‥‥‥‥‥‥‥
1
年の終わりの月が、物凄い寒波と共に、訪れていた。 秋は一瞬で終わり、いきなり、真冬が、すべてを、覆い尽くしていた。そして、そんな寒い寒い冬の最中、麻衣は、一瞬で過ぎ去ったはずの秋の後遺症に悩んでいた。 正確には、気候的には一瞬だったが、味覚的には結構長く満喫した、秋の、体重増の後遺症に。 つまり、ごく簡単に言えば、お土産のタルトをもう一つ食べたくて悩んでいた。 (‥‥‥あ、あと一個‥‥‥う、でも、体重がっっっ) お土産に貰ったタルトは、ほくほく栗と紫芋のタルトで、絶品だった。 しかも期間限定。昨日で販売期間が終了した人気商品で、いましか食べられないと思えば、もう一個が、どうしても、諦めきれないでいた。 「谷山さん、悩んでないで、食べちゃったらいいんですよ」 「‥‥‥でも」 「後から、体重落とせばいいじゃないですか。それに、細いから、少しぐらい体重を増やした方がいいですよ」 「‥‥‥」 「女の人の理想体重は、男から見ると、痩せすぎです」 「‥‥‥」 悩む麻衣に安原が、実に的確な追い込みをくれる。それを理由に、麻衣は、食べてしまいたかった。至福を、もう一度、味わいたかった。だが、だが、だが‥‥‥。 『‥‥‥少し、体重が増えたな。いいことだ』 そんなことを、恋人に言われてしまったので、なんだか、物凄く、悔しくて、簡単に納得もできなかった。 (しかも、あの人、あちこち触りながら言ったよ!もうもうもうもう最低!) これで言った当人がふっくらしていたら、多少は救われるのかもしれない。だが、残念なことに麻衣の恋人は、誰もが認める理想的な体型をしていた。運動もしているから筋肉だってばっちりだった。 (‥‥‥じ、自分が、痩せているからって!ナルの馬鹿っっ!) 麻衣の気持ちは、タルトから、やや斜めに移動した。そして、口に出せない鬱憤を、心中で、叫んだ。こういう時、秘密の恋人というのは、ちょっと辛い、と、麻衣は思う。秘密でなければ、安原さんに言うのは論外だが、女友達には、愚痴も言えただろう。それですっきりして、タルトを心置きなく食べられたかもしれないのに、と。 ────‥‥‥カラン。 「いらっしゃいませ」 悩んでいる間に、扉が、開く音がした。 麻衣は、振り返り、反射的に笑顔を浮かべて、挨拶した。 そして‥‥‥。 ────ぞくぞくっっっっ。 背筋を、激しく、震わせた。 (なに、これ、滅茶苦茶、さむっっっっ) その寒さは、途方もなかった。扉が開いて寒気が流れ込んだだけでは、到底、説明が付かないほどに。まるで、裸で、屋外に、放り出されたかのような寒さだった。 「‥‥‥ご依頼ですか?」 固まり動かなくなった麻衣を庇うように、安原が、席を立って、室内に足を踏み入れた小太りの中年男性に声を掛けた。安原の気遣いに、麻衣は、心底から、感謝した。そして、腹に、ぐっと力を入れた。 「‥‥‥安原さん、所長を、呼んできます」 「よろしくお願いします」 ここに居ては駄目だ、と、麻衣は、震える足を叱咤して、所長室に向かった。そして、怒られるのは承知の上で、ノックも無しに扉を開けて、中に、滑り込んだ。 「‥‥‥麻衣?」 「‥‥‥ごめ‥‥‥なる‥‥‥のっく‥‥‥よゆう‥‥‥なくて」 「‥‥‥どうした?」 「いら‥‥‥いらいにん‥‥‥さむい‥‥‥」 うまく言葉にできないまま、麻衣は、座り込んだ。そして、全身を覆う寒さに、がたがたと震えた。 「‥‥‥さむ‥‥‥」 「馬鹿が」 震える麻衣を、ナルは悪態を付きながら、抱き上げた。そして、すぐさま、奧のソファに座らせて、毛布を被せた。 「‥‥‥どうだ?少しはましになったか?」 「‥‥‥ちょっと」 「リンを呼ぶか?それとも、ジョンが必要か?」 ナルがどうして二人の名前を挙げたのか、麻衣は、分かっていた。依頼人が持ち込んだ気配に当てられただけならばリンが対処できるが、霊が食い込んで来たのならジョンが必要だからだ。 けれど、麻衣は、分かっていた。 二人では、駄目だ、と。 「‥‥‥ナル、お願い、ぎゅってして」 「‥‥‥分かった」 麻衣の頼みに、ナルは、すぐに、頷いた。そして、麻衣の望むままに、強く、抱き締めてくれた。 (‥‥‥ナルじゃなきゃ‥‥‥無理‥‥‥でも、どうして?) 強く抱き締められてほっとしながら、麻衣は、不思議だと、思った。 (‥‥‥どうして、ナルでないと‥‥‥駄目なのかな‥‥‥) 「‥‥‥大丈夫か?」 耳元をくすぐる暖かい声を聞きながら、麻衣は、ゆっくりと頷いた。 「‥‥‥だいぶ‥‥‥らく‥‥‥でも‥‥‥もう少し‥‥‥」 「分かった」 毛布越しにじんわりと伝わる暖かさを感じながら、麻衣は、悪寒が消えるのを、じっと待った。 そして、ふと、気が付いた。あまりにも寒くて気が付かなかったことに‥‥‥。 「‥‥‥なる‥‥‥また‥‥‥しおのかおりがする‥‥‥」 「同じ香りか」 「‥‥‥うん‥‥‥たぶん‥‥‥なんだか‥‥‥なつかしい‥‥‥」 潮の香りと暖かさに包まれて、麻衣は、どうしてか、泣きたくなった。幸せで幸せで暖かくて、だから、泣きたくなった。 「‥‥‥しあわせで‥‥‥でも‥‥‥なんでか‥‥‥かなしい‥‥‥」 「そうか」 麻衣は、思ったことを、つらつらと垂れ流した。 そして、そのまま、夢に、落ちた。
