kemono
のしかかる獣の重みが心を潰す。
獣の理
一点の穢れなき黄金色、とは、単なる夢幻であったのか。 それとも、変質させてしまったのか。 膝に縋り付き、うっとりと目を閉じる獣を見下ろして、陽子は、かつての姿を思い起こそうと試みた。 冷ややかな眼差し。 凛とした背中。 主である陽子をさえ憂鬱にさせた重い溜息。 それらは、鮮やかに、簡単に、蘇った。 だが、その姿と、いま、手元で喉を鳴らす獣の姿を、イコールで結ぶのはひどく難しいことだった。思わず、吐息が漏れるほどに、難しいことだった。 「‥‥‥っっ」 吐息を吐き出した途端、弛緩していた獣の身体が、びくん、と、跳ねた。 しまった、と、陽子は心中で舌打ちする。 恐る恐る見上げる眼差しに恐れが含まれていることに気が付けば、なおさらに、自分の迂闊さが憎らしかった。 「‥‥‥大丈夫だ」 なるべく優しい声で宥めながら、その言葉の重みのなさに、陽子は、心中で自嘲する。なにが大丈夫なのか、と、叫びたくなる。だが、それら一切は、いま、陽子だけに縋りつく獣に伝えるべきことではない。 それは、もう、國の支えとなるべき台輔ではないのだから。 「‥‥‥大丈夫だ。大丈夫。どこにもいかない。おまえの側にいる。私はおまえの半身だ。なにも心配することはない」 重ねた言葉に安堵したのか、それとも、逃げたのか。 黄金色の美しい壊れた獣は目を閉じた。 そうして、静かに、微かな、寝息が聞こえ始める。間近に居なければ本当に分からない微かな生きている音が。 「‥‥‥大丈夫だ」 その音が聞こえることに安堵しながら、陽子も、また、目を閉じた。 --------どうしてこんなことになったのか。 いまさらな問いを押しつぶし、溢れそうになる涙を、ごまかすように。
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慶の陽。 誇り高き尊い輝きは苛烈にして随一。 ‥‥‥そんな言葉が、囁かれるようになったのはいつ頃だろうか、と、鈴は思いを馳せる。最初の百年は、ともかくばたばたしていただけのような気がする。 けれど、その百年すらも、確かに、尋常ではなかった。 慶の陽は、頑なに凝り固まっていた、凝り固まっていることに気付かなかったものさえも吹き飛ばす勢いがあったのだ。 前代未聞。 そんな言葉は、いつもいつも聞いていた気がする。 破天荒で知られた延王ですら、呆然とさせたことも幾度も。そして、それだけで終わらなかったことが、間違いだったのか。 それとも、それすらも、天意の内なのか。 美しく整えられた指先を見やりながら、鈴は、いまや、慶國の重臣として名を連ねる女は、懐かしく恐ろしい時を思い起こす。 自分の身の回りを自分でしていた頃。 指先の手入れなど後回しだった頃を。 --------その時が良かったとは言わない。 けれど、手先が荒れようと、それが苦でなかったことだけは確かだった。 ただ、先へ、先へ、と、手探りで進むことは恐ろしかったが、手応えがあった。 乗り越えた先に夢を見ることができた。 輝かしい日々を。 民の幸せを。 ‥‥‥幸せにしてやることのできなかった大切な弟分への償いを。 そんなことだけを考えていられた。 中心に慶の陽があることを誇りに。 その間近にいることを嬉しく思い。 ただ、前へ前へと‥‥‥思っていられた。 --------その影で、揺れる不安になど気が付くこともせず。 強い輝きは強い影を生む。 いまの鈴なら、それは、当たり前のことだったのだと思うことができる。そして、それを緩和する為に、なにをしなくてはいけなかったのかも分かる。 慶の陽。 それは、確かに、輝かしい存在だ。 いまも、誇らしく、間近にあることが、嬉しい。 けれど、その輝きは、確かに、國を照らす存在ではあるが、同時に、彼の、欠けてはならぬ半身であったのだ。 奪い取ってはならぬ。 喪わせてはならぬ。 大切な大切な。 存在だったのだ。 --------そのことに迷いなど抱かせてはならなかった。 --------ましてや、絶望など、感じさせてはならなかった。 けれど、もう、すべては、遅い。 『‥‥‥‥ぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!』 尊い美しい黄金色の存在が壊れた瞬間の、魂の叫びが、忘れられない。 血に濡れて震える様が忘れられない。 その血が誰のものであるか思えば、後悔ばかりが胸に溢れる。 --------けれど、そのことばかりを思ってもいられないことも確かだ。 ふと空いた時間に思いを馳せることは仕方なくとも。 鈴は、まだ、壊れていない。 喪ったことに嘆いても、先を見ることを忘れたわけではない。そして、鈴の片割れは、嘆きは、核となるのは、金色の獣ではない。 彼女の核は、どう足掻いても、どれほど時を経ても、あの、小さく、小生意気な、哀れで、強い、子供だった。 それは、多分、よくないことなのだろうけど。 変わることなど考えることもできなかった。
