それは、夜に訪れる。
さざ波
時折、不意に、なにもかもを捨てて楽になりたくなることがある。価値がある大切で愛しいすべてが、唐突に、意味が無くなる。 分かってはいるのだ。 理解してはいるのだ。 この投げ遣りな気持ちは一時のもので、すぐに、いつもの自分が戻って来て、そんなことを思った自分を恥ずかしく思うのだと。 --------分かってはいるのだ。 だが、時折、訪れては、足下を掬おうとするその波は。 ひどく、甘いのだ。 流されてしまおうかと迷うほどには。 だが、やっぱり、分かってはいるのだ。 しん、と、静まり返った静かな夜が。 特になにごともない平穏な時間が。 血の匂いのしない場所に居ることが。 とても、とても、幸運で喜ばしい事なのだと。 望んでなったとはいえ、忍びであるからには、明日にはなにがどうなっているかなど予想も付けられない。里長に命じられて、遥か遠くの国に出向いているかもしれないし、血の香りにまみれているかもしれない。 それとも、いま、望んでいる通りの結末を迎えているだろうか。 それとも。 それとも。 それとも。 幾つもの嫌な未来を想像して、イルカは、背筋を震わせた。 そして、ばかばかしい、と、思いながら、暖かな布団の中で、静かな夜に抱かれながら、背を丸めて、少し、泣いた。 そして、いま、ここに居ない男を思う。 呼ぶ。 --------早く。 きっと、いま、まさに、生死の境に居る男を。 強く、強く、呼ぶ。 --------早く、帰って来い。 男が帰るのは、まだ、当分先のことだと、イルカは、分かっている。 呼んでも意味がないことは分かっている。 明日はどうなるか分からないことも分かっている。 男も自分も。 けれど、男には、帰って来なくてはいけない理由がある。 義務だ。 責任だ。 頑なに男を拒んだイルカから、力尽くですべてを奪い。 男が側に居ないだけで。 男を待つ苦しさに耐えかねて。 すべてを放り出したいと願うほどに、愚かな生き物に、イルカを作り替えてしまったのだから。 --------早く。 だから、男は、早く、帰って来て。 イルカを抱き締めなくてはいけない。 笑い掛けなくてはいけない。 甘く低い言葉で囁かなくてはならない。 『「ただいまー、イルカ先生」』 この、甘く恐ろしいさざ波が、足下を、掬う前に。 待ち続けることに疲れ果てて、身を投げ出す前に。 『「‥‥‥泣かないで、イルカ先生」』 流れた涙を。 拭わなくてはいけない。
たとえなにがあろうとも。 どんな姿になろうとも。 『「‥‥‥ただいまー」』 帰って来なくてはならない。
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