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 初春。

 慶東國の首都、尭天は、穏やかな日差しに包まれていた。

 現在の女王が玉座に座って、波乱の十年を越した幸いな國は、いまだ、貧困の傷跡が生々しいが、それでも、穏やかな日差しを享受できるほどの余裕を、所々に滲ませている。首都の大通りには、前向きな笑顔を浮かべる人が多い。

 だが。

 肝心の國の要、國の源、在る意味、アキレスとでも呼ぶべき存在は、穏やかな春の日差しの恩恵をまったく受け付ける余裕がなかった。

 彼女、景王と呼ばれる、國の要であり、赫赫とした髪を持つ、この國で最も貴い人は‥‥‥‥‥‥。

「‥‥‥‥‥‥」

 自らの居城であるはずの金波宮の奥深く、誰も立ち入らぬ、誰もが忘れ果てたような、雑多な草木が生えている野原のような場所に居た。途中、視線と行き来を留める竹林があるせいか、そこには、本当に、誰も立ち寄らなかった。

 金波宮の主であるはずの陽子だけが、そこに、居た。

「‥‥‥‥‥‥」

 そして、まるで、途方に暮れた迷子のように、背を丸めて、座り込んでいた。

 微動だにしない。

「‥‥‥‥‥‥」

 いや、動けなかった。

 動きたくないのではなくて、陽子は、動けなかった。

 陽子は、分かっていた。

 こんな所にいつまでも居てはいけないことを。

 為さなくてはならない事柄の多さを。

 きちんと把握していた。

 だが。

 陽子は、どうしても、動けなかった。

 動けなかったのだ。

(‥‥‥‥‥‥どうして‥‥‥)

 陽子は、蹲ったまま、疑問を、心中で、叫ぶように浮かべた。

(‥‥‥‥‥‥どうして‥‥‥)

 だが、その疑問に、応えてくれる者は居ない。

 恐らくは、永遠に、現れない。

 なぜなら、陽子の疑問の応えを持つ者は、応えを抱えたまま沈黙を保ち逝ってしまったからだ。

(‥‥‥‥‥‥どうして、私を、庇ったんだ!)

 陽子の問い掛けの先には、穏やかな笑みを浮かべる女が居た。

 美人揃いの女官たちの中では、取り立てて美しいわけではないが、ほっと安堵の吐息を尽かせるような穏やかな空気を纏わせているような女だった。

 だが、雰囲気とは異なり、彼女は、有能だった。

 だから、彼女は、分かっていたはずなのだ。

 陽子を庇わなくても、陽子の身は、使令が、いつものように、守るということも、分かっていたはずなのに。

--------彼女は、陽子を庇って、死んだ。

 それは、あまりにも、重い、ことだった。

 そして、哀しいことだった。

 少なくとも、陽子には。

 だが、公式には、ささいな、犠牲として、記されるだろう。

 彼女の名前さえ、記されるか、どうか、怪しい。

 仕方のないことではあった。

 彼女、春は、一介の女官に過ぎなかったのだから。   

 だが、それが、いや、すべてが、陽子は、たまらなく、哀しく、悔しい。

(‥‥‥‥‥‥どうしてっっっ!)

 春は、一介の女官に過ぎない。

 だが、陽子にとっては、少し、特別な人だった。

 勝手に、陽子は、友人のような人、だと、思っていた。

 だから、哀しくて、悔しくて、分からなくて。

 陽子は、そこから、動けなかった。

 どうしても。

 

 

     ※

 

 

「春、と、申します」

 陽子は、新しい女官が側に付く時は、いつも、時間を作って、話をして、顔を覚えるようにしていた。そして、今日、欠員の出た女官の補充がされ、陽子の目の前には、新しい女官が、立っていた。