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頬に掠るなま暖かい感触で、陽子は、目を覚ました。 目を開ければ、視界は黄金色で覆われている。 「‥‥‥どうした?」 問い掛ければ、なおさらに、執拗に、頬を、正確には、目元を舐められた。 そうして、のしかかる人の形をした獣は、微かに、言葉を発した。 「‥‥‥‥‥‥ナカナイデ‥‥‥」 いや、それは、言葉ではなかった。 仙であるからこそ聞き取れただけで、仙でなければ、獣の鳴き声しか聞き取れなかったに違いない。 --------それが良いことなのか悪いことなのか。 どちらにせよ、いまは、泣かないでと鳴きながら泣く獣を宥めるのが先だった。 「‥‥‥どうした?嫌な夢でも見たのか」 泣かないで、と、鳴きながら、黄金色の獣は泣いている。 溢れる涙は留まることを知らない。 落ちる涙で胸元が濡れているのが分かる。 「‥‥‥‥‥‥イカナイデ‥‥‥」 「どこにもいかない」 「‥‥‥‥‥‥イカナイデ‥‥‥」 「側にいる。おまえの側に。私はおまえの半身だ」 「‥‥‥‥‥‥デモ‥‥‥ツギノ‥‥‥ハンシンヲ‥‥‥エラベッテイッタ。フリムイテクレナカッタ‥‥‥ワタシハフサワシクナイ」 「夢だ」 嘆く獣の頬を撫でて、陽子は、言い切った。 迷いのない眼差しで見つめて、断言する。 「それは夢だ」 それは真実だった。 そんなことを陽子が言ったことはない。 いや、それに近しいことは幾度か吐露したことがある。 自らが王であるよりももっと相応しい者が居るのではないかと幾度も考えた。 いまだって考えている。 それは‥‥‥どうしても拭いきれない不安だった。 治世百年をとうの昔に越えても、消えないそれは、王である限りは永遠に付きまとう不安だった。 --------そんなことは、半身である青年だとて分かっていただろうに。 「‥‥‥‥‥‥イカナイデ‥‥‥」 いや、分かっているだろう、と、思ったのがいけなかったのだろう。 分かっていても不安になる。 そんなことは良く知っていたのに。 甘えるだけで。 寄り掛かるだけで。 頼るだけで。 その不安を拭い去る努力さえしてやらなかった。 凛とした冷たささえ漂う立ち姿にごまかされて、不安に苛まれていることに気付いてさえやれなかった。彼は、幾度も、幾度も、助けてほしいと信号を送っていたのに。 『‥‥‥あちらにお帰りになりたいのですか?』 そんなことはない、と、確かに、言った。 代償を負ってまで帰りたいと思ったこともない。 だが、懐かしいと思ったのは真実で、あちらの常識に慣れた者と話すことが楽しかったことも本当で‥‥‥彼より優先させたことも確かだった。 それが間違いだった。 優先させた者が、彼にとっても大切な者だったことが、さらに、間違いだった。 --------陽子は嬉しかったのだ。本当に、嬉しかっただけなのだ。 半身の昔を知り、半身の特別でもある者を、死にに行くようなものだと分かっていて送り出したことは辛く、哀しかった。なにもしてやれなかったことが悔しかった。けれど、彼は、彼らは、困難と苦難の道のりを乗り越えて、再び、陽子たちの前に、笑顔を浮かべて、現れてくれた。 --------それが、本当に、本当に、嬉しかったのだ。 だからこそ会えれば笑い。 また会えるように努力をして。 多少の無茶も通した。 そして、その時、なるべく、半身を引きずるよう連れていくようにしたのは、生真面目で融通の効かない半身が、言わないだろうけど、会いたいだろうと気を使った結果だった。 なのに、まさか、辛かったなんて。 捨てられると思い込むほどに辛かったなんて。 自分が、相応しくないと、そんなことまで思うなんて。 考えもしなかった。 