‥‥‥‥‥‥‥

 

 

 

     序

 

 

 息苦しくて、哀しくて、狂おしくて、情けなくて、叫びたかった。

 こんなの嫌だ、と、嘆きたかった。

 けれど、それを、彼女は、許されていなかった。

 彼女自身も、それを、そんな甘えを、許せなかった。

 彼女は、分かっていた。

────すべてが。

────自分の所為だと。

 だから、彼女は、耐えるしかなかった。

 息苦しくて、狭苦しくて、情けなくて、悔しかったけれど。

 耐えるしか、ただ、耐えるしか、なかった。

『‥‥‥大丈夫。もうすぐだから。もう、終わるから』

 優しい大好きな声に頷き返して、本当に、と、問い掛ける代わりに、堅く手を握り締め合って、待つしか、なかった。

────すべてが。

────終わるのを。

────約束が。

────果たされる時を。

『‥‥‥もうすぐだよ』

 もうその遠い遠い約束を覚えている者が、一人しか居なくても。

 それでも、待つしかなかった。

 

 

     ※

 

 

 昼過ぎ、遅めの昼食を食べ終えた富喜子(ふきこ)は、自分の家よりも馴染んだ家の、長い長い、長すぎる廊下を、歩いていた。そして、廊下の端々のチェックをしていた。埃一つ、汚れ一つ、見落とさないように、と。

(あら、花が萎れ掛けているわ。すぐに変えないと)

 廊下の真ん中に飾られた花を見て、富喜子は、花の萎れに気が付いた。

 今朝飾ったはずの花が、もう駄目になっていた。

(奥様に見つかる前に、新しくしないとねぇ。見つかる前に見つけて良かった。こんなのが見つかったら、また、一騒動だよ)

 ここ最近、元々きつい印象のあった雇い主が、さらに、ぴりぴりしていることを思い出して、富喜子は吐息を吐き出した。

(先代が亡くなられてから、良くないことばかりだから、仕方ないけど、あのヒステリーはなんとかして欲しいねぇ)

 心中で愚痴りながらも、富喜子は、萎れた花を手早く抜き去った。

 そして、新しい花を付け足す前にばれないようにと適当に花を整えた。

(新しい花を、早い所、用意しないとね。ああ、でも、勿体ないねぇ。こんなに毎日毎日馬鹿高い花をあちこちにたくさん飾る必要なんかないだろうに。どうせ、ここ最近、お客様も来てないんだしねぇ。先代の時は、こんな無駄なこと、させなかったのに。まったく、見栄っ張りは困ったもんだよねぇ)

 過ぎ去った過去を思い浮かべ、懐かしく親しく感じながら、富喜子は、また、吐息を吐き出した。そして、そろそろ仕事を辞めるべきかもしれない、と、ここ最近ずっと考えていることを、また、考えた。

 富喜子は、十五の時、ここ、名家として名高い高頭谷(たかとうや)家に雇われた。

 それから五十年、富喜子は、真面目に、名家であることは間違いないが、特殊な一面も併せ持つ高頭谷家に、誠実に実直に仕えて来た。先代までは、その富喜子の気持ちに十二分に応えてくれる主たちで、富喜子は、仕事、家政婦の仕事を辞めようと思ったことはなかった。

 むしろ、身体が動く間は、ずっと仕えていたい、と、心底から思っていた。

 けれど、先代が亡くなってから、なにもかもが変わってしまった。

 富喜子が、尊敬し、心底から仕えていた高頭谷家は、いまは、もはや、何処にもなかった。

 誇り高く志し高い名家は、地に堕ちて、かつての名声の抜け殻だけが残り、それに縋(すが)る金の亡者ばかりが、集まっていた。

 そして、哀しいことに、富喜子から見たら、その亡者の中には、当主、先代の一人息子も含まれていた。

(‥‥‥なんで、あんな良い方の息子が、ああなるのかねぇ)

 先代は、富喜子にとっては、神様みたいな人だった。

 高頭谷家の始まりとなった初代より素晴らしいと讃えられていたのに、少しも偉ぶった所がなくて、誰にでも優しくて、誠実な人だった。

 十年前、亡くなった時は、富喜子は勿論、彼を慕う者たちが、池ができそうなほどの涙を流したほどの、多くの人に慕われていた素晴らしい人だった。

 だが、だからこそ、当代と先代の差違に、富喜子は落胆せずにはいられなかった。

(‥‥‥せめて、もう少し、性格がましならねぇ。縁談が来てるって話しだけど、相手方のお嬢さんも可哀想にねぇ。外面だけはいいから、騙されているんだろうねぇ)

 富喜子は、また、吐息を吐き出して、それから、首を横に振った。

(ともかく、いまは、仕事、仕事)

 ここ最近、同僚が休みがちなので、富喜子はとても忙しかった。こんな所で、ぼんやりしている時間は、無いのである。

 だから、富喜子は、気合いを入れ直して、ともかく花の手配をしてしまおうと、事務部屋に行こうとして‥‥‥固まった。

────ひらり。

 富喜子は、見た。

 長い長い長い廊下の端で、なにか赤いものが、はためいたのを。

────ひらり。

 けれど、目を凝らしても、それが、なんなのか、富喜子には分からなかった。

(‥‥‥なんだろう?)

