haru3
美しい生き物が、青白い顔で、陽子を見ていた。 黄金色の長い髪が、陽光を弾き返しながら、さざめくのを、陽子は、うつくしいな、と、素直に認めた。 そして、陽子は、不思議だな、と、思った。 こんなうつくしい生き物が、自分を、自分などを、主と呼ぶことに。 そして、表情にはなかなか出ないが、真摯で誠実でひたむきな思いを寄せてくれていることに、分かっているのに、驚いてしまう。 いまも、うつくしい生き物は、陽子が呼ぶまでは、決して近付かず、だが、側を離れずに、辛抱強く、待っていてくれた。 その、純粋でいて強い思いやりは、いまの陽子には、眩しく、有り難かった。 --------このうつくしい生き物は裏切らない。 そう思えることは、陽子には、裏切りに出会う回数が多い王には、あまりにも、貴いことだった。 --------決してこのうつくしい生き物は陽子を裏切らない。 だから、陽子は、うつくしい生き物が、おずおずと、だが、確かに、間近に近付いても警戒はしなかった。そうして、壊れ物を扱うように、陽子を抱き締めても、抗うことはしなかった。ただし、抱き締め返すことはしなかったが。 「‥‥‥‥‥‥主上」 うつくしい生き物は、なぜか、声を震わせる。 「お体が冷え切っておられます‥‥‥」 「ああ、そうだな。手足の感覚が、少し、遠い」 「‥‥‥‥‥‥」 当然のことなので、当然のように、陽子は答えた。 途端、間近にいるうつくしい生き物の気配は、ゆらりと揺れた。 陽子が顔を上げると、景麒は常にない不安そうな、どこか、泣きそうな顔をしていた。 「‥‥‥景麒?」 「‥‥‥私は、春が、嫌いでした」 陽子は、欠片も予想していなかった言葉を告げられて、目を見開いた。 景麒は麒麟、慈悲の塊である。 不快感を示すことはあっても、特定の誰かははっきりと嫌うようなことは、非常に珍しい。どちらかといえば、その愚かさも分かっていて、哀れむことが多いのに‥‥‥。 「‥‥‥とても、とても、嫌いでした」 なのに、いま、景麒の紫色の瞳には、確かな、拒絶の色がある。 「‥‥‥けいき‥‥‥」 陽子は、ふと、足下が崩れるような心地を味わった。 景麒は、麒麟である。 麒麟は、慈悲の生き物である。 と、いう、当然のことが、揺らぎ、そして、恐ろしい結論が出てしまいそうだった。陽子を支えている、景麒という存在の意味を、揺るがすような、結論が。 「‥‥‥主上は、春を、大切になさっていた。急速に親しくなられ、主上は、楽しそうになされていた。それが、とても、羨ましかった。私では、主上を、あんなに嬉しそうな顔にしてさしあげることができないから‥‥‥」 陽子は、またも、予想外のことを言われて、戸惑った。 「‥‥‥ですから、春が、嫌いでした。いまは、憎んでも、います」 陽子の戸惑いなど分かっているだろうに、景麒は、言葉を続けた。 そうして、強い色を浮かべた紫の瞳で、陽子を射抜く。 「‥‥‥私にできないことを簡単に成し遂げて、私が欲していたものをすべて投げ捨てたことを‥‥‥憎んでいます」 それは、遠回しな、だが、強烈な、好意の表れだった。 慈悲の生き物が、陽子の気持ちを求めて、一介の女官に嫉妬していたというのだ。 --------このうつくしい生き物はそこまで‥‥‥。 なぜか、陽子は、酷く、切ない気持ちに襲われた。好かれて喜ぶべきなのに、だが、どうしても、切ない。 「‥‥‥そして、残念に思います。嫌いでしたし、羨ましくて、仕方なかったけれど、あなた方は、とても‥‥‥幸せそうにしていたから‥‥‥」 ああ、と、陽子は、心中で、吐息を吐き出した。 そして、遠回しにもほどがある慰めの言葉を、受け入れる。 彼は、彼も、惜しんでくれているのだ。 哀しんでいてくれるのだ。 彼の物事の中心には、陽子が居るけれど、だが、それでも。 いや、だからこそ。 --------うつくしい生き物は、春、という存在が喪われたことを。 --------惜しんでくれるのだ。 そう思うと、ひどく、なにかが、慰められた気がした。 うまく言葉では言い表せないのだけど、気持ちが、緩んだ気がした。そうして、また、涙が、溢れて、止まらなかった。 「‥‥‥主上。私は、ずっと、側に居ります。私では、喜ばせてさしあげることはまともにできませんが‥‥‥ずっと‥‥‥側に居ります」 真摯でひたむきな言葉は、当たり前だけれども、人が誓うにはあまりにも難しいことを、当たり前のように、誓った。 --------春。 --------春。 --------そういえば、あなたは、誓わなかったね。 暖かな笑顔を思い浮かべて、陽子は、もう居ない人に問い掛ける。 --------未来の約束を。 --------春。 --------春。 --------あなたは何一つ、告げなかった。 --------春。 --------春。 --------あなたはこの結末を、分かっていたのだろうか。 --------決めていたのだろうか。 恐ろしく、だが、切ない疑問を、陽子は、抱く。 考えれば考えるほど、切なかった。 だが、もう、先程感じていたような、身を切るような孤独感は、消え失せていた。世界中でただ一人であるような、虚無感も。 「‥‥‥主上。ずっと‥‥‥お側に‥‥‥」 なぜなら、陽子は、一人ではないからだ。 人は寄り添ってはくれぬかもしれない。 いつかは、すべての人が、裏切るかもしれない。 だが、 「‥‥‥‥‥‥主上」 壊れ物のように陽子を抱き締めてくれる、人の形を取ることもできるうつくしい生き物は、美しい獣は、側に居てくれるだろう。 それが、当たり前に約束されているだけで、十二分に思えた。 --------春。 --------春。 --------景麒を大切にしなさい、と、あなたは、繰り返したね。 --------春。 --------春。 --------景麒はあなたが羨ましかったらしいよ。 --------春。 --------春。 --------私は、そんなこと、欠片も、気付かなかったよ。 --------春。 --------春。 --------私は、鈍いから、あなたの気持ちが、いまも、分からない。 --------春。 --------春。 --------それが、とても、哀しいよ。 陽子は、景麒を、そっと、抱き締め返した。 そうして、いまは、いまだけは、後少しだけ、と、心に決めて。 穏やかな笑顔を浮かべていた女を。 反逆の罪を犯した女を。 陽子を裏切った女を。 心から、悼んだ。
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