黄金色の半身は、いつだって、凛として立っていて。 隣に居て。 ずっと隣に居て。 居るのが当たり前だと思っていたのに。 --------彼もそう思っていると思っていたのに。 それこそがこちらで定められた天意であるはずなのに。 「‥‥‥‥‥‥イカナイデ‥‥‥オイテイカナイデ‥‥‥」 なのに、そのすべてを疑い、半身は、壊れてしまった。 罪を犯し、穢れを負い、もはや、戻ることはない。 戻ることを望むこともしようとしない。 天さえも、見放した。 『‥‥‥あれはもう戻せぬ。一切の干渉を拒んでおる』 哀れなことよ、と、呟きながら、天の意志を告げる女仙の長さえ見放した。 ならば、もう、陽子に打つ手はない。 してやれることと言えば、側に居てやること。 頭を撫でてやること。 慰めてやること。 そうして、縋るように抱き付く手に、この身をくれてやることしかなかった。 いや、これは、彼の、当然の権利だった。 彼は半身だ。 彼は陽子のものだ。 ならば陽子も彼のものだ。 それは、もう、息することと同じように自然なことだった。 いまさら、だ。 いまさら過ぎる。 けれど、それでも、いつも、思う。 どうして気が付いてやれなかったのか。 姿形だけは立派な黄金色の青年の中に、置いていかれる哀しみに深く傷ついている子供が隠れて泣いていたことを。 もっと早くに気が付いていれば。 そうすれば‥‥‥誰も傷つかずに済んだだろうに。 『‥‥‥もう二度とお会いしません。それがお互いの為ですから』 強い、けれど、傷ついた黒い眼差しが、痛い。 彼にとっても、この壊れた黄金色の獣は特別だったろうに。 壊そうと思ったことなど一度もなかっただろうに。
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なにも知らぬ愚か者たちが、ざわめいている。 それらを見下ろしながら、祥瓊は、嫣然と微笑んで、陰りの欠片も見せない。 陰りも。 罅も。 なにもないのよ、と、完璧に体現して見せる。 そうして、美しく整えられた指先を動かすこともなく、周囲を黙らせる。 「‥‥‥主上は、視察に出掛けられた。今日の朝議は私が代わる」 なにか異論のある者はいるか、と、祥瓊は目線で問う。 だが、誰も、異論を唱える者はいない。 そのことに心中で安堵の吐息を吐き出しながら、祥瓊は、さらに、鮮やかな笑みを浮かべて、王の代役を、いつもどおり、さらりとこなして見せた。
「‥‥‥お疲れさま」 いつもといえばいつもの代役をこなしてから、祥瓊は、奥に戻った。 途端、待ちかまえていた仲間が飛び出して来て、笑顔を浮かべて迎えてくれた。 「‥‥‥ほんとーに疲れたわ。でも、もう、慣れたわ」 「‥‥‥またまた無理しちゃって。頬の辺りがひきつっているわよ〜」 くすくす笑いながら頬をつつく娘を、祥瓊は軽く睨む。 だが、いかにも純朴そうな娘は、笑って、流してしまう。 そうして、大役をこなした祥瓊を、祥瓊に戻してくれる。 それは、恐ろしく心地よく、大切なことだった。 --------景の陽。 その言葉が囁かれるようになってから、祥瓊もまた別の名で呼ばれることが多くなった。 --------景の陽に両翼あり。 赤王朝の始まりより王の間近に控える女二人の姿は際立ち目立ったせいだろうか、他にも才と功のある者はたくさん居るというのに、いつのまにか、祥瓊と鈴は別格扱いされるようになった。そして、さらに、両翼扱いの鈴よりも、祥瓊の方が、さらに、格別の扱いになったのは‥‥‥出自と、王の代役という恐ろしい大役を、時折、任せられるようになったからだった。 最初、祥瓊は、それに戸惑った。 私などが、と、拒絶し、懇願され、仕方なく引き受け、やがて誇りに思い‥‥‥そうして、最後には、諦めて受け入れている。 そうして、ほんの一時ではあるが、王の責務を背負い、その重さに毎回目眩を感じている。祥瓊だとて、いまでは、国の要の一人として働いている。なにもかもが手探りの小娘ではない。 なのに、この、肩に掛かる重さのなんという重圧か。 代役とはいえ王の立ち位置に立てば、そこに四六時中縛られている陽子や、かつての父親の‥‥‥何者にも伝わらぬ苦しみに、その圧倒的な孤独に、目眩を感じずにはいられない。 そうして、だからこそ、王としてではなく接してくれる存在の重みが、分かってしまう。王としてではなく父親としての顔を見せていた気持ちが分かるような気がしてしまう。