を開けた。

 その件はあとで聞く、と、ナルは告げた。

 それは、代わりに話を聞いておけ、と、言うことだ。

 そして、同時に、誰が聞いても同じ、と、言うことでもある。

 そう、これは、決められてしまっていることだった。

 どんな内容の依頼であろうとも。

 そこから訪れた者は。

 決して無視できない。

 そのことを彼が忘れていなかったことに、リンは、僅かに安堵する。

 不安は消えないが。

 それでも。

 安堵した。

「‥‥‥あれ、リンさん、どうされたんですか?」

「‥‥‥ナルと谷山さんは本日休まれるそうです」

「‥‥‥」

 依頼人が訪れるのを待っていたらしい安原にそう告げると、リンは、ソファに座り込んだ。

 そして、いつになく、ぴりぴりと苛付く自らの気配を持て余しながら、ある意味、不幸な依頼人が訪れるのを待った。

 あの場所近くから。

 忌まわしい過去を引きずり。

 訪れる者を。

 

     ※

 

 いま不用意に近付いたら、呪われそうだ、と、安原は思った。

 そして、珍しく、辺りに不穏な空気を撒き散らすリンを目の端で捕らえながら、ここ最近ずっと感じている疎外感を味わう。

 安原は、ここの、仲間である。

 それは間違いない。

 だが、安原は、疎外されている。

 それも間違いない。

 だが、安原は、無能ではないので、隠されている事柄が、なんなのか、なんとなく把握していた。

 どうして、彼らが、沈黙を選んだのかも。

 どうして、二人を、放置しているのかも。

『‥‥‥‥‥‥いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!』

 あの日、あの時、あの絶叫が響いた時、同じ日に生まれてとても良く似た姿形をした双子と、彼女の、奇妙でいて危うく、だが、救いでもあった絆は力任せに引きちぎられた。

 そして、後には、片割れを、再び、喪い、深く傷つけられた彼と。

 導く優しい腕を持つ近しい者を、また、喪い、傷口を抉られた彼女が残り。

 残された二人の関係は、隠していたが、捻(ねじ)れまくった。

 ほんの僅かなきっかけでどう転ぶか分からないという脆さをはらみ。

 どれだけ表面は普通を装っても、纏う空気は、緊張感を常にはらみ、危険信号が絶えず鳴り響いていた。

 それでも、二人は、離れようとはしなかった。

 そして、あの時から、二人は、お互いだけを見ていた気がする。

 残された存在だけを頼りに立っていた気がする。

────だから、誰もが、手出しなどできなかったように思える。

 あまりにも脆くて。

 あまりにも危うくて。

 手を伸ばした瞬間に砕けてしまいそうで。

 けれど、それも、ここ最近は、やっと、落ち着いて来た気がするのだが。

 ようやく、なにかが一区切りついた気がしたのだが。

 恐らくは二人にいま最も近しい場所にいるリンの態度は、あまりにも、ぴりぴりしている。なにかがありました、と、全身で周囲を圧しながら告げている。

 それとも、ただ単に、今日、訪れるであろう依頼人が気に食わないのか。

 その威圧感漂う眼差しで追い払おうとしているのか。

 どちらにせよ、この眼差しで迎えられる依頼人が不幸なことは間違いあるまい。

────‥‥‥カラン。

 不幸な人間の訪れを告げる音が鳴った。

 安原は、とりあえず、笑みを浮かべて、立ち上がる。

 そうして、戸惑った。

「‥‥‥あ、あの、江口さんの紹介で‥‥‥」

 男が、そこに、居た。なにかの紙、恐らくは地図を片手に、おどおどとした眼差しでこちらを見やる、不精髭を生やし、顔色の悪い、男が。

 困っている。

 どうしたら良いのか分からない。

 疲れ果てている。

 全身でそう叫んでいる。

────依頼人だ。

 男は典型的な依頼人である。

 助けを求めて駆け込んで来た人だ。

 だからこそ安原は違和感を感じた。

 この人の何処(どこ)に。

 多少のことではびくともしない男を苛立たせる要因があるというのか。

 けれど、なにかが。

 なにかが。

 引っかかる。

 小さな棘のように。

 じくじくと。

 苛む。

「‥‥‥あ‥‥‥あの‥‥‥」

「中にどうぞ。安原さん、お茶をお願いします」

「あ、はい」

 じくじく。

 じくじく。

 じくじく。

 じくじく。 

「‥‥‥あの、これが、江口さんからの紹介状です」

 じくじく。

 じくじく。

 お茶を煎れながら、安原は、脳内に検索を掛ける。

 その、名前に。

 引っかかりを強く感じて。

 記憶を遡り‥‥‥。

『‥‥‥江口彦(えぐちひこ)と言います。今回の調査に協力するようにと言われております』

 見付けた。

 思い出した。

 探し出した。

 生真面目な顔と口調と、なにより身分を雄弁に語るその制服姿を。

────まさか。

 良くある名字だ。

 どこででも良く聞く、ありふれた、特異ではない名前だ。

 けれど、あの時に関わった人からの紹介だと言うのならば、納得が出来る。

 いつもと違う苛立つ態度も。

 ここに来ることすらしなかった二人の行動も。

 なにもかも‥‥‥。

────いや。

 ただ、あの時に関わった人からの紹介だという理由だけで、揺らぐような可愛い神経の持ち主たちではない。特に黒衣二人組は。

 なのに、なぜ。

────いや。

 分かっている。

 分かっている。

 分かってしまう。

 それがなぜなのかなど問い掛ける必要がない。

 あの男が、関わっているからだ。

 少なくとも、その危険性があるということは間違いあるまい。 

────ガチャリ。

 食器がぶつかりあう耳障りな音が、手元で響いて、我に返り、安原は、周囲を見回した。

 誰も居るはずがないというのに。

 分かっているのに。

 見回した。

 畏れた。

 ‥‥‥怯えた。

 あの、狂って、狂って、狂って、周囲を、ただ単に同じ街に住んでいただけの人たちを、関わった仲間たちを、絶望の底に叩き込んだ男が。

 どこからか、湧いて出る気がして。

 その名残がある気がして。

 ‥‥‥背筋を、震わせて、ティーカップを落とした。

 繊細な飾りの。

 決して安くはない。

 なによりも。

 彼女のお気に入りを。

 落として。

 壊して。

 しまった。

 

 

     

 

 

