‥‥‥‥‥‥‥

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 其処は、見渡す限り、暗かった。

 どこまでもどこまでも暗かった。

────夢だ。

 果てがない黒い大地と、濃い紫色を含んだ陰鬱な空が、どこまでも、続いていた。

────いつもの夢だ。

 そんな場所は知らないはずなのに、なぜか、知っている気がした。

 けれど、どうして、そんな所に居るのかは、分からなかった。

 其処(そこ)は、見渡す限り、暗く。

 どこに行けば良いのかも分からなかった。

────これは夢。

────忘れてしまう夢。

 なにかないかと周囲を見回す。

 心の奥底でなにかを感じた気がした。

 けれど、其処には、なにもない。

 ただ、目の端で、なにかの反射のような銀色の光を見た気がした。

 けれど、分からなかった。

 見付けられなかった。

────これは夢。

────早く目覚めなくては。

 どうにかしなくては、と、思った。

 けれど、足は、一歩も、動かない。

 見下ろせば、足下も、暗かった。

 真っ暗だった。

 どうしてそんなに暗いのか分からず、けれど、不思議と、恐ろしくはなかった。

 ただ、寂しかった。

 だから‥‥‥。

 呼びたかった。

────これは夢。

 呼ばなくてはいけない気がした。

 呼ばなくてはすべてが終わってしまう気がした。

 どうしてそんなことを思うのかは分からず、けれど、確信していた。

 世界は、いま、終わり掛けているのだと。

 けれど、ふと、疑問を抱く。

 どうして。

 それを。

 止めなくては。

 ならないのかと。

 だって‥‥‥。

 

 

 

 

────だって、世界は、とうの昔に‥‥‥‥。

 

 

 

 

     

 

 

 いつもの日、いつもの時間、いつものオフィス、いつもの所長室で。

 唐突に、私は、気が付いた。

 私の目の前に居るのが、なんなのかを。

 初めて会った時からどこか変だとは思っていた。

 なんか違うな、と、分かっていた。

 あとからたくさん理由が出てきて納得したけれどなんだか異和感があった。

 そもそもなんで一緒に居るのか分からなかった。

 だって、おかしいよ。

────偶然?

────運命?

────必然?

 そんなもので括られるようなものじゃないと、漠然と、思った。

 多分、意識できない心の奥底で、分かっていた。

 逃げなくては、と、思っていたとも思う。

 けれど、逃げられなかった。

 正確には、逃げなかった。

 それは、間違いなく、私の、選択。

 けれど、だからといって、これは酷(ひど)い、と、思う。

「‥‥‥あの人は知らないの?」

 問い掛ければ、冷たい声が返ってくる。

「ああ、忘れているみたいだな。まあ、仕方ない。それが望みだったのだから」

「‥‥‥だったら最後まで騙してあげればいいのに」

「それは無理だ」

「どうして?」

「死者とは契約できない」

 酷(ひど)い言葉だと思った。

 そして、唐突に、嫌な考えが脳裏を過(よ)ぎった。

 まさか、と、思いたい。

 けれど、昔話や神話なんかを思い出せば、信じることは難しい。

「‥‥‥あなたが殺したの?」

「まさか。そんなことをする必要はないし、興味もない。ほんの僅かな時間を人間として過ごすことは、大したことではないし、意外と面白い。だから、いまも、ここに居る」

 そう言って笑う人は、本当に、楽しそうだった。

 でも、楽しそうだけど、冷たい冷たい冷たい熱の無い笑顔だった。

 人間じゃないなんて馬鹿らしいと思いたいのに、ああ、本当なんだな、と、実感してしまうほどに、人でなしの笑顔だった。そして、その笑顔を見ながら、麻衣は、どうして、見破ってしまったのだろうか、と、悔やんでいた。

