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 秋の終わり、冬の始まり、渋谷サイキックリサーチに、依頼人が訪れた。

 わざわざ予約しての相談だったのだが、生憎と、所長様のご機嫌と都合が悪く事務所に不在で、出迎えたのは安原だけだった。あるいはそれは幸運なことだと言えなくもないが、所長の論文の〆切日程を知っている安原は、最終的には不運な人だよな、と、結論づけた。

 そして、それが、妥当な人っぽいな、とも。

「‥‥‥占いなんて、くだらないものに手を染めて、本当に困っているんだ。しかも、食うに困るわけでもないだろうに、わざわざ働きたいなんて言い出すなんて」

 依頼人は、見た目は、品の良いダークグレーのスーツを身につけた、年収とキャリアが良さそうな男だった。実際、安原のその予想は外れておらず、肩書きも所属先も立派なものだった。

(年収一千万ちょいって所でしょうかね。まあまあかな)

「まったく、女は、家の中で大人しくしていればいいものを。あいつが、変なことに手を出した所為で、こっちは、えらい迷惑だ」

「その、占いですが、詳しいことは、ご存じですか?」

「詳しい?」

「いろいろと種類があるので。もしくは、どこの先生を師事していらっしゃるとか、どこかに習いに行ってらっしゃるとか」

 問い掛けつつ、安原は、知らないだろうな、と、予想した。

「‥‥‥知らん。なにかわけが分からないことを言っていたが、聞き流した」

「そうですか」

「そんなことはどうでもいいことだろう。お祓いでもなんでもして、さっさと片付けてくれ。それで、幾らだ?」

(うん。これは、もう、絶対、無理ですね)

 いろんな人間が依頼人として来るが、これは、また、とびきりの外れだなぁ、と、思いつつも、安原は、とりあえず、費用について大まかに説明した。

「‥‥‥必要経費だけか。それだけでいいのか」

「はい。この事務所の設立目的は、心霊現象の研究で、営利目的の調査はしていませんので」

「‥‥‥この謝礼と言うのは、本当に、こちらで決めてもいいのか」

「はい」

「‥‥‥‥‥‥」

 安原が頷くと、男は、暫し、沈黙した。

 そして、胡散臭そうな顔で、安原を、見た。

 大体なにを考えているのか安原には分かった。

(後から、ぼったくられると思っているんでしょうねぇ。ここの事務所の家賃相場ぐらいは理解できそうですし)

 どうやらお話しは所長に通すまでもなく無かったことになりそうだ、と、安原は予想した。

 同時に、ほっとしていた。ぴりぴりぴりぴりしていて、緩衝剤無しで近寄るとすぱんっと切られそうな所長に、こんなくだらない依頼人の話をするのは、安原だって嫌なのである。

 だが‥‥‥。

「分かった。では、頼んだ」

 依頼は、取り下げられなかった。

 予想が外れて、安原は、少しだけがっかりした。

 だが、予想が外れたので良く分かった。

 このタイプの男が、ここで引かないと言うことは‥‥‥。

(‥‥‥もう、かなり追い詰められていそうですねぇ)

 あるいは、だからこそ、先程から、暴言とも言える言葉を吐き出し続けているのかもしれない。 けれど、しかし、残念だが、引き受ける可能性は低いだろう。

「では、所長にお伝えして、折り返し、結果をご連絡しますので」

「至急で頼む。‥‥‥‥それと、私は、いま、自宅に居ない。携帯に出ない時は、ホテルフロントに伝言を残してくれ」

「‥‥‥分かりました」

 連絡先をメモしながら、安原は、もう一つ訂正した。

 都内の自宅にも帰れずホテル住まいをしている男は、かなり追い詰められているのではなく、限界間近まで追い詰められているようだ、と。

 

 

     ※

 

 

 論文の締め切り間近のナルは、切れ味の良い刃物みたいだ、と、麻衣は、いつも思う。

 勿論、その切れ味が、麻衣で試されることはない。

 だが、ぴりぴりぴりぴりしていてどんどん痩せていくので、麻衣は、毎回、心配で、胃が痛い。かといって、麻衣には、手伝うなんてことは、不可能だった。食事とか、書類整理程度は、なんとか手伝えるが、それ以上は、無理過ぎた。手伝おうなんて考えるだけ無駄な領域だった。

 だが、その日は、もう一つだけ、手伝えることが、増えた。事務所にある資料を取りに行くという手伝いが。ささやかなことだが、手伝えるのが嬉しくて、麻衣は、いそいそと事務所に向かった。勿体ないと思いつつも至急なので、タクシーを利用して。

 秋の終わり、冬の初め、外は、寒い。

 だが、区切られた空間、タクシーの車内は、さほどでもない。過ごしやすい適温だった。

────なのに。

(‥‥‥あれ?)

 事務所に近付くにつれ、麻衣は、寒さを感じた。

(‥‥‥冷房を付けたのかな?でも、こんなに涼しいのに?)

 暑がりの運転手さんなのかな、と、麻衣が見当違いなことを考えている間に、タクシーは事務所が入っているビルの入り口近くに横付けされた。

 途端、ぞくぞくぞくっっっ、と、もはや、誤解のしようのない寒さが、麻衣の背中を走り抜けた。 麻衣の暢気な勘違いを、蹴り飛ばすような勢いで。

(‥‥‥やばいかも。でも、もうすぐ事務所だし、事務所に駆け込んでしまえば)

 事務所には、リンが結界を敷いてくれている。

 事務所に駆け込めば、余程のことがない限りは大丈夫だった。

 むしろ、ここで、別の場所に逃げる方が危ない、と、麻衣は思った。

「ありがとうございます」

 慌ててタクシー代を精算して、麻衣は、タクシーを飛び降りた。

 途端、自分の選択が間違っていることを知った。

(‥‥‥うわ、さむっっっ‥‥‥)

 麻衣の目の前には、男が、立っていた。

 ダークグレーのスーツを着こなした、いかにも仕事の出来そうな男の人が。

 だが、その後ろには‥‥‥。

(‥‥‥真っ黒だ‥‥‥)

 なにか得体の知れない真っ黒なモノがべったりと張り付いていた。

(‥‥‥やばいやばい‥‥‥でも、慌てて、逃げたら、駄目。気付いていることに気付かれないようにしないと‥‥‥)

 麻衣は、必死に、その黒いモノから、意識を逸らした。そして、なんでもない振りをして、男の人と擦れ違った。

────‥‥‥‥苦しい。

────‥‥‥‥苦しい。

────‥‥‥‥苦しい。

 途端、真っ黒なモノの声が、聞こえた。

────‥‥‥‥苦しい。

────‥‥‥‥苦しい。

────‥‥‥‥苦しい。

────‥‥‥‥苦しい。

────‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥憎い。

 声は、地面の底を這いずるような、冷たい冷たい声だった。

(‥‥‥ずいぶんと性質(たち)が悪そう。あんなのに憑かれてたら大変だろうな)

 麻衣は、擦れ違った男を、哀れんだ。

 だが、どうすることもできないのだから、と、気持ちを切り替えた。

 けれど、少しだけ、ここで出会ったということは、もしかしたら、と、微かな、予感のようなものを感じた。

────底冷えするような悪寒と共に。

 

 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ buck