 陽子が王となってようやく十年が過ぎ、朝廷は少し落ち着いている。

 だが、年を取らない仙たちの間では、たかが十年、だった。

 朝廷は段々と整っては来ているが、まだまだ、まったく、油断はできず、身近な場所で細々としたことをしてくれる女官も、信用に値する者は少なかった。

 だから、陽子、いや、陽子の周囲に居る人々は、王である陽子の側に近付くことのできる女官の選別には厳しい。

「精一杯、務めに励まさせて頂きます。至らぬ点も多々あると思いますが、誠心誠意頑張らせて頂きます」

 だから、いま、陽子の目の前に現れた女官は、彼らの、厳しい選別をくぐり抜けた有能な人、と、言うことになる。

 だが‥‥‥仙を、見た目で評価することは無意味なことだが、けれど、しかし、どうあっても、いま、目の前に居る人は、そんな風に見えなかった。

 とびきりの美人、と、言うわけではない。

 だが、どこか、ふわふわひらひらしていて、そう、まるで、砂糖菓子のような雰囲気の人だった。

 そして、そのことよりも、その、名前が、陽子の気を引いた。

 春、と、彼女は名乗った。

 勝手に、翻訳してしまう仙としての特性は、理解している。

 だが、彼女は、確かに、はる、と、言ったようだった。

 完璧な、向こう側のイントネーションで。

(‥‥‥まさか)

 陽子は、砂糖菓子のような女性を、じっと見つめた。

(‥‥‥海客?)

 だが、どれだけ見つめても、海客であるかどうかは分からなかった。

 当然だ。

 あちらもこちらも、人は、皆、同じだ。

 分かりやすい色分けがされているわけではない。

 ただ、あちらの人ならば、黒髪黒目の人が多いことは確かだ。

 そして、春、と、名乗った女性は、黒髪黒目だった。

 まさか、と、陽子は、疑問と不安と疑心を抱えた。

 たかが十年、されど十年、陽子は、人間の心の闇をいやというほど見せつけられた。弱い所を探して探して、少しでも、ダメージを与えようとする内外の輩と戦って来た。だから、突然に現れた、海客かもしれない女性などは、最も、警戒しなくてはいけない相手だった。

 陽子は、海客だ。

 そして、胎果である。

 そのことは公然の事実であり、陽子は、幾度も、その事実を盾にして、苦渋を味わわされて来た。また、かつて、同じ胎果という繋がりで、他国の麒麟を手助けする繋がりができたこともあった。

 そのことを良く覚えている者が、陽子を害する為に、この女性を寄越した可能性は‥‥‥あるかもしれない。

 だが、そんなことは、陽子の周囲の人々も分かっているはずだが。

「‥‥‥春。珍しい名前だね」

「はい。私も、いままで、同じ名前の方に会ったことがございません。主上はご存じやもしれませぬが、この名前は、あちら風のようでございます。私の名付け親が、あるいは、主上と同じ海客であったのかもしれませぬ」

「‥‥‥名付け親」

「はい。私を拾って、育ててくれた方です。とても良い方で、素晴らしい方でした。‥‥‥私が成人すると、どこへともなく旅に出掛けられて‥‥‥いまは、どうしているやも分かりませぬが」

「‥‥‥その人は、あちらのことはなにか?」

「いえ、あちらのことはなにも。‥‥‥あるいは、あちこちを旅している人でしたから、他国で、海客の方と親しくされていたのかもしれません」

「‥‥‥そう」

 これなら大丈夫かな、と、陽子は思った。

 海客の匂いはするが、ただ、それだけだ。

 これで陽子の関心を引くことは、いくらなんでも、難しい。

 その程度は、誰にでも、分かることだろう。

「‥‥‥ですから、どうして、この名前を付けてくれたのかは分からないのですが、私は、とても良い名前だと思って、感謝しております。二人と居ない変わった名前ですから、すぐに、名前を覚えて頂けますもの」