 騙されたままでいたかった。

 なにも知らないままでいたかった。

 けれど、もう、遅い。

 麻衣は、見破ってしまった。

 唐突に、悟ってしまったのだ。

 目の前に、居る人は、座っている人は、麻衣が見ている人は、違う生き物だと。

「契約は、とても、簡単なものだ。寂しかった子供は、ふらりと現れた悪魔に、家族が欲しいと願ったんだ。昔から、あれは、底なしの馬鹿だった」

 見破られた途端、それは、本性を現した。

 そして、嘘みたいに、素早く、捕まえられた。

 真っ暗な檻の中に閉じ込められた。

 そうして、聞きたくないことを、教えられた。

────そして、私は、知っている。

 目の前の悪魔が、なにを願っているのかを。

 悪魔は契約無しではここに居られない。

 ここは奇蹟は滅多にないけれど、とりあえずは、神様の見張る世界。

 悪魔は神様に駆逐される。

 けれど人間は神様に愛されている。

 だから神様に愛された人間に呼ばれれば、悪魔はここに現れることができる。

 ここに居ることができる。

 だから悪魔は契約を結ぶ。

 だから悪魔は願いを叶える。

 そうして代償に悪魔を嫌う神様から神様に愛された人間の魂を奪っていく。

────つまり、目の前の、悪魔は、私が、欲しいのだ。

 願いを叶えて、連れ去ってしまいたいのだ。

 なんて酷(ひど)い生き物だろう。

 それは、決して、私を、欲しているわけではない。

 彼は、ただ単に、そういう衝動を持つ生き物だ。

 そして、その衝動は、気まぐれで、弱い。

 幼い子供が、道端に転がっているほんの少し変わった小石を拾う程度。

 気に入らなければ、放り出す程度なのだ。

 それは、結局は、どうでもよい暇つぶし、ということだ。

「‥‥‥さて、願いを聞こうか」

 なのに、そう分かっているのに、私は、聞いた。

「‥‥‥なにもかも嘘だったの?」

 悪魔は、笑った。

「なにもかも本当だった。あいつの願いは本当の家族が欲しいという願いだったから、嘘偽りなど無かった。あいつが死ぬまでは」

「‥‥‥どうしてここに居るの?」

「ここは意外と面白い。だから、ほんの少し融通を効かせて、ここに居る。けれど、それも、そろそろ期限切れだ。だから、待っていた」

 なにを、と、聞くほど、私は、馬鹿じゃない。

 食い入るように見つめられて分からないほど愚かではない。

────彼は、待っていたのだ。

────私が、彼の本性を、見破る時を。

「きっと、麻衣なら、気が付くだろうと思っていた」

 嬉しげに笑って告げるのは、悪魔。

 人ではないもの。

「一番初めに気が付いた人間の願いを叶えてやろうと思っていた」

 願いを告げれば、きっと、なんでも叶うのだろう。

 けれど、願いは、なにも、出てこない。

 頭の中は、真っ暗な闇の中に居るのに真っ白だ。

 叫びたくて。

 逃げたくて。

 泣きたくて。

 仕方なくて。

 どうして自分がこんな酷(ひど)い目に合わなくてはならないのかと思う。

────騙されたままでいたかった。

────気付きたくなかった。

 けれど、もう、なにもかもが遅い。

 私は、気付いてしまったのだから。

「‥‥‥あの人がさまよっているのはどうして?」

「分かっているだろう?」

 問い掛けに問い掛けが返される。

────確かに、認めたくなくても、分かっていた。

 それが、融通の一つの条件なのだろう、と。

 死者とは契約を結べない。

 けど、あの人は、どこにも行かずに、さまよっている。

 完全な死者ではない。

 少なくとも、そうやって、ごまかせる程度には。

「‥‥‥さあ、麻衣、願い事を」

 そんなものない、と、逃げ出したい。

 けれど、そんなことできるわけがない。

 逃がす気がないのは良く分かっている。

 分かりたくないけど分かっている。

 ならば、もう、諦めるしかないのだろう。

 私は、深々と、息を、吐き出した。

 そうして、ほんの少し前まで、人間だと信じていた、恋人だと思っていた、悪魔に、問い掛ける。

「‥‥‥あなたの願い事はなに?」

 願い事なんて、本当に、ないの。

 だって、あなたが、なにもかも、壊したもの。

 綺麗な顔の、不器用で優しい恋人は、もう、どこにも、居ないのだもの。

 それが本当じゃないと分かっているのに、それが欲しいなんて、言えない。

 言いたくも願いたくもない。

 だから、あなたの願いを叶えてあげる。

「‥‥‥ねえ、ナル、あなたの願い事はなに?」

 幸せな時間をくれたお返しに。

 魂が欲しいなら持っていけばいい。

 でもね、心は、あげない。

 私の心は、あなたが消した不器用で優しい人のものだもの。

 だから、そんな顔をしないで。

 悪魔のくせに。

 哀しそうな顔をするなんて、馬鹿みたい。

────後悔するなら、一生、騙し続けてくれれば良かったのに。

 それともそれさえも手段なのかもしれないけれど。

 どちらでも構わない。

 だって、大好きなあの人は、もう、どこにも居ないのだから‥‥‥。

 

