‥‥‥‥‥‥‥sss-2

 

 

 それは、唐突に降ってきた。

 声を掛ける暇も、なかった。

 

「麻衣!」

 

 漆黒の相貌が見開かれるのを、私は、見る。

 それで、満足だった。

 

 

 

 Pain

 

 

 

 調査には常に危険が付き纏う。過去、調査に従事していた調査員や協力者たちが大怪我を負ったこともあった。身内ではないが、死者が出たことも。だが、幸運にも、渋谷サイキックリサーチの面々は、いままで、後遺症の残るような怪我などは負わずに済んでいる。それは、彼らを纏めあげる青年の的確な判断のおかげでもあったし、また、誰よりも危険に対して敏感な調査員のおかげであったりした。

 だが、その危険を回避するための鋭敏な感覚は、或いは、彼女にだけは与えてはならない能力であったかもしれない。

 白で統一された病室に寝かされた少女を、ぼんやりと見下ろしながら、滝川はそんなことを思っていた。

 眠っている麻衣は包帯だらけだった。

 麻衣を襲ったのは、カマイタチ。

 無作為に人を傷つけつづけた力は、麻衣の全身を切り裂いた。かろうじて、両腕で庇った目が無事だったのは幸いだったというべきだろう。同じように襲われて、失明した者も居る。また、命を落とした者も。カマイタチで裂かれた傷は、通常の傷より遥かに塞がりにくく、手当を間違えれば、失血死する危険性もはらんでいた。だから、麻衣は、確かに、運がよいのだ。だが、その幸運もいつまで続くだろうか。

 能力の安定さは未だに欠けているものの、徐々に開花していく鋭敏な勘は、人一倍お人好しな少女を、幾度も、幾度も、危険に晒した。危険だと分かるからこそ、麻衣は、自ら乗り込んでいく。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 滝川は、妹のように娘のように可愛がっている少女の髪を梳く。

 綾子が泣きながら切り揃えた髪は、まだ、所々が短い。

「‥‥‥このままじゃあ、麻衣は、いつか、死んじまうぞ」

 巻いた包帯の下、隠されているのは切り傷だけではない。前回の調査で、依頼人を庇って、壁にたたきつけられた打撲の痕が残っている。麻衣の治療をした医師は、付き添ってきた滝川たちを、探るような眼差しで見ていた。

「‥‥‥おまえさんでも、止めるのは、無理か?」

 滝川の問いかけは、病室の壁に凭れている美貌の青年に届いているはずだ。だが、青年は、問いかけには答えない。

 ただ、深い深い漆黒の相貌で、彼を庇って傷ついた恋人を、見ている。

「‥‥‥‥‥‥ぼーさん、席を外してくれ」

 すでに他の者は、渋々と外に出ていた。

 庇われた彼の自尊心の高さを知っているから、なにも言わずに。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥分かった」

 うなづいて立ち去る滝川に視線さえ向けず、ナルは、ただ、麻衣を見た。

 そして、彼女が、目覚めるのを待つ。

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥狸寝入りめ」

 

 二人きりになった室内に、低い声が響く。

 麻衣は、ぱっちりと目を開けて、へへへへ、と笑った。

「だって‥‥‥目を開けたら怒られそうだったし」

 確かに。

 だが、それだけではない、とナルは見抜いていた。ナルに背を向けていた滝川は、守りきれなかった娘を見下ろして、泣くのを堪えていたのだ。いや、もしかしたら、すでに‥‥‥。

「‥‥‥‥‥‥二度と、やるな」

 麻衣は、目を瞬いた。

 そして、悩む。真剣に。

「‥‥‥‥‥‥努力はするけど‥‥‥条件反射みたいなものだから‥‥‥」

 言葉より雄弁な深い吐息に、麻衣は、言葉を濁らせた。そして、いつもと同じ、無表情な恋人に手を差し伸べた。

 白い包帯だらけの、細い手を。

「‥‥‥‥‥‥ナル」

 指先が、見下ろす青年の上着の端を掴む。

「‥‥‥‥‥‥ごめんね」

 見上げる漆黒の相貌は深く、深く、どこまでも深い、闇色。

 その奥にある感情の色を、見抜けないほど、麻衣は鈍感ではなかった。取り繕った無表情の仮面を見破るのは、いまでは、彼女が一番上手だ。

 ナルは、感情を表に出さないようにするのが、上手い。感情を、殺すのが、得意だ。けれど、勿論、なにも感じていないわけではない。

 麻衣は、目を閉じる。瞼の裏側に、銅色(あかがねいろ)の刃が焼き付いている。

 恐ろしい。

 怖い。

 刃の前に立つことを考えるだけで、体が凍り付く。だが、あの時、なにもかもが、弾け飛んだ。

 体の奥から、けたたましく鳴り響く警告も、なにもかも。

「‥‥‥‥‥‥ごめんね」

 どう考えても、約束はできない。

 後悔していない自分を知っているから。

 同じことがあったら、また、同じ事をするだろうと分かっているから。

 そして、それが、どれほど彼を傷つけるか知っていても、どうしても、どうしても、約束することはできないのだ。

 

 不意に、体が、浮いた。

 

 きつく抱き締められているのだと、分かる前に、体中を痛みが走る。

 電流のように。

(‥‥‥‥‥‥‥‥‥痛い‥‥‥‥‥‥‥‥‥)

 けれど、文句は言えない。

 ナルは、もっと、痛い。

 庇われて、傷つかなかったことに、傷ついているから。庇われて、守れなかったことに、傷ついているから。

(‥‥‥‥‥‥‥‥‥痛い‥‥‥‥‥‥‥‥‥)

 体中が、軋むのが分かる。

 体の奥、魂が、軋むのが分かる。

 あの刃は、体だけを傷つけるものではなかった。

 だから、気を付けるように、とジーンに警告されていた。

(‥‥‥‥‥‥‥‥‥痛い‥‥‥‥‥‥‥‥‥)

 じわじわと、手当できない、不可視の傷が、痛む。そこから、銅色の悪夢に侵されていくのだと分かっている。そしてそれを防ぐことが、ひどく難しいことも、間に合わないかもしれないことも、分かっていた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ごめんね‥‥‥‥‥‥」

 最悪な結末を迎えた時、彼がどれほど傷つくか知っているのに。

 それでも、胸を満たすのは、確かな、喜び。

 銅色の刃を受け止めたのは、彼の為ではない。

 彼が傷つくより、自分が傷ついた方が、遥かに、楽だったからだ。

 抱き締められながら目を閉じると、瞼の裏側に、銅色の刃を持った女の姿が見えた。そして、それが、絶叫を上げながら、消えていく様が。

(‥‥‥‥‥‥ああ、今度も大丈夫なんだ‥)

 たまに垣間見ることのできる映像がなんなのか、麻衣は知っている。

 危険を予測する鋭敏な勘は、増大を繰り返し、ついには、未来の一部を麻衣に伝えるようになっていた。

 本当なら、ここで、傷ついて、寝ているのは、ナルだった。

 前回の調査で、依頼人を庇って、壁に叩き付けられたのは滝川だった。

 けれど、それが分かるのは、いつも、一瞬前。

 警告も、忠告も、間に合わない。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ごめんね」

 ナルに抱き締められながら、麻衣は、謝りつづける。

 

 大切な大切な人を守ることができた喜びと、

 

 甘やかな、

 

 痛みを、

 

 感じながら。

 

 

 

 

                end

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