「‥‥‥そう、だね。それは、良い利点だ」

 前向きだな、と、陽子は思った。

 他国ではともかく、この國では、海客と繋がりがあるやもしれぬことは、決して、プラスには働かない。むしろ、マイナスばかりだろう。

 だが、そのことを、彼女は、分かっていないはずはないのに、前向きに、前向きに、明るく、言えるのは、凄いな、と、思った。

「‥‥‥‥‥‥お喋りが過ぎますよ」

 ふと、小さな声で、新しい女官の付き添いでやって来ていた女官頭が、新米の女官に囁く声が聞こえた。それは、本当に小さな声だったが、聞こえてしまった。

--------もう少し、話をしてみたいが。

 それでは、この新米の女官は、怒られてしまうだろう。

 陽子は、心中で、軽く息を吐き出してから、女官たちを退出させた。

 

 

     ※

 

 

 春と、初めて出会った時を思い出しながら、陽子は、ひどく、泣きたくなった。

 哀しいような悔しいような懐かしいようなけれどどれでもないような漠然とした気持ちが、胸の内で、混沌と溢れかえっていた。

 敢えて名を付ければ、切ない、と、いうのかもしれない。

--------そう、前向きな人だと、思っていた。

 陽子は、春は、強くて、前向きな人だと、ずっと、思っていた。

 陽子に対して媚びるわけでもなく、いつも、明るく、前向きで、とてもとても心持ちの強い人だと。

 だが、実際は‥‥‥。

『‥‥‥どうでもいいの。國も、民も、王も、天も、私も』

 明るく笑って、だが、彼女は、すべてに、絶望していた。

 そうして、春の明るさに急速に親しみを抱いた陽子を、殺害しようとした者たちに荷担して‥‥‥なのに。

 最後の最後で。

 笑って。

 陽子を庇って。

 死んだ。

--------分からない。分からないよ、春。

 春の関わっていた反乱は、根深く、規模の大きいもので、いま、また、朝は少し荒れていた。だが、表向きは、静けさを保ち、日々は、ただ、過ぎていく。

 それは、良いことだった。

 静けさを保つだけの余裕が、朝にできたということだ。

 なのに、陽子は、切なく、哀しく‥‥‥辛い。

--------どうして‥‥‥。

 いま、春については、調査が進んでいる。

 いずれは、春の生い立ちなどは、明らかにされるだろう。

 もしかしたら、その時、なにかが、分かるやもしれぬ。

 だが‥‥‥。

 たぶん、永遠に、真実は、陽子が知りたい真実は、分からぬだろう、と、陽子は、漠然と確信していた。

--------どうして‥‥‥。

 人に裏切られるのは、陽子にとって、初めてのことではない。

 むしろ、酷く、日常のことであった。

 けれど、どうしても、陽子は、それに、慣れることができない。

 そして、春のことは、どうしても、いつもより、辛い。

--------どうして‥‥‥。

 どうしても、忘れられない。

 陽子を庇った時の。

 あの。

 透明な笑みを。

--------いつかは‥‥‥。

 ふと、陽子は、遙か未来を思う。

--------いつかは、この痛みに慣れるのだろうか。

 何百年も先を。

--------そして、いつかは‥‥‥長く長く生きて、いろんなことが分かるようになれば、あの笑みの意味も分かるようになるんだろうか。

 あるいは、と、陽子は苦く思う。

--------それとも‥‥‥この思いも、すべて、忘れてしまうのだろうか。

 それは、喜ばしいことかもしれない。

 いま、陽子は、とてもとても、辛い。

 忘れてしまいたい、と、思わないでもないのだ。

 けれど、たぶん、それでは、駄目なんだろう、とも、分かっていて、けれど、辛くて、どうしようもなくて‥‥‥陽子は、また、俯いた。

 そうして‥‥‥。

 少し離れた所で、声を掛けるでもなく、近付くでもなく、ただ、ただ、ただ、陽子を見守る人ではない気配を、微かに感じながら。

 時間の許す限り、逝ってしまった人を、想った。

 

  

 

 

                               

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