 

     

 

 

 唐突に、気が付いた。

────見破られた。

 彼女に。

 よりにもよって彼女に。

 いや、それは、分かっていたことだった。

 見破るのなら、それは、彼女だろうと。

 いや、そんなことよりも、重要なのは、自分が、人ではないことだ。

────見破られた。

 その瞬間に、意識が、切り替わったので、彼女は、気が付いていないだろうが、実は、酷(ひど)く、驚いていた。そして、笑えるほどに、すべてが、滑稽だと思っていた。

────なにもかもが偽りだった。

 ほんの僅か。長くても百年。

 それぐらいなら付き合ってやっても良いと気まぐれを起こしたのが、つい、昨日のことのように思えた。けれど、もう、その相手は、居ない。死んでしまった。

 けれど、まだ、こちら側に居る。

 それがなぜかなどと、いまは、問う必要もない。

 引き留めているのは自分。

 契約の解約を引き延ばしこちらに留まろうとしているのも自分。

 それは、笑えるほど滑稽なことだった。

 そして、悔しいほどに狡猾だった。

 まさか自分が、こんな、愚かな罠に陥るとは。

 しかも、そのことに、問い掛けられる瞬間まで、気が付かないとは。

────なんという失態。

 だが、もはや、逃げられない。

 目の前には、彼女が、居る。

 闇の檻の中で、それでも、彼女のまま、そこに居る。

 その彼女が、すべての、元凶。

────狡猾な神の仕組んだ罠。

 時折、彼女のような人間が現れることを、知っている。

 人間であることは間違いなく、だが、薫(かお)る魂の香気は気高い。

 闇の中から様々なものを引きずり出すほどに。

 人間になりきっていた悪魔を惹き付けてしまうほどに。

────それはすべて狡猾な罠。

 もはや、そこから、逃れる術(すべ)はない。

 けれど、逃れようと足掻くことは本能だ。

 引きずり出され光に焼かれるのは忌まわしい。

 だが、もはや、逃れられない。

 ささやかなたわいのない言葉を交わしながら、分かっている。

 けっして、彼女は、こちら側には堕ちて来ないと。

 どれほど唆そうと間違えないと。

 その魂の香気がすべてを語る。

────彼女は神に愛された愛し子。

 手に入れることなどできるわけもない。

 けれど、従うことはできる。

 忌むべき従属、光に焼かれて、苦しむと分かっていても。

 もはや、逃れる術(すべ)はない。

 だから、告げなくてはならない。

「‥‥‥あなたの願い事はなに?」

 いま、目の前で問い掛けるのは、たかが人間、先ほどまでは愛しい恋人、だが、いまは、気高く薫る香気を纏(まと)う神の愛し子。神が用意した狡猾な罠。

 問い掛けはあらがい難い力を持ち、制約を課す。

 その問い掛けを発するまでは、無力な、ただの、人間だったのに。

 手に入れることなど、容易いと、嗤(わら)っていたのに。

 ほんの僅かな時間潰しだと、思っていたのに。

 僅かな時間で、すべてが、ひっくり返された。

 恐ろしいほど、鮮やかに。

 なんという、狡猾な、罠。

 あるいは人として生きているきっかけを作った愚かな子供さえも、すべては、定められたことなのかもしれない。

 けれど、それら全ては、いまは、どうでも良い。

 いまは、告げなくてはならない。

「‥‥‥ねえ、ナル、あなたの願い事はなに?」

 薫る香気に跪き、契約を乞わなくてはならない。

 手酷い裏切りに傷ついた彼女を、本当に、喪う前に。

 この身の闇のすべてを捧げることを。

 誓わなくてはならない。

────たとえば、それでも、永遠に、許されなくとも。

 それでも構わない。

 気高く薫る香気が間近に在るのならば。

「‥‥‥僕の願いは‥‥‥」

 たとえ、それが、どれほどに、忌まわしいことでも。

 それで、構わないのだ。

 

 

 

     

 

 