 扉が、いつもより大きな音を立てて、閉まった。

────苛立っている。

 掴まれた手首がいつもより痛い。

────苛立っている。

 なんだか頭の芯がびりびりと震えるような感じで、変な感じで、麻衣は、帰って来たのに、なにも、しなかった。

 自宅に戻った途端、手を離されて、そのまま、立ち尽くしている。

 いや、中に入れなかった、と、言う方が正しいかもしれない。

 そこは、ナルの、マンションの、入り口で。

 いまは、一緒に、暮らしている場所で。

 前は、入るのが、怖かった場所で。

 でも、いまは、迎え入れられた場所で。

 二人で。

 ずっと。

 ここに。

 居るのが。

 当たり前で。

 なのに。

「‥‥‥麻衣、どうした?」

 隠しているけれど苛立った声で呼ばれて、身が、竦む。

 先ほどの、あの、奇妙な感覚が、まだ、残っている感じで。

 流れが。

 なにかが。

 戻っていくような。

 流されるような。

 そんな気がする。

 ここに入ることが怖かった時に、感覚が、巻き戻っていくような。

「‥‥‥麻衣?」

 先に中に入っていったナルが戻って来る。

 眉間に皺を寄せて、苛立って、近付いて、腕を‥‥‥。

 腕を。

 腕を。

 腕を。

 掴んで。

 引きずられて。

 押し倒されて。

 傷つけようと。

 腕を。

 腕が。

 腕が。

 伸びて。

「‥‥‥っっっっ!」

 かろうじて悲鳴を出すことを、麻衣は、堪えた。

 けれど、体が震えることを、止められなかった。

「‥‥‥」

 沈黙が怖い。

 けれど、どうしたら良いのか、分からない。

 頭の芯は、まだ、馬鹿みたいに痺れていて、まともに、働かない。

 違うのに。

 違うのに。

 分かっているのに。

 彼は。

 いまは。

 この腕は。

 暖かくて。

 優しくて。

 傷つけたり。

 しないのに。

 分かっているのに。

 分かっているのに。

 分かっているのに。

 信じているのに。

────傷つけられたって構わないのに。

 なのに。

 どうして。

 こんなに。

 怖く、感じるの。

「‥‥‥どうした?」

 どうして、問い掛ける声さえ、恐ろしく感じるの。

 どうして、逃げ出したいなんて、考えるの。

 逃げる場所なんてない。

 逃げたい場所なんてない。

 なのに。

 どうして。

「‥‥‥怖いのか?」

 問い掛ける声は、いつもどおりで。

 それが救いで、でも、怖くて。

────苛立っている。

 腕を掴む手からなにかが伝わっている気がする。

 びりびりと震えるようななにかが。

────苛立っている。

 びりびりと。

 びりびりと。

「‥‥‥大丈夫だ」

 でも、声は、優しくて、腕は、暖かい。

 宥めるように優しく抱き締められれば、怖くて竦んでいたことが、愚かなことだと、強く、強く、思うことができる。

 だから、その背に、手を回すことができて。

 縋り付くことができたけれど。

────苛立っている。

 消えない。

 消えない。

 どうしても、胸の奥底で、なにかが、震える。

 直視することができないなにかが。

 震えて。

 震えて。

 震えて。

 なにを告げたいの?

「‥‥‥大丈夫だ」

 胸の奥にあるなにかに、麻衣は、意識を、向けようとした。

 原因を探ろうと、した。

 けれど、できなかった。

