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光と影の差異が、目に痛いほど、鮮やかだった。 暗い畳敷きの部屋の、障子を開け放った向こう側は、一面、満開の桜で埋め尽くされていた。 綺麗だ、と、麻衣は、なんだか、泣きたいような気持ちで、その光景を見つめた。 そうして、ふらふらと、櫻が溢れる明るい縁側へと向かう。 「おー、やっと来たか。遅いぞ、麻衣」 「遅いわよ。先に始めちゃってるわよ」 庭には、レジャーシートが敷かれ、すでに、準備万端な滝川と綾子が、おちょこを傾けている。そして、その輪の中には、リンさん、安原さん、ジョン、どうしてか広田さん、そして、この家の持ち主のおばあちゃん、そして、そして、ここ最近、ずっと会えなかった真砂子も加わっていた。 花びらが、雪のように降り注ぐ櫻の木の下で、大好きな人たち、大切な人たちが、笑っている。それは、本当に、嬉しいのに、どうしてか、切なくて、見ていると、泣きたくなった。 幸せすぎるからだろうか。それとも、この幸せな瞬間が、瞬く間に通り過ぎていくことが哀しいのだろうか。麻衣は、自分に問い掛ける。だが、答えは、うまく出せなかった。 いや、たぶん、出さなくて良いのだろう、と、麻衣はなんとなく思った。 「‥‥‥どうした?」 立ち止まって動かなくなった麻衣の後ろから、静かな揺るぎない声が響いた。同時に、にぁー、と、愛らしい鳴き声も。ああ、いけない、と、麻衣は、表情を繕って振り返る。 そうして、ふらふらしている頼りない麻衣の代わりに、大切な子の入ったキャリーを持ってくれているナルに、笑いかけた。 「さくらがあまりに綺麗で驚いたの」 「‥‥‥そうか」 「凄く、綺麗。夢の中のよう」 「‥‥‥良かったな」 「うん」 にあー、と、キャリーの中から、太郎が、抗議の声を上げる。 早く出せ、と、訴えていた。 「ナル、ありがとう。キャリー、下に下ろして」 静かに衝撃を与えないようにゆっくりと、ピンク色のキャリーが下ろされる。その何気ないけれど確かな気遣いと優しさが、麻衣は、嬉しい。 麻衣は、幸せな気持ちを抱えながら、キャリーの扉を開けた。そうして、弾丸のように飛び出して行きそうな可愛い可愛い太郎、白猫を、抱き上げる。途端、にあー、と、どこか低めの抗議の声が上がる。 「駄目駄目。ちゃんとリードを付けないとね」 麻衣は、用意していた、長い長いピンク色のリードを、太郎の首輪に取り付けた。そうして、待ち構えている仲間たちの所へと、足早に駆け寄った。 勿論、ナルの腕を掴むことも忘れずに。 たくさんの笑みに迎えられて。 楽しい楽しい幸せなお花見に加わった。
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お花見をしないかい、と、おばあちゃん、生野小菊から、誘いがあったのは、三日ほど前のことだった。その話しを聞いた途端、麻衣は、行きたい、と、思った。だが、麻衣の予定は、麻衣の都合では決められなかった。ここ数年、能力の暴走を重ねている麻衣は、一人で動くことを厳しく制限されている。ついこの間の真冬の調査でも、暴走したばかりだった。だから、麻衣は、駄目かも、と、半ば覚悟しつつ、麻衣の予定を決める権限を持っているナルにお伺いを立てた。 なにしろ、花見だ。 どうにも麻衣は、花や植物と相性が良いらしく、何回か植物系統で暴走をしている。おばあちゃんと太郎に出会ったのも、桃の花が原因の暴走がきっかけだった。なのに、お花見に行きたいなんて、無謀なことだった。駄目と言われても仕方ない、いや、当然のことだった。 「麻衣の好きにすればいい」 だが、麻衣のびくびくどきどきに反して、ナルの許可は素っ気ないほどあっさりと出た。そうして、さらには、忙しいから無理かもな、と、思いつつ、連絡を入れた仲間たちも、ほぼ、全員がすぐに快諾してくれた。いつものスケジュール合わせの大変さから考えると、いっそ、怖いほどに順調な集まり方だった。そして、なによりも‥‥‥。 (‥‥‥真砂子だ) 櫻色の着物を着た真砂子が、参加することになったのが、驚きだった。 (‥‥‥真砂子だ。真砂子が居る) 能力の減退、いや、消失によって、真砂子は、渋谷サイキックリサーチとの協力関係を解消していた。事務所にも顔を見せなくなり、会うことも、ほとんどできなくなっていた。それはとても哀しいことだが、仕方ないと麻衣は諦めていた。 なのに、この間の調査で、真砂子は、どうしてか調査対象の元、たぶん神様に浚われてしまった。そういったことには関わらないようにした矢先の出来事で、そして、あまりにも理不尽な出来事で、麻衣は、真砂子は、とても、傷ついているのでは、と、密かに危惧していた。そうして、麻衣たちとの関わり合いを、さらに避けるのでは、と、怖れていた。 (‥‥‥本当に、真砂子だ) なのに、真砂子は、麻衣の恐る恐るの誘いに快諾した。あまりに予想外だったので戸惑う麻衣に、丁度良かったですわ、と、付け足して。 (‥‥‥なにが丁度良かったんだろう?) 艶やかな黒髪、鮮やかな赤い唇、白い肌、櫻の着物を着て、櫻の下に居る、美しい友達を、麻衣は、問い掛ける勇気を出せないまま、じいっと見つめる。真砂子は麻衣のそんな視線に気付かないまま、楽しそうに笑っている。綾子が大量に作って持ち込んだ三段重ねのお花見弁当をつまみながら、とても、とても、楽しそうに笑っている。それは、とても良いことで、嬉しいことだった。 わざわざそれを崩す必要は欠片(かけら)もなかった。 だから、麻衣は、問い掛けを、ごくん、と、お花見団子と一緒に飲み込んだ。 途端、麻衣、と、呆れ果てたような声で、真砂子に呼ばれて、驚いた。 「‥‥‥そんなに食い入るように見なくても、あたしは、消えませんわよ」 ばればれだったらしい。真砂子だけではなく、他の仲間たちも、苦笑している。 だって、だって、だって、と、あわあわしながら、麻衣は、言葉を探す。 だが、どうにも見つからない。うまい言葉が、全然、見つからない。麻衣は、困り果てて、気を落ち着かせようと、手近にあったコップを手にして‥‥‥。 「麻衣!」 「麻衣、待て!」 飲み干した。 そうして、ごくんと飲み込んでから、胃がかっっっっと熱くなって、ようやく、それが、お酒だと分かった。けれど、それは、もう、いまさら分かっても、どうにもならないことで、どうしようもないことで、うっかりなことで。 (‥‥‥ああ、また、怒られる‥‥‥) 麻衣は、嘆きながら、ひっくり返った。
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麻衣は、目を覚ました。 そうして、頭上が、桜色に染まっていることに気が付いた。さらには、がばりと起き上がって、上だけではなく、下、地面も、桜色に染まっていることに気が付いて、感嘆の声を上げた。 「‥‥‥うわあ」 美しい。それは、ただ、そう言うしかない、圧倒的な美しさを持つ景色だった。 上下の境が分からないほど、なにもかもが桜色で埋め尽くされていた。 ただ、黒々とした桜の木の幹だけが、上下の境を区切っていた。 まるで桜の海の中に沈んでいるようだった。 「‥‥‥すごい、きれい‥‥‥」 「うん、綺麗だね」 呆然と呟いた麻衣の声に、同意の声が被さる。柔らかな、耳に心地よい穏やかな響きだった。 「ジーン」 麻衣は、振り返り、桜色の中に、漆黒を見つけた。 黒衣の少年は、ふわりと笑って、駄目じゃない、と、楽しそうに告げた。 「‥‥‥なにが、駄目なの?」 「お酒。一気飲みはよくないと思うよ。みんな大騒ぎだよ」 麻衣は、目を瞬いた。そうして、唐突に、頭の奥から、いろんな情報が沸き上がり、つまりは簡単に言えば、うっかりと忘れていたうっかりにもほどがある暴挙を、思い出した。 決して、あれは、意図したことではない、と、麻衣は断言できる。けれど、不注意だったことは確かで、そして、その不注意を、皆が見逃してくれるかというとそうではなく‥‥‥。 (‥‥‥起きたら、お説教の嵐だ) 恐らくは確定している未来を思って、麻衣は、なんだか、泣きたくなってしまう。 折角のお花見なのに、と。 「‥‥‥まあ、きっと、今日のお説教は、短く済むんじゃないかな?みんな、お花見で、機嫌がいいから。