 ふわふわと心地の良い場所に居た。

 いつまでも漂っていたい暖かさが気持ち良い。

 呼ばれた気がして見上げた空はどこまでも白く。

 綺麗だった。

────帰ろう。

 声がした。

 空気を震わせない声がした。

 体の内側に響く声がした。

────いまならまだ大丈夫。

 知らない人だった。

 けれどどこか懐かしい気がした。

 いつのまにか目の前に居て。

 良く分からないことを言うけれど。

 悪い人ではないと思った。

────帰ろう。

 どこへ、と、問い掛けるのは無意味な気がした。

 白い指先が、空を指し示していた。

 もう片方の手が、差し伸べられていた。

────帰ろう。

 その手を取れば、きっと、暖かい。

 きっと楽になれる。

 なにもかもを放り投げて。

 帰れる。

 そんなことを、ぼんやり、と、思った。

 どこか嬉しく寂しく切なく思った。

 嬉しいのは、迎えに来てくれたから。

 寂しいのは、無理矢理連れて帰ってくれぬから。

 切ないのは、帰れないから。

 帰れないと私はもう知っているのだ。

────還れない。

 そう告げると、白い手の持ち主は、哀しそうだった。

 可哀想に、と、嘆いてくれるのが分かった。

 けれど、還れない。

 どうしても還れなかった。

 

 

     ※

 

 

 ‥‥‥と、いう、夢を見た、と、私は、語った。

 酷(ひど)く強ばった顔をした恋人に。

 なぜか、目が覚めたら、夢の内容を話せ、と、強請(ねだ)られて。

 優しくてでも意地悪で不器用で賢い綺麗な人は、聞き終わると、いつもとはどこか違う表情を浮かべて、なぜ、と、問い掛けた。

「‥‥‥?」

 なにを聞かれているのか分からなかったので、首を傾(かし)げた。

 考える。

 けれど、分からなかった。

「‥‥‥ええと、なんのこと?」

「‥‥‥なぜ、還れないんだ?」

 ああ、と、私は、納得した。

────────────『‥‥‥僕の』

 そんな簡単なことか、と、笑った。

 だって、そんなの、当たり前のことだった。

「だって、白い人と私は違うから」

「‥‥‥違う?」

 夢の中のことを真剣に問い掛ける人は、可愛い、と、思う。 

 いつもの意味のある夢じゃないのに。

 心配してくれるのは嬉しい。

「‥‥‥あのね、白い人には影がなかったの。でもね、私の足下には真っ黒な影があったの。だからね、還れないの。‥‥‥なんでかな。そう思ったの」

 夢の中では当たり前のように確信していたけれど、目覚めれば、笑える話だ。

 影があるなんて当たり前なのに。

────────────『‥‥‥僕の願いは』

 影が無い方がおかしい。

 変だよねぇ、と、私は、言いかけて、止まった。

 言えなかった。

 強く抱き締められて。

 キスされて。

 嵐の中に、引きずり込まれた。

────────────『‥‥‥僕の願いは、いままでどおり、人として‥‥‥』

 どうしてそうなるのかは良く分からない。

 けれど、大好きな人は、とても、哀しそうだったので。

 今度からは、どれだけ強請(ねだ)られても、意味のない夢の話はしないようにしよう、と、思った。

 

 

 

     

 

 

「‥‥‥麻衣」

 名を呼ぶ声と共に、夜が。

 唐突に、室内に、訪れて、満ちた。

 いつもいつも、本当に、唐突だった。

 予告も兆しもないので、私は、いつも、驚く。

 けれど、すぐに、思い出す。

────ああ、この人は、人ではなかった。

 そんなことを。

 満ちた闇の中で。

 思い出す。

「こちらに」

 いま立っているのは、所長室のはずだった。

 まだ昼で。

 手元には紅茶があった。

 ほんの数瞬前までは、日常があった。

 けれど、いまは、なにもない。

 真っ暗な闇の中には、闇そのもののような存在が立っていて、手を差し伸べている。

 近付けば、柔らかな笑みが返ってくる。

 いつもは浮かべない笑みは、私を、酷(ひど)く、追い詰める。

「ここに、座って」

 闇の中に、いつもの椅子があるのは、ひどく、おかしかった。

 けれど言われるまま、座った。

 逆らうつもりはなかった。

 逆らっても無駄だと分かっていると言うよりは、なにもかも、どうでも良いのだ。

 だが、いつも、不思議には思う。

 目の前の存在は人ではなくて。

 優しい意地悪な恋人は幻のはずなのに。

 正体を見抜かれても、この存在は、なぜか、ここに留まっている。

 さらには、いつもどおりに暮らす、そんなことを願ったのだ。

 わざわざいつもは私の記憶を消してまで。

────なぜ、そんなことをするのだろう?