※
(‥‥‥谷山さん、大丈夫だろうか?) 真っ青な顔をしていた同僚を心配しつつ、安原は、油断無く依頼人と対峙していた。危機に対して、麻衣の直感は、お墨付きの超一流だ。そんな彼女が真っ青になるなにかを運んで来た相手など、警戒してもしても足らない。 だが、出だしの異様さに比べて、依頼人当人は、ごくごく普通の男性にしか見えなかった。小太りで温厚そうな感じだった。 「私は、笹田大二郎と言います。別荘の管理人をしております。お預かりしている別荘で、おかしなことが続いて、困っていたら、こちらを教えて頂いて、参りました」 安原が自己紹介すると、男は、名前を名乗り返しながら、名刺を差し出した。安原は受け取った名刺に目を通した。首都圏からほど近い有名な避暑地の地名と、名前だけが記された名刺だった。会社名などはない、個人の名刺だった。 (‥‥‥別荘の管理会社ではなく、個人、ということかな。別荘は、いまは、ピンからキリまでいろいろとあるが‥‥‥さて、どのクラスかな) 「おかしなことと言いますと?」 「‥‥‥人の話し声がどこからともなく聞こえてきたり‥‥‥足音がばたばたと響いたり、窓硝子が割れたり、それと、いつのまにか家具の配置が変わっていたことも」 「‥‥‥成る程」 「‥‥‥私は、実は、リストラに遭いまして、行く当てもなく困り果てて職安でこの職場を紹介して貰ったんです。お給料もいいし、待遇もいい。なにより、静かな所が好きなので、他の誰も居ない職場というのは、とても居心地が良いんです。だから、半年間、色々とあっても、私自身に実害が無かったので、ずっと、なにも無かったことにしていたのですが、この間、仲良くなった他の別荘番の方に‥‥‥お預かりしている別荘は、過去になにか事件があったとか。持ち主には、良くないことが起こるというので、ずっと買い手がつかなかったそうなのです。私の雇い主は、いまも国外に居る方で、たぶん、そういう細かいことはご存じなく、いまの別荘を購入されたんだと思いまして‥‥‥‥黙って放置しているのも、どうか、と、思いまして‥‥‥‥‥‥‥‥」 「そうですか。‥‥‥では、このご依頼は、所有者の方はご存じでない?」 「いえ、ご報告しました。私の一存では、とても決められませんから。ここのことは、他の別荘番の方に教えて貰いました。ほとほと困っていたら、信頼できる所だから頼んでみたらどうか、と。それを、雇い主にご報告したら、一任するからなんとかしておいてくれ、と。年内、あるいは、来年一杯は、帰国もままならないそうで、細かいことはすべて任せる、と」 「‥‥‥そうですか」 それはまた剛毅な依頼人だな、と、安原は思った。それと国外に居るというのが、少し、引っかかった。そして、伝え聞く話しぶりからして、たかが別荘一つに騒ぐことのない余裕があるようなのも、引っかかった。 (‥‥‥厄介なクラスの依頼人でないことを祈るだけですねぇ) 「それで、お願いすると、料金はどれぐらいになるのでしょうか?」 「あ、それは、詳細はこちらに」 「‥‥‥経費と謝礼だけでいいんですか?」 「この事務所は、心霊現象の研究の為に設立されまして、営利目的の調査は行っていないので」 「‥‥‥そうですか。良かったです。大体の予算みたいなものはお聞きしていたのですが、十二分に範囲内でした。もっと物凄く掛かるのかと‥‥‥びくびくしてました」 「この業界は、値段はあって無いようなものですからね。高い所は高いですから、きっと、それを考えてお値段を出されたのでしょうね」 「きっとそうでしょうね」 依頼人、正確には、依頼代理人は、少し強ばっていた顔に、笑顔を浮かべた。値段を聞いて、ほっとしたのだろう。その気持ちは良く分かるし、よくある反応なので、安原もほっとした。依頼、あるいはその場所は、危なそうだが、代理依頼人はまともそうだ、と。 「それでは、ご依頼の件は、所長にお話しして、折り返し、依頼をお受けするかどうかのご連絡をさせて頂きます。三日以内には必ずご連絡させて頂きます」 「はい。分かりました。どうぞ、よろしくお願いします」 男は、深々と、頭を下げた。素朴で誠実そうな男の態度には好感が持てた。だから、安原は、依頼を受けれたらいいな、と、思った。けれど、決定権は、安原にはない。 (‥‥‥所長はどう判断するかな?) 六割の確率で、受けない、と、予測を立てながら、安原は笑顔を浮かべて代理依頼人を見送った。
|
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ →buck