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文章途中に()が入っていることがありますが、ルビが変換されているだけです。

同人誌本文ではルビになってます。 

 

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 麻衣が、壊れた。

 無謀なことを繰り返して、警告を無視し続けた結果、許容量を超えた負荷を受け入れて、心が、壊れた。そして、麻衣の心は、子供に戻り、記憶は、零(ぜろ)に戻った。

 いまの麻衣は、ナルと出会った時のことは勿論、仲間たちのことも、母親のことすら、何一つ覚えていない。だから、ナルは、麻衣の願いを受け入れる訳にはいかなかった。

「お外にいきたいの!」

 ナルのマンションに、保護された麻衣は、いつもはとても大人しい。

 たまに突拍子のないことを言い出してナルを困らせ、リンを凍らせはするが、基本的には素直で馬鹿で聞き分けがよい。だが、今日は、どうしたことか、珍しく、我が儘を繰り返した。

 ナルが書斎から出て来た時、麻衣は、テレビを見ていた。恐らく、なにか興味を引く映像が流れたのだろう。

「お外、いきたい!」

「いまのおまえでは無理だ。行きたければ、さっさと元に戻るんだな」

「よくわかんない! お外!」

 ナルの当然の拒絶に、麻衣は、泣きそうな顔で、叫び返した。

 このままだと泣き出すだろう。

 哀れで愚かな子供が泣く姿は見たくなくて、ナルは、仕方なく、折れた振りをすることにした。

「‥‥‥今日は無理だ。仕事がある。だが、大人しくしていれば、そのうち、連れて行ってやる。おまえの好きな所に」

「‥‥‥すきなところ?」

 泣く子供の相手をしたくなくて、ナルは、正確には、誤魔化した。だが、麻衣は、そんなことにはまったく気付かず、ぱっと顔を輝かせた。

「大人しくよい子にしていたら、おまえの大好きなプリンが、たくさんある所に連れて行ってやってもいい」

「‥‥‥プリン! たくさん!」

 いつもの麻衣ならば騙されるわけがないたわいのない誤魔化しに、いまの麻衣はいとも簡単に騙された。そして、顔を輝かせて、ナルを見つめた。

「嬉しいか?」

「うん!」

「大人しくできるな?」

「うん!」

 威勢良く頷く麻衣の頬を撫でて、ナルは、心中で、馬鹿な女だ、と、呟いた。

 そして、その馬鹿な女が、こんなことになる前から、心底馬鹿だと分かっていたのに、こうなることを止められなかった自分も、吐き気がするほどに、愚かだと、いまさらなことを、強く、思った。

 

 

     ※

 

 

 夜、自宅に戻り、ほっとしていた所に、携帯の呼び出し音が響いて、リンは、溜息を吐き出した。

 谷山麻衣、明るく元気な少女が壊れて、どうにもできずに十日が過ぎた。壊れても、恋人であるナルのことはなんとなく覚えているのが幸いだが、子供返りをした彼女は、ともかく、心臓に悪い。どうしてか、ナルをご主人様と呼んだり、とんでもないことをしたりして、幾度も、リンの寿命を縮めた。

 そして、そのあまりにもあんまりな状態を、少女を猫可愛がりにしている者たちに秘密にしていることも、リンにとっては、かなりの負担だった。なんとかして様子を探ろうと、あの手この手で責められるからだ。

 なまじ有能な者たちばかりの上、心配だろうと思うと強くも出れず、リンは、板挟み状態と、胃が痛いという気持ちを嫌と言うほど味わわされている。

 よって、ただいま、リンは、携帯嫌悪症になりかかっている。だが、出ないわけにもいかない。

 呼び出しているのは、一応上司であるナルなのだから。

 呼び出しているのが、滝川たちでないだけ少しはましか、と、思いつつ、リンは通話ボタンを押した。また、心臓に悪い麻衣が、なにかをしでかしたのだろう、と、半ば、確信しつつ。

『リン、すぐにこちらに来てくれ。麻衣が、消えた』

「‥‥‥は?」

『ぼーさん達も呼び出してくれ。至急だ』

「‥‥‥分かりました」

 いろいろといろいろと納得がいかないことが多々あった。

 そもそもあの部屋は、密室になっている。

 いまの麻衣では、外に出ることは絶対に不可能なはずだった。なのに、どうして、なぜ、無事なのか。

───リンの脳裏に、様々な事柄が、渦巻いた。

 だが、リンは、無駄な問い掛けはせず、通話を切った。そして、大騒ぎになると分かっていたが、責め立てられるだろうと分かってはいたが、為すべきことを、速やかに遂行した。  

 

 

     

 

 

 気が付いたら、麻衣は、なにもかもが分からなくなっていた。

 なにもかもが真っ白で、なにもかもが曖昧で、けれど、麻衣は、不安を感じてはいなかった。最初は怖かったけれど、ご主人様が、側に居てくれたから、大丈夫だと、分かっていた。だから、毎日、大好物のプリンを食べて、たまにお留守番をして、楽しく暮らしていた。