 近いと思っていた人はひどく遠くて、なにを考えているのかは、さっぱり分からない。

「足に触れてもいいか?」

「うん。いいよ」

 そして、自分も、良く分からない。

 最初は、ただ、ただ、驚いていた気がする。

 哀しかった気がする。

 騙されていたことが、哀しくて哀しくて、なにもかもどうでも良くなった。

 大切な愛しい人が幻ならば。

 もうなにも要らないと思った。

 それは、いまも、同じで。

 やっぱり、なにもかもどうでも良い気がする。

 けれど、いま、自分は、喚きもせず、泣きもせず、平然と、ここに居て。

 彼も、ここに、居る。

 床に膝をついて、私の、靴と、靴下を、脱がせている。

────それは、なにもかもが、無茶苦茶変な感じがした。

 けれど、その手は、優しくて、丁寧で、嫌な感じがしないので。

 私は、そのまま、動かない。

「‥‥‥細い足首だな」

「そう?」

「‥‥‥折れそうだ」

「そう簡単には折れないと思うよ」

 足を折りたいのだろうか、と、ふと、思う。

 痛いだろうなぁ、と、なんとなく思う。

 けれど、予想に反して、彼は、なにもしない。

 ただ足首を掴んで、しげしげと眺めている。

 いつまでこうしていれば良いのだろうか。

 なにがしたいのか。

 考えても分からないし、聞くのも面倒だったので、紅茶を飲む。

 ちょっと冷めていたけど、美味(おい)しい。

 飲み終わった途端、カップが消えたのは、心臓に悪いけど、便利だ。

「‥‥‥剛胆だな」

 そんなことを思っている私を見上げて、彼は、吐息を吐き出す。

 呆れているような。

 楽しそうな。

 そんな感じで。

「‥‥‥少し痛いかもしれない」

 やはり、折りたいのか。

「‥‥‥折るの?」

 ひどく痛いだろうと予想して、身が竦む。

 けれど、笑われた。

「折るわけがないだろう。ここに、僕の契約者だという印を付けるだけだ」

 指先が、足首を、つつく。

 そうして、ずるり、と、内側に入って来た。

────変な感じだった。

 痛くはなかった。

 どちらかというと、痒(かゆ)い?

「‥‥‥痛いか?」

「‥‥‥痒(かゆ)い」

 正直に告げれば、笑われた。

────彼は、良く、笑う。

 人間の振りをしている時の方がよほど悪魔らしいのは、なんだか、微妙な気持ちにさせられる。こんなに嬉しそうに笑うのは、なんだか、違う気がする。

 変な悪魔だ、と、思った瞬間に、足首から、痺れた。

 電流が、流れたように。

────確かに、痛い。

「痛かったか?」

「‥‥‥痛かった」

 正直に告げれば、また、笑われた。

「相性は悪くないようだ」

「‥‥‥」

 なんのことか分からなかった。

「綺麗に模様が付いた」

 嬉しげな声に促されるようにして足首を見た。

────印。

 ああ、そのとおりだ、と、納得した。

 足首には、奇妙な形の黒い模様が付いていた。

 小さく、けれど、確かに。

 入れ墨のようだ。

「‥‥‥普段は隠れているから心配しなくていい」

 それは、少し、もったいない気がした。

 小さな黒い花のようで可愛いのに。

 そう告げたら、彼は、哀しそうな顔をした。

 悪魔のくせに。

 人間の時より人間臭い。

 そんなおかしな悪魔を見下ろしたまま、私は、笑った。

 笑える自分が少し怖かった。

 

       

     

 

 