‥‥‥民の為を思えば、決して、誉められたことではないのは確かだ。父は、王でなくてはならなかった。娘を溺愛するより先に娘を公主として教育しなくてはならなかった。 けれど、しかし、それが、本当に正しかったのか。 それが‥‥‥祥瓊には分からなくなった。 王の孤独を垣間みたいまは‥‥‥。 多くに囲まれながら。 ただ一人の孤独を知った今は。 そのあまりにもささやかな幸せを奪うことの罪深さばかりが目に付く。 「‥‥‥祥瓊、どうしたの、大丈夫?」 だって、彼女が、鈴がいなかったら? 他に支えてくれる人は居る。 分かってくれる人は居る。 けれど、ひどく近く、間近で、いつも側に居てくれて、こうして、景の陽の両翼から、王の代役から、祥瓊に戻してくれる人が居なかったら? --------耐えられない。 人に囲まれて、きっと、寂しさで、潰れてしまう。 あの、誰にも頼ることができずに、狂ってしまった、神の獣のように。 「‥‥‥ねえ、鈴」 「なあに?‥‥‥ほらほら、お茶、飲んで。美味しいわよ」 「‥‥‥ずっと側に居てくれる?」 「当たり前じゃない。あたしたちは景の陽の両翼じゃない。片方だけだとみっともなくて仕方ないじゃない」 「‥‥‥そうね。そうよね」 でも、と、祥瓊は心中だけで思う。 天意という絶対の繋がりさえ危ういのに。 両翼がずっと側に居るなんて信用できない、と。 けれど、でも、それでも。 「‥‥‥大丈夫だってば。あたしはどこにも行かない」 いまだけは、鈴を、信じよう。 鈴は、ここに居て。 笑っていてくれるのだから。 「‥‥‥大丈夫だから。だから、そんな顔しないで。ほら、少し、寝なさいよ。疲れているからろくなこと考えないのよ」 「‥‥‥うん。そうね」 「‥‥‥大丈夫。大丈夫だから」 「‥‥‥うん。鈴がそう言うなら‥‥‥大丈夫だよね‥‥‥」
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青白い疲れ果てた美しい顔を見下ろして、鈴は、王の責務の重さに目眩を感じる。そして、犯した罪の重さに喘ぐ。 祥瓊は優秀で強い。そしてかつては公主であった。‥‥‥ただそれだけで、鈴たちは、祥瓊に、王の代役という大役を押し付けてしまった。 --------仕方のないことではあった。 唐突に、王が、王としての責務を果たせなくなるのだから、どうしても、代役は必要だったのだ。 けれど、鈴たちは、それが、これほどに長引くとは。 祥瓊にこれほどに負担を掛けるとは。 思ってもいなかった。 結局の所、鈴達は、分かっていなかったということかもしれない。 玉座の重さというものを。 それによって傷つくということを。 --------それがどれほど癒えがたい傷をつけるかと言うことを。 「‥‥‥お疲れさま。本当に‥‥‥お疲れさま」 もしかしたら、と、鈴は、思う。 思ってはいけないことかもしれないけれど、漠然と、不安に思う。 いまは、非常事態だと、思っていた。 いつかは‥‥‥かつてのような光景が戻って来るのだと。 だが、もう、あれから、五年が過ぎた。 けれど、未だに、台輔が正気に返ることはない。 獣と成り果て。 半身以外と会うことすらできない。 --------その状態から、本当に、戻れるのだろうか? いつかは戻る、戻して見せる、と、景の陽は語った。だが、いま思えば、陽子でさえ、どこか、諦めている風ではなかったか。このままだと思ったからこそ、祥瓊に代役を強引に頼んだのではないのか。 『‥‥‥私が、悪いんだ』 思い詰めた暗い横顔を思い出して、鈴は、首を横に振った。そうして、悪い予感を払おうとするが、どうしても払いきれない。 そして、脳裏には。 穢れてはならぬ存在が。 『‥‥ぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!』 穢れ。 主と。 妖魔と。 同族と。 己の。 血に濡れ。 壊れた瞬間が。 甦って、不安を増大させて、問い掛けてくる。 --------あれが。 --------本当にあれが。 --------元に戻れると。 --------思えるのか、と。
【補足】 「獣の理」が完売した後、完結編を発行しましたので、「獣の理」を大人向け部分を省いてアップしました。
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