ただ、まあ、ナルはねぇ、そんなもので機嫌を左右される人間じゃないから、諦めなよ」 慰める振りをして、どん底に落とすジーンを、麻衣は、涙目で睨む。 だが、ジーンは、麻衣の抗議の眼差しをさらりと交わして、また、微笑んだ。 「僕は、感謝しているよ。うっかりな所は心配だけどね。麻衣のお陰で、こんな綺麗な景色を見られたんだから。ほんと‥‥‥綺麗だ」 周囲を見回して、ジーンは、ありがとう、と、さらに深い笑みを浮かべた。 一面の桜色の中、黒衣を着た美しい少年は、夢の中のように現実感がなく、ただ、ただ、ただ、ただ、切ないほどに、美しかった。いや、と、麻衣は、狂おしいほどの切なさを感じながら、これは夢みたいじゃなくて夢なんだよ、と、自分に言い聞かせる。けれど、分かっていても、諦めていても、納得していても、そのことが、ただ、哀しかった。 「‥‥‥泣かない。泣かない。僕は、いま、幸せだよ?麻衣が居て、お花見にまで参加してる。とても幸せなんだ。だから、泣かない」 「‥‥‥うん。でも‥‥‥」 「‥‥‥でも?」 「‥‥‥どうしてか、止まらないの」 言うことを聞かない涙腺を、麻衣は、必死に止めようとはしている。泣くなんて駄目だ、とも、思ってはいるのだ。けれど、止まらない。止められない。 「うーん。困ったな」 どうしよう、と、困る麻衣の頬を撫でて、ジーンは艶やかに笑った。 「あんまり泣くと、可愛いから、キスしちゃいたくなるんだよね」 「‥‥‥え?」 予想外の言葉に、麻衣は、目を見開いた。 「でも、キスしちゃうと、ほろほろ流れる美味しそうな涙を舐めると、絶対、我慢の限界点突破だよね。僕はいいけど、麻衣が受けるだろう被害を思うと、心が痛むんだよね」 麻衣の脳裏に、不機嫌そのものの冷ややかな氷のような微笑が浮かんだ。途端、背筋が一気に冷えて、ついでに、涙も、止まった。いや、凍り付いたと言うべきかもしれない。 「‥‥‥あ、止まった。よかったよかった」 凍り付いた麻衣を見て、ジーンは喜んだ。悪戯が成功したような顔で、とっても嬉しそうだった。なんだか悔しかった。だから、麻衣は、えい、と、手を伸ばした。そうして、前々からやってみたかったことをしてみた。 「‥‥‥いひゃい」 「つるつるー、すべすべー、やわらかいー」 ジーンのほっぺをつまんで、むにむにしながら、麻衣は、笑った。 「‥‥‥いひゃいいひゃい‥‥‥」 「頬をつまんでも綺麗だよね。美形ってお得だよね〜」 「‥‥‥それひゃんかちがう‥‥‥」 変な声、と、麻衣は、笑って、手を離した。痛いよひどいよ、と、抗議の声を上げつつも、ジーンも笑った。桜色に染まった世界で、ただ、二人は、笑い合った。 その時、麻衣は、間違いなく、幸せだった。けれど、同時に、痛いほどに切なかった。 あの時、桜の木の下に居るみんなを見つけた時と、その気持ちは、良く似ていた。 (‥‥‥ああ、また、泣きそう‥‥‥) 駄目だ。泣いちゃ駄目だ。そう強く思いながら、麻衣は、目に力を込めた。 とたん、とん、と、肩を押されて、後ろにひっくり返った。 「そろそろ帰らないとね。本当に大騒ぎになっちゃうから」 またね、ありがとう、楽しかったよ、と、告げる声が、急激に遠くなった。周囲が真っ黒になった。そのことに驚きつつも、麻衣は、どこかに落ちていく感覚に逆らうことなく身を任せた。名残惜しいけど、帰らなくてはいけない、と、分かっていたから、抗わなかった。 そして‥‥‥。
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麻衣は、目を覚ました。 「間抜け面ですわね。いつものことですけど」 麻衣は、目を瞬いた。そうして、寝転がっている麻衣を見下ろしている真砂子を、見上げた。唐突過ぎる場面転換に、頭が追いついていなかった。だから、麻衣は、ええと、と、呟きつつ、必死に記憶をたぐり寄せる。 桜。 そう桜の。 桜の夢を、見ていた。 「さくらがきれいだった」 「ぼけてますわね」 折角思い出した美しい景色に、真砂子がけちをつけた。麻衣は、違うもん、と、反論する。けれど、それ以上を、言うことが、いけない気がして、口ごもった。 