「‥‥‥始まりに言(ことば)があった」

 静謐な青白い空間に、奇怪な空気が、満ちていた。

『‥‥‥よば‥‥‥よば‥‥‥よばれている‥‥‥』

 堅く閉められた扉の外は、紛れもなく、静けさに満ちている。

 だが、祈りを捧げるべき最も大切な場は、いまや、対峙の場となっていた。

 相対するのは、どちらも、姿形は、人。

 片方は誓いの証である黒衣を纏(まと)い、浄められた水を片手に、祈る。

 もう片方は、桜色の軽やかな衣服を身に纏(まと)い、その全身を、縛られている。

 痛くないようにと細心の注意を払われての拘束だった。

 だが、暴れのたうつ細身の体は、所々から、血を流していた。

 そうして、見開かれた両目は、夜行性の獣のように、ぎらぎら輝いて、相容れぬ人間を睨み付けている。そして、勿論、その口は、舌を噛まぬようにと、塞がれていた。

 だが、

『‥‥‥おろ‥‥‥おろかな‥‥‥愚かな人の子よ』

 声がした。

 低いしわがれた男の声が、確かに、響いていた。

 その体の持ち主は、いまだ幼い少女であるというのに、声は、低く深く暗く、闇夜を長く這いずったモノにしか吐き出せぬ毒をはらんでいた。

「‥‥‥我らは霊的な鞭と見えざる責め苦でもって、汝を追い立てる者なり」

『‥‥‥この地は‥‥‥すでに‥‥‥人の子のものでなし‥‥‥』

「‥‥‥主によって清められたるこの身体より離れることを、我は汝に求める」

『‥‥‥愚かなり。愚かなり。この地はすでに麗しき御方の住まう土地。愚かなり。愚かなり。もはやこの地は人の子のものでなし』

 毒の声が響くごとに、風が、吹く。

 締め切られた室内に、風が、吹く。

 毒の風が。

 毒の声が。

 室内を満たそうと足掻き、だが、満たすことはできない。

「離れるべし、いずこに潜みおろうと離れ、神に捧げられたる身体をもはや求めるなかれ」

『‥‥‥愚かなり。しかしいまは退(ひ)こうぞ。麗しき御方が生み出す溢れたる災厄が貴様らを呑み込む様を見るために。‥‥‥愚かなり。愚かなり。愚かなり』

 毒の言葉は、徐々に、甲高く響き、最後は、細いソプラノに変わる。

 少女の声に。

『愚かなり!』

 途端、風は止まり、少女は、目を閉じた。

 足掻いていた全身から力が抜けて、弛緩する。

「‥‥‥‥‥‥」

 その幼く哀れな姿を見つめて、黒衣を纏(まと)った金髪の青年は、吐息を吐き出した。

 深く、長い、吐息を。

 

 

     ※

 

 

「‥‥‥お疲れさん」

 言葉と共に差し出されたマグカップの暖かさに、ジョンは、震えた。

 帰って来た。

 戻って来た。

 いまさらな実感が、指先から、伝わって来る。

「‥‥‥どないやった?」

 問い掛けるのは、ジョンの師だった。

 遺伝上の父は別に居るが、ジョンは、彼を父親のように思っている。

 だから、心配は掛けたくない。

 だが、同時に、彼は、師である。

 ましてや、こと、彼らに関しては、彼に相談するのが最善である。

────ジョンは、吐息を、吐き出した。

 そうして、ここ最近、ずっと、胸の内に燻(くすぶ)りつづけたものを、ゆっくりと、言葉にする。

「‥‥‥ここ最近の依頼は‥‥‥なんだか奇妙なんどす。すぐに離れるんどすが離れ方がおかしい‥‥‥暇つぶしに遊ばれているような‥‥‥そんな気がしてならんのどす。それに奇妙なことを‥‥‥この地に、なんか大きいものが居(お)るようなことを‥‥‥ほのめかして離れて行くんどす」

「‥‥‥居(お)るのかもしれんな」

 ジョンは、伏せていた眼差しを上げた。

 そうして、真剣な厳しい眼差しと向き合う。

「ここ最近の騒ぎようは尋常でない。群集うなんかがあるのかもしれん。それともそれを装って居るだけかもしれんが‥‥‥なんかがあることは確かやろな」

「‥‥‥これからもっと苦しむ人が増えるんでしょうか?」

「そうかもしれんし。違うかもしれん。‥‥‥昔、似たようなことがあったと聞いたことがある。詳しく調べておくから、今日は、もう、休んだ方がええ。疲れたやろ」

「‥‥‥でも」

「疲れた時に無理しても、なんもええことはないで」

 穏やかな声に諭(さと)されて、ジョンは、頷いた。

 そうして、連日の疲れに流されて、倒れ込むようにして眠りに落ちた。

 だが、声は、どこまでも。

『愚かなり!』

 どこまでも。

『愚かなり!』

 付き纏(まと)って来た。

 

 

     ※

 

 

