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 ある日、唐突に、ナルは、イギリスに一時帰国することになった。そのことを恋人である麻衣に告げる時、ナルは、ある程度は揉めることを覚悟していた。だが、麻衣は、軽く首を傾げて、

『‥‥‥ナルは、大丈夫?』

 あっさりと了承してから、良く分からない問い掛けをした。

 

 

 

 

 

 

 

ある確定された陳腐なリミット

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナルは、ふと、顔を上げた。

 そして、眉間に皺を寄せた。

『‥‥‥‥‥‥ナル』

 彼が顔を上げたのは、呼ばれた気がしたからだった。ここには居ない彼女に。

 そんなことは、ありえない、と、分かっているはずだった。なのに、そんな当たり前の前提を飛ばした自分が、果てしなく間抜けに思えた。そして、同時に、様々なことが腹立たしかった。  

 日本を離れて、ほぼ一月が経っていた。

 あと二月は、こちらに居る予定だった。

 けれど、ナルは、もう、駄目だった。

 なにもかもが腹立たしくて。

 なにもかもが駄目だった。

 だから、ナルは、諦めた。

『‥‥‥‥‥‥ナル』

 仕方なかった。

 なぜなら、聞こえるのだから。

 ふとした瞬間に、どうしても、彼女の声が、聞こえ‥‥‥いや、求めてしまうのだから、もう、どうしようもなかった。

 いまなら、ナルは、彼女の問い掛けの意味を正しく理解することができた。口惜しく腹立たしいが、確かに、ナルは、大丈夫ではなかった。

 大丈夫ではないことを理解できないほどに。

 憤りにも似た諦めを抱いて、ナルは、立ち上がった。

 そして、自室から出て、階下へと向かう。

 ナルは、決めていた。

 いや、決められていた。

 これ以上は、耐えられない、と。

 だから、彼女を‥‥‥‥‥‥。

「あ、ナル、おはよー。それとも、こんにちは?」

 ‥‥‥彼女は、そこに、居た。

 居ないはずの麻衣は、確かに、そこに居た。

 ナルの自宅のリビングのソファに座り、くつろいでいた。

「‥‥‥麻衣?」

「うん、私。‥‥‥ねえ、ナル、大丈夫?」

 呆然と問い掛けるナルに、麻衣は、笑って、問い掛けた。してやったり、という、顔だった。

「‥‥‥‥‥‥」

 ナルは、返事をしなかった。

 いや、したくなかった。だが、麻衣には、答えなど、分かり切っているようだった。

「やっぱり、大丈夫じゃなかったんだね。困った人」

「‥‥‥おまえは‥‥‥」

「なに?」

「‥‥‥麻衣は、大丈夫なのか?」

 口惜しいというよりはどこか焦りにも似た気持ちが、ふと、沸いて、ナルは、問い掛けた。

 同時に、少し、愕然としていた。

 なぜなら、麻衣は、ナルと違い、まったく平気そうだからだ。ナルは、こんなにも、麻衣に触れたくて仕方ないというのに。麻衣は、平然としていて、落ち着いている。

 そのことが、酷く、理不尽で、危ういことのように思われて仕方なかった。

「うーん、まあ、平気といえば平気かな」

 麻衣は、また、笑った。

 満面の笑みで。

「‥‥‥‥‥‥」

「だって、鈍感で意地っ張りなナルと違って、私は、会いたくなかったら会いに行くから」

 にっこりと笑って言い切って、麻衣は、ナルに両手を伸ばした。

「ナル、抱っこして?」

 勿論、ナルは、強請られるままに抱き締めた。

 そして、今更ながらに、腕の中の小悪魔に、完璧に翻弄されている情けない自分を自覚したのだが、それよりも遙かに上回る喜びに満たされて、どうして離れて居られたのだろう、と、本当に、本当に、今更なことを強く思った。