‥‥‥‥‥‥‥sentaku
「浮気されるのと、居なくなるのと、どっちが嫌?」
Freedom to select
静けさが満ちる室内に、言葉は、唐突に、響いた。 だが、その声は、彼女のいつもの声と違い、静けさを破るものではなかった。 表情も雰囲気もいつもとはまったく違う。 真摯で静かで‥‥‥まるで、祈りを捧げる巫女のような雰囲気を讃えている。 彼女が、時折、そんな雰囲気を讃えることを、問い掛けられた青年は、知っていた。そうして、そんな時に、彼女の唇から漏れる言葉が、決して、戯れ言ではないことも。 だが、いまは、戯れ言だ。 間違いなく。 だから、青年は、無視した。
「ねえ、聞こえてる?」
「浮気されるのと、居なくなるのと、どっちが嫌?」
「ねえ、答えて」
「浮気されるのと、居なくなるのと、どっちが嫌?」
だが、彼女は、返事を聞くまでは、諦めるつもりがないようだった。 そして、忌々しいことに、その言葉は、目前の資料に集まったはずの意識を、乱していく。無視しきれない。 だから、青年は、顔を上げた。 そうしていつもよりさらに凶悪な目つきで彼女を睨み、言い放つ。 「くだらない問いかけに答える気はない」 いつもより数割増しの冷たい声には、本気の苛立ちが込められている。 だから、いつもの彼女なら、それで、引き下がるはずだった。 なのに‥‥‥。 どうしてか‥‥‥。 彼女は‥‥‥。 「だよねぇ」 嬉しそうに笑って、頷いて、彼に、近付いた。 そうして、不機嫌の固まりと化した彼の額に、キスを落とす。 「そんなこと、考えるのもやだよね」 「‥‥‥」 「なのにさ、みんな、選べってしつこくてさ。あ、みんなってぼーさん達じゃないよ。大学の友達。なんか雑誌にそういう質問に答えるコーナーがあったとかで‥‥‥もー、しつこいしつこい。最後は、本気で、嫌いになりそうだった。‥‥‥でもさ、みんなは、なんか、楽しそうに答えていてさ‥‥‥私だけ、おかしいのかなぁ‥‥‥とか思って‥‥‥」 「‥‥‥馬鹿か」 「どうせ馬鹿だもん。例えばの話だって分かってるけど‥‥‥嫌なんだから仕方ないじゃない」 ぷくり、と、膨れる頬に手を伸ばし、青年は吐息を吐き出す。 「‥‥‥違う」 「違う?」 「‥‥‥そんなことで泣く必要がどこにある」 「‥‥‥」 「‥‥‥仮定の話だろう」 「‥‥‥」 「‥‥‥どちらも現実ではない」 「‥‥‥」 伸ばされた手は頬を撫で、腕を掴み、引き寄せる。 そうして青年は、馬鹿なことを問い掛けて馬鹿な理由で泣き出した馬鹿な女を抱き締めた。 「‥‥‥僕はどちらも選んでいない」 「‥‥‥うん」 分かってる。 分かっているんだよ。 囁く声は小さく、続く言葉は、声にならない。 だが、青年には、分かる。 --------それは、決して、現実ではない。 --------現実になる兆しさえもない。 けれど、想像するだけで、嫌なのだと。 思い浮かべただけで泣きたくなるほど、嫌なのだと。 哀しくて仕方ないのだと。 「‥‥‥ごめんね。ナルにも嫌な思いさせて」 擦り寄りながら甘える猫のような女を抱き締めながら、青年は、思う。 彼女の勘違いを正すべきかどうか、微かに、迷う。彼女は、彼が、同じ思いを抱いていると思っているようだが‥‥‥。 実際は、あまりにも、かけ離れている。 --------彼が、返事をしなかったのは、思い浮かべることが哀しかったからではない。考えることが嫌だったわけではない。 様々な選択肢を考えることを放棄することは無意味なことだ。 現実は絶えず流動し、個々の力など、役に立たないことがある。 ましてや、その問いは、彼が、彼女を手に入れると決めた時に、すでに、考えつくした問いの一つだった。 そして、その時に、答えは出した。 それは、いまも、変わっていない。 けれど、それは、決して、彼女には告げられないことだ。 その時、逃げてしまわないように。 隠しておかなくてはいけないことだ。 「‥‥‥ナル、大好き‥‥‥」 時折、なにもかもを暴きたくなる時もあるが。 それでも。 いまが大切だと思う限りは、隠しておかなくてはならないことだ。 「‥‥‥馬鹿なことはもう考えるな」 もう問い掛けるな。 祈りのような願いのような思いを込めて、彼は、囁く。 「‥‥‥僕はここに居る」 そして、小さく頷く愚かで大切な存在を強く抱き締めて、彼は、目を閉じた。 そうして、いつかに、思いを馳せる。 固まり凍えて動かない決意を抱いたまま。 その時が、永久に、訪れないことを願った。
END |
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