「‥‥‥ジョン、顔色が悪いよ。大丈夫?」

 ジョンは、目を、瞬いた。

 そうして、心配そうに見やる人たちの眼差しに気が付いて、あわあわ、と、意味なく手をばたつかせた。彼が、そんな仕草をすることは酷(ひど)く珍しく、周りを囲んでいた者たちを、さらに心配させるとは知らず。

「‥‥‥えと、その、大丈夫どす」

「‥‥‥でも、本当に、顔色が悪いよ」

「きちんと眠っているの?」

「働き過ぎはいかんぞ」

「そうそう。滝川さんを見習って、ほどほどが一番ですよ」

「‥‥‥あのなー」

「誉めているんです」

「‥‥‥そうかい」

 たわいのないいつもの会話に、ジョンは、ほっとした。

 胸の内がほわほわ暖かい。

────だが、しかし。

 和(なご)んでいるわけにはいかなかった。

 今日、ここ、SPRに来たのは、いつもの会話を楽しむためではないのだから。

『‥‥‥おまえさんの好きにしたらええ』

 師の心遣いを無駄にするわけにはいかない。

「‥‥‥あの、皆さんに、お話ししたいことがあるんどす。これからどないなるか分かりませんが‥‥‥万が一の為にも」

『‥‥‥なんもないのが一番やけどなぁ』

 その通りだった。

 何事もなく終われば一番良い。

 けれど、事態は、日毎に、悪化している気がしてならない。

 そして、いつか、それに、彼らが関わるかもしれない。

 ならば、話しておくべきだ。

 たとえ、それが‥‥‥。

 彼が属する組織が、幾重にも隠して、無かったことにしてしまったことだとしても。

「‥‥‥ここ最近、依頼が増えてますどす。これからももっと増えるかもしれませんどす。前にも、似たようなことが起きたことがあったんどす。お師さまが仰るには、前の時は、その後に、えらい強いものが現れて、たくさんの人が亡くなったそうどす。結局、それは、誰も止められなかったそうどす。だから‥‥‥」

────憑(つ)いて来たか。

 言葉の途中、不意に、冷ややかな冷ややかな声がした。

 え、と、ジョンは、声を漏らした。

 そうして、見つめる眼差しを、見返す。

 けれど、そこには、唐突に言葉を切ったジョンを心配する大切な仲間たちの眼差ししかない。

「‥‥‥ジョン、どうしたの?大丈夫?」

「‥‥‥だ、大丈夫どす。ご心配お掛けしてすみませんどす」

「しかし、そりゃ、大変だなあ。気を付けないとな。特に、麻衣はなー」

「ええっっ、なにそれっっ!」

「そのとおりよね」

「同感ですわ」

「‥‥‥ひ、酷(ひど)い」

「まあまあ、ともかく、護符の確認だけはしとかないとな。もうちょっと増やしておくか。特に麻衣の分を」

「‥‥‥ひどい‥‥‥」

「‥‥‥いままでの行動を振り返れば、当然だな」

 え、と、ジョンは、また、戸惑った。

 そうして、いつのまにか、静かにそこに座っている黒衣の青年を見付けた。

 いつのまに、と、思ってから、ジョンは、思い直した。

────いや、彼は、初めからそこに居た。

 そこに居たではないか、と。

「‥‥‥ジョン?」

「おい、本当に、顔色悪いぞ」

「大丈夫?」

 心配そうに問い掛ける人たちの向こうから、静かな眼差しが向けられる。

 どうしてか、ジョンは、その眼差しから、逃れられなかった。

『愚かなり』

 そして、その眼差しは、どこまでも、冷ややかで。

『麗しい御方が住まう』

 どこまでも、深く。

 どこまでも、昏(くら)く。

 どこまでも。

 どこまでも。

 どこまでも‥‥‥‥。

────パシン。

 ジョンは、また、戸惑った。

 なんだか、なにかがおかしい気がして、けれど、よく分からなくて、どう表現すれば良いのかも分からなくて、困惑していた。

 そうして、黒衣の青年が、立ち上がるのを、混乱したまま、なんとなく、見送った。

 そして、先ほどの音が、本を閉ざした音だということを悟り。

────安堵した。

 閉ざされた本の隙間から、奇妙な、黒いなにかが、はみ出していたことにも。

 彼が間近に居ることに畏れを抱いていたことにも。

 気が付かぬままに。

 心の底から安堵した。

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