夢の中、ジーンに出会ったことは、能力を発現したことは、真砂子には、言ってはいけないような気がした。そんな遠慮をしたことがばれたら、烈火の如く怒られる気もしたが、やっぱり、言いにくい。 「私、山に行きますの」 「は?」 脈絡のない唐突な言葉に、麻衣は、また、目を瞬いた。山、山って、なんのこと、また、なにか忘れているのかな、と、ちょっとどきどきした。 「修行に行きますの。松崎さんに紹介して頂いた所で、一度入れば、修行が終わるまでは、出られないし、外からの連絡も一切取り次いで貰えない、家族になにかあっても教えて貰えない、という所ですの。だから、行く前に、挨拶しておこうと思って、今日は、来ましたの」 「‥‥‥しゅぎょう」 ぼんやりと言葉を返した麻衣に、真砂子は、発音がみっともないですわ、と、手厳しい言葉を返した。いつものように、けれど、ここ最近は、ずっと聞いていなかった気がする、きびきびとした声で。 (‥‥‥決めたんだ) 不意に、麻衣は、そんな風に思った。山に行くことではなく修行に行くことではなく、もっと根本的な、とても、大切なことについて、そう思った。それは、麻衣にも、なんと言ったら良いのか分からない。ただ、そう、覚悟、そんな感じのものだ。 「‥‥‥修行しても無意味かもしれません。でも、足掻くだけ足掻いてみますわ。二度と後悔しない為に」 だから、今日は、しばらくのお別れを言いに来ましたの、と、付け足して、真砂子は笑った。笑っているのに泣きそうな、複雑な笑顔だった。 (‥‥‥きっと、大丈夫) 唐突な話題に戸惑いつつも、麻衣は、奇妙に、安堵して、確信していた。 「‥‥‥きっと、大丈夫」 「‥‥‥だといいですけど」 「真砂子だもん」 ある意味無責任な言葉だと分かっていながらも、麻衣は、奇妙な確信に促されるようにして、きっぱりと言い切った。そんな麻衣を、真砂子は、しばらくまじまじと見下ろした後、晴れやかに笑って、麻衣のおでこを、ぴん、と、指で弾いた。 「‥‥‥いたっ」 「酔っぱらいに励まされても、虚しいですわ」 「ひどっ」 「でも、ありがとう、と、言っておきますわ」 ぷい、と、横を向いた真砂子の耳が、仄かに赤くなっていることに、麻衣は気が付いた。 「‥‥‥真砂子って可愛いよね」 「勿論ですわ」 しみじみと呟いた声には、自信に溢れたお言葉が、即座に返ってくる。実に真砂子らしい台詞だった。そのことが、嬉しくて嬉しくて、麻衣は、また、泣きたくなった。けれど、ぐっと堪えて起き上がり、真砂子が視線を向けている、庭へと、視線を向けた。 「‥‥‥桜、本当に、綺麗だよね。切ないぐらい」 「ええ、見事ですわ」 「昔ね、生け垣の向こうの公園も、おばあちゃんのお家だったんだって。でも、おばあちゃんのお父さんが亡くなった時に、維持できなくなって、桜の木を切らないことを条件に、国に譲渡したんだって」 「‥‥‥そうなんですの」 「おばあちゃん、税金要らずの庭付きアパートだって、笑ってた」 「前向きで楽しくて素敵ですわね」 うん、と、頷きつつ、麻衣は、おばあちゃんご自慢の庭を見つめる。 少し低めの生け垣の向こうからは、土地の境界線なんか関係ないよ、と、囁くように、桜の花びらが降り注いでいる。その下では、大好きな人たちが、ご機嫌に笑っている。ナルだけは、ちょっと眉間に皺が寄っていて、ご機嫌とは言い難い辺りが、なんだか、笑えた。 「‥‥‥帰って来たら、連絡頂戴ね。待ってるから」 「勿論ですわ。その時は、一番に連絡を入れますわ」 「一番?」 「ええ、一番に」 「約束だよ」 「約束しますわ」 密やかな約束の言葉は、しばしの別れを内包している。寂しいな、と、麻衣は素直に思った。切ないな、とも。でも、哀しくはなかった。 「またお花見しようね」 「‥‥‥次は、お酒には気を付けてくださいましね」 「‥‥‥はーい」 次の約束が当たり前みたいに出来るのが、嬉しくて、麻衣は、笑った。 そうして、真砂子と二人で笑い合いながら、どちらともなく立ち上がり、再び、仲間たちの笑顔に迎えられて、花見の輪へと加わった。
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