 不思議に思いながら、富喜子は、それに近付いた。それは、富喜子が近付いた分だけ、遠ざかった。ぱたぱた、と、軽い音を立てて、遠ざかった。

(‥‥‥子供?お客様?‥‥‥でも、そんな予定は、聞いていないけれど)

 疑問に思いながらも、不思議に思いながらも、戸惑いながらも、恐れを抱くことはなく、富喜子は、さらに、それに、近付いた。勿論、富喜子も、おかしいとは、思ってはいた。ここ最近、同僚たちが語っていた話しが脳裏に浮かびもした。

 だが、富喜子は、そんなことはあり得ない、と、ある意味盲信していた。

 幽霊が高頭谷家で出るなんてそんなことはあり得ない、と。

 なぜなら、高頭谷家は、その周囲は、神様に守られているからである。

 その加護は、高頭谷家が続く限りは続く約束だと、富喜子は先代からしっかりと聞いている。だから、幽霊など、ありえなかった。

 だが‥‥‥。

『ねえ、遊びましょう』

「え?」

 不意に間近から声を掛けられて、富喜子は、隣を見やった。

 そして、そこに、廊下の端でひらひらとしていた物を見つけて、凍り付いた。

『鬼ごっこをしましょう。私が鬼ね。頑張って、逃げてね』

 ごくごく当たり前のように語るのは、見たことのない少女、だった。

 緋袴、赤い着物、赤い帯を身に着けた、真っ黒な黒髪を、眉毛の上、肩の上で切り揃えた、美しいけれど、その美しい顔の向こう側が透けて見える、少女だった。  

『いーち、にーぃ‥‥‥』

 少女は、呆けている富喜子に構わず、真っ黒な目を閉じた。そして、ぞくぞくと寒気がする声で、数を数え始めた。その寒気に押されて、富喜子は、走り出していた。

 理性も常識もなにもかもが消え失せて、逃げなくてはいけない、捕まってはいけない、という、狂おしい気持ちだけに満たされて、走り出していた。

『血が続く限りは、この土地は、安全だよ。怖いものは、ここには来ない。絶対に。だからね、ふき、おまえは、なにも心配することはないんだよ』

 ああ、どうして、どうして、と、富喜子は、走りながら、思っていた。

 逃げ出しながら、泣いていた。

 絶叫するかのように心中で問い掛けていた。

(‥‥‥旦那様、旦那様、どうして、どうしてなんでしょう?)

 だが、その富喜子の、切実な問い掛けに、応える者は、何処にも居なかった。

(これから、どうなってしまうんでしょう?)

『さーん、しー、ごぉー‥‥‥‥‥‥』 

 答える声の代わりに、ただ、数を数える、寒々しい声だけが、響いていた。

 

 

     ※

 

 

 長年勤めていた古株の家政婦が辞める、と、申し出た直後から、高頭谷家内部にて、ある問題が、一気に、浮上した。そして、あってはならない問題が、噂話しとして、広がり始めていた。

 先代亡き後、先代の遺した、一人息子と奥方を支えて、高頭谷家の内部を取り仕切っている男、久々利清衡(くぐりきよひら)は、その噂話を、なんとかしなくては、と、悩んでいた。元々、薄くなっていた頭髪が、さらに薄くなってしまうほどに、思い悩んでいた。

 だが、どれだけ悩んでも、結論は、実は、決まっていた。

 できれば違う手段を取りたいが、難しいことは、明々白々だった。

 もはや、問題は、高頭谷家内部では片付けられない。ならば、外部からの手助けが必要だった。 特に、いまは、大切な時期である。当主の婚約と婚姻が間近に控えているのだ。

 噂話しの拡散は、絶対に、食い止めなくてはならなかった。

(‥‥‥しかし、そんなことを‥‥‥)

 自尊心が高すぎる当主と、さらに輪を掛けて自尊心の高い先代の妻を思い浮かべて、清衡は、頭痛を感じた。彼らが、それが必要で重要だと分かっていても、外部からの手助けに拒否反応を示すことは分かり切っていた。だから、どうしたものか、どうやって言いくるめれば良いのか、と、清衡は、悩んだ。

 事務部屋で、思い悩むその後ろ姿を、そこに居る筈のない着物姿の少女が、見つめていることには、まったく気付かずに。

『‥‥‥‥‥‥もう、終わりだよ』

 囁く声にも気付かずに、高頭谷家の名誉の為に、これからの為に、延々と、頭を悩ませ続けていた。

 

 

 

つづく

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ buck