 決して、悟られてはいけないことだけど‥‥‥怖くて。

 そして、そんなことを感じていると気付かれないようにするのに精一杯で。

 深く考えることができない。

 混乱だけが満ちている。

 暖かくて優しくて嬉しいのに、怖い。

 どうしてか分からないのに、その手が、指が、触れる先から、凍えていく気がする。

 逃れたい気がする。

 熱いのに、寒い。

────なぜ。

 繰り返す優しいキスを受け止めて、体中をまさぐる手を受け入れて、抱えられて、運ばれて、寝台の上に下ろされて‥‥‥それらは、いつものことなのに。

 昨日も。

 その前も。

 ずっと。

 ずっと。

 何度も繰り返して来たことなのに。

────どうして。

 締め切ったカーテンの隙間からこぼれる光が嫌なのだろうか。

 仕事をさぼった負い目があるからだろうか。

 いや、そんなのは、本当に、恥ずかしいけれど、いつものことだ。

 調査場所で押し倒されたことを考えれば。

 所長室で押し倒されたことを考えれば。

 外で押し倒されたことを考えれば。

 誰も居ない。

 居る可能性の無い、部屋は、安心で。

 なにも怖いことはないのに。

「‥‥‥どうした?」

 囲うようにして上から見下ろされると、背筋が、震える。

 それをごまかすために縋り付けば、宥めるように背中を撫でられて‥‥‥。

 優しい。

 大好き。

 そう思うのに。

 それでも。

 どうしても。

 どうあっても。

────コワイ。

「‥‥‥いやか?」

 違う。

 違う、と、首を横に振る。

 違うのだ。

 本当に。

 彼を拒絶などしたくない。

 確かに、嬉しいという気持ちはあって、覆せない。

 ただ、けれど、いつもと違って、そこに、同時に、理由のない恐れが居座っているだけなのだ。

 けれど、それを、どう伝えれば良いのか。どう伝えれば誤解されないのか。

 麻衣には‥‥‥分からない。

 彼は、いまも、あの時のことを悔いていると知っているから。

 大切なあの人を喪って混乱していた時のことを、ひどく、気にしていると知っているから、言えない。どうしても。

 ならば‥‥‥。

 どうすれば?

「‥‥‥もっと、強く、抱き締めて」

 分からなくなればいい。

「‥‥‥なんか、すごく、寂しいの」

 熱に熔けてしまえばいい。

 なにもかも分からなくなってしまえばいい。

 なにもかも預けてしまえばいい。

「‥‥‥いっぱい‥‥‥シテ」

 はしたない淫らな女だと思われても構わない。

 恐れていることを知られるより、ずっと、いい。

 傷つけるより、ずっと、ずっと、ましだ。

「‥‥‥後悔するなよ?」

「‥‥‥うん」

「‥‥‥煽ったのはおまえだからな」

「‥‥‥うん」

 確認を取って拒否する時間をくれる彼は、やっぱり、優しい。

 本人は否定するけれど。

 確かに、時折、ケダモノだと思うこともあるけれど。

 でも、やっぱり、優しい。

 だから、平気。

 きっと、明日は、辛(つら)いけれど。

 たぶん、もう、その時は、奇妙な恐れなど消えているだろうから。

 熱に溶かされてしまうだろうから。

 だから。

「‥‥‥大好き、ナル。いっぱい‥‥‥ぎゅってして」

 お願い。

 離さないで。

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