 けれど、時折、不意に‥‥‥。

 なんとかしなければ、という、焦りと共に、足元からぞわぞわとなにかが沸き上がって、麻衣を混乱させた。

 だが、それがどういうことなのかは、麻衣には、全然分からなかった。

 ただ、怖くて、そういう時は、ご主人様の所に逃げるか、泣くか、それだけだった。けれど、その日、その時は、少しだけ、違っていた。

───おいで。

 どこからか聞こえる遠い声と共に感じたのは、最初は、不安だった。なんだかいやだ、と、思った。

 だが、繰り返し呼ばれている内に、その声が、待っていた声だと気が付いて、不安は、消えた。

───おいで。帰っておいで。かわいいこ。

 優しい優しい優しい待ち侘びていた声が、響いて、麻衣は、嬉しくなった。

───おいで。おいで。‥‥‥戻っておいで。

 先程までの怖さは吹き飛んで、麻衣は、ただ、喜びだけに満たされた。

 そして、いつのまにか開け放たれていた扉から、当たり前のように、外に、駆け出した。

───おいで。

───おいで。

───戻っておいで。

 駆け出した麻衣の脳裏には、もはや、大切なはずのご主人さまのことは、欠片(かけら)も残っていなかった。だから、麻衣は、振り返ることさえ、しなかった。

 

 

     ※

 

 

 少し前、九月の半ば、滝川達は、酷(ひど)く後味の悪い調査に巻き込まれていた。

 例年ならば、仏頂面の青年の誕生日を、どうやって祝うかと画策している時期なのに、その年は、誰もが、やりきれない思いを抱えていた。

 調査自体は、実に簡単なことだった。

 最初から、滝川達は、そこ、廃墟となった病院で、子供たちを引きずり込んで殺してしまう悪霊の正体を知っていた。遊ぼうと誘い出して、二人も殺してしまった悪霊は、そこで死んだ子供だった。正確には、長期の虐待を受けて死にかけていた所を、自らの虐待が暴かれるのではないかと慌てた母親がここに捨てに来て、置き去りにされて殺された子供だった。

 年は僅かに六歳。女の子だったという。

 そのあまりにも残酷な事件は、近隣の者もよく知っていた。だから、女の子の悪霊が現れたという噂が流れた時は、誰もが、あああの子か、と、思ったという。そして、滝川たちと同じように、やりきれない気持ちを抱えたのだろう。子供が二人も死んだというのに、依頼は、できれば、浄霊を、というものだった。

 しかし、依頼者である町内会の会長たちと、滝川たちの願いは虚しく、ただの一度も愛されたことのない子供は、真砂子と麻衣の度重なる説得をまったく信じなかった。日を追う毎に、子供の人格は喪われていき、陰りが深くなるばかりだった。もはや、説得は、無理だろう、と、滝川たちは思っていた。

 真砂子と麻衣の消耗も激しかった。

 近日中に、ナルが、除霊の決断を下すだろう、と。

 だが、調査は、まったく別の終わり方をした。なにがどうなったのか、滝川達には良く分からない。ただ、麻衣がなにか無理なことをしたこと。

 魂の底から悪霊になり掛けていた子供の霊が消えたこと。そして、調査終了直後から、麻衣とまったく会えなくなったこと、つまりは、滝川達には会わせられない状態であること‥‥‥それだけが分かっていた。

 そして、心配で心配で堪らない十日が過ぎて、滝川達は、ようやく、呼び出しを受けた。呼び出された滝川たちは、やっと、麻衣に会えるようになったのだと、思っていた。だが‥‥‥。

「‥‥‥麻衣が行方不明って‥‥‥なんだよ、それは」

 ナルのマンションに駆けつけた滝川たちに告げられたのは、まったく正反対の、予想もしていなかったことだった。

 

 

     ※

 

 

───おいで。戻っておいで。

 ふわふわとふわふわとした浮かれた気持ちで、麻衣は、声に導かれるままに、進んでいた。途中途中で、普通ならば有り得ないことが起きていたが、麻衣は、まったく気に留めなかった。見知らぬ誰かの車に乗って、一言の言葉さえも交わすことなく、運ばれても、なにも気にしなかった。

 そして、それは、麻衣と擦れ違った者、関わった者も同じだった。麻衣と同じ、どこか遠くを見ているような目をしたまま、何一つ気にしなかった。

───おいで。帰っておいで。

 秋の夕暮れ時、優しく響く声に、麻衣は、すべてを委ねていた。不安も疑問も何一つ抱くことはなかった。

 ただ、時折、遠く遠くから、ざわざわとするなにかの雑音が響いていたが、麻衣は、無視した。

───麻衣。駄目だよ。

───麻衣。

 引き戻そうとする声に、麻衣は、欠片(かけら)も価値を見出さなかった。そして、

───おいで。戻っておいで。

 呼び寄せる声と共に、時折、微(かす)かに、水の滴り落ちる音が混じることにも、気が付いていたが、気にしなかった。それがなぜなのか、どうしてなのかなど、一度も考えることは、無かった。

───おいで。おいで。かわいいこ。

 ずっとずっとずっと求めていた声の前では。

 すべては、あまりにも、どうでもよいものだった。

───帰っておいで。かわいいわたしのこ。

